掌編小説【書初め】
お題「書初め」
「書初め」
妻と娘は初売に行くと言って出かけた。
元旦からショッピングか。風情のないものだ。だが一人で静かな時間もいい。ゴロリと横になってウトウトしていたら、ふと「墨」の匂いがした。そういえば今朝、娘が冬休みの宿題をやっつけると言って書初めをしていた。乾かすために机の上に広げたままだ。寝起きのぼんやりした頭で「初春」と書かれた半紙を眺めていたら墨の匂いとともに昔のことを思い出した。
あれはもう三十年以上も前のことか。私がまだ小学生の頃だ。薫子。そう、薫子と二人で書初めをしていたのだ。薫子は私の同級生で近所に住んでいた。冬休みの宿題だった書初めをどういうわけで一緒にすることになったのか思い出せないが、誰もいないシンとした居間で私は真剣に墨を磨っていた。墨を磨るのが私は好きだった。匂いも好きだし、なにより手を使う単調な仕事が好きなのだ。そんなわけで私は今も町工場の職人だが、一方薫子はそんな作業は大嫌いで、畳に足を投げ出した姿勢でせんべいをかじりながら、二人分の墨ができあがるのを私の手元を眺めながら待っていた。バリン、ボリン。
「ねぇ、まだできないの?」
「墨は力を入れずにゆっくり磨るんだよ。時間がかかるんだ」
「墨汁、使えばいいのに。私持ってこようか」
「もうできるよ」
薫子はせんべいの残りを口に放り込んで私の隣に回り込んだ。おさげ髪がはねる。せんべいがかみ砕かれる。バリン。
「墨っていい匂い」
「うん。でも薫子、せんべいくさいよ」
「おなかすいたんだもん。ねぇ、早く書こうよ」
私は筆と半紙を薫子に渡し、自分の分も机に置いた。
「なんて書く?」薫子がたずねる。先生からはいくつか候補を出されていた。
「ぼく、初日の出」
「ださっ。つまんないよ、そんなの」
私は墨を磨るのが好きなだけで何を書くかに頓着はなかった。
「じゃあ、薫子は何を書くのさ」私は少しムッとして返した。
薫子はわざとらしく腕組みしてしばらく天井をにらんでから、きっぱりと言った。
「七転八起」
「そんなの候補にあったっけ」
薫子はフンと鼻を鳴らすと、
「候補以外から選んじゃだめだなんて先生言ってないよ」と言った。たしかにそうだ。私はおとなしい優等生気質だったから、そんなこと思いもしなかった。感心しながらも少し悔しさもあって、
「でもなんで七転八起なんだよ」と薫子に聞いた。
「七回転んでも八回起き上がるなんてカッコいいじゃん。あしたのジョーみたい」
あたしもそうなりたいんだ。ちいさな声でつぶやくように付け足すと、それ以上は何も言わずにそのまま半紙に向かって書き始めた。私もそれ以上突っ込むこともできず、あわてて自分の半紙に向かった。筆を持つ薫子の顔は、せんべいをバリバリ噛んでいた先程までとはガラリと変わって真剣そのものだった。
「あいつ、八回起き上がったかなぁ」私は娘の「初春」を見ながらつぶやいた。「初春」は「やっつけた」だけあってヘロヘロの実にいい加減な筆運びだ。それに比べて・・と私は思う。
あの時、薫子が書いたものは私を圧倒した。
「・・すごいね」と小声でつぶやいた私に向かってかどうかはわからないが、静かに筆を置いた薫子はふうっと息をついて言ったのだ。
「うん、大丈夫、なんとかなる」。
なにを言ってるんだろう、と私は思ったが、それについてなにも聞くことはできなかった。薫子の目は笑っていなかった。
冬休みが終わって三学期が始まり、二月の末頃、薫子は突然引っ越してしまった。
父親の会社が倒産し、夜逃げ同然だったと後から聞いた。それ以来、薫子には一度も会っていない。どこにいるのかもわからない。
だがきっと薫子は起き上がっただろう。バリンという威勢のいいせんべいの音と、半紙からはみ出しそうなくらい太く力強かった「七転八起」が脳裏によみがえる。
私は顔を上げ、すでに高く昇った元旦の太陽の方に向かうと手を合わせた。
そして、どこか遠い空の下にいるであろう薫子のしあわせを祈った。
おわり (2021/1 作)
おもしろい!と思っていただける記事があれば、サポートはありがたく受け取らせていただきます。創作活動のための心の糧とさせていただきます☆