掌編小説【ワイシャツ】
お題「ベンジン」
「ワイシャツ」
母が洗濯機を回している。二槽式の古い洗濯機だ。
母はゴウンゴウンと音を立てて回る洗濯機の端を握りしめ、中で回っているタオルやシャツを見ながらなんでもなさそうにこう言った。
「昨日、お父さん帰ってこなかったの」。
私は食卓で朝ごはんを食べていた。ゴウンゴウン、ゴクン。洗濯機の音と味噌汁を飲み込む音が重なる。ゲホン、むせた。鼻がツンとする。食卓のある居間の障子は開け放たれ、隣の土間に置かれた洗濯機が見える。母は振り向かない。私は「うん」と言ったきり黙ったまま、母が言った言葉の意味を考えた。
一年くらい前、離婚話があった。その時はとりあえず別れる事にはならなかったが、もうほとんどそうなるのだと私は覚悟していた。父と母は何度もケンカしていたからだ。
一度、怒った父に食卓をひっくり返されたことがある。おかずが散らばり、鯨の脂身が畳の上に落ちた。ひらひらした白い脂身を母が泣きそうな顔でつまんでゴミ箱に捨てた。それは父の好物だったのだけれど。
両親が決めたことを子どもが覆すことはできない。私はただ、あきらめていた。まるで父が遠くに引っ越してしまうクラスメイトであるかのように「お餞別」はなににしよう、などと考えた。鉛筆でいいかな。小学生が思いつくのは文房具くらいだ。大切にとってあった鉛筆を2本、お気に入りの水玉模様の包み紙で包んだ。でもそれは父に渡さないまま机の引き出しにしまわれている。
「昨日、お父さん帰ってこなかったの」心の中でもう一度母の言葉を繰り返してみた。
もし、もう帰ってこないなら、お餞別は渡しそびれたことになる。でも、もしかしたら「今日は」帰ってくるかもしれない。
私は味噌汁とごはんを飲み込み支度を済ませると、「いってきます」とだけ言って家を出た。
そして45分間の授業を3時間くらいに感じながら、しかもそれを6回繰り返した後、私は走って家に帰った。
玄関を開ける。靴が一足だけ出ている。母のサンダルだ。私はゆっくり靴を脱いで、ちゃんと揃えて居間に上がった。普段は忘れることもあるけど、今日はそうした方がいいような気がしたのだ。でも父はやっぱりいなかった。
居間では母がアイロンをかけている。朝の洗濯物が乾いたのだ。
「ただいま」と言うと、
「ああ、これやっぱり落ちなかったわね」母は「おかえり」とも言わずに一枚の洗濯物を広げて独り言のようにつぶやいた。
それは父のワイシャツだった。
「ねぇ、そこのタンスからベンジン取って。一番上の引き出し」母は振り向いて私に言った。
ランドセルを背負ったまま、私は引き出しを開けて「ベンジン」と書かれた小瓶を出した。
「どうするの?」
「シミを取るのよ」
母はワイシャツの下にタオルを敷いて、別のタオルにベンジンを染み込ませ、上からトントンと叩いた。私は後ろからのぞき込んだ。茶色いシミが少しずつ下のタオルに移っていく。トントン、トントン、トントン。
シミはすっかり抜けたように見えた。でも母は叩くのをやめない。トントン、トントン、いつまでも叩いている。
「お母さん、もうきれいになったよ」私は小さな声で言った。
母は振り向かない。トントン、トントン、ワイシャツを叩き続けている。
「ねぇ、お母さん、きれいになってるよ、もう取れたよ」私は怖くなって今度はもう少し大きな声で言った。母の手が止まった。
「ほんと・・・」
「うん、ベンジンてすごいね」
私はホッとして、わざと明るい声で言った。
「そうね。すごいわね。こんなにカンタンに取れちゃうんだから」
母の手には白くなった父のワイシャツがある。
「すっかり元通り」
そう言うと、母はしばらくワイシャツを目の前で広げたまま動かなかった。だが、いきなり私を押しのけるように勢いよく立ち上がると、ワイシャツをクシャクシャに丸めて大きく腕を振り土間に投げ捨てた。
私は押しのけられて尻もちをついた。ランドセルが開いて教科書やノートが畳の上に散らばる。私は立ち上がろうとしてベンジンの小瓶を倒してしまう。
四つん這いになったまま、もうお父さんは帰ってこないんだ。そう思った。
顔を上げると母の肩が小刻みに揺れている。
土間に投げ捨てられたワイシャツは助けを求めるように右袖を伸ばしている。
倒れた小瓶からはベンジンが流れ続けている。その匂いは母と私のそれぞれの想いをかき乱すように、家中を覆い尽くしていった。
おわり (2020/8 作)