嘘の素肌「第14話」
十月に入り、ようやく風に秋の香りが混じるようになってきた。猛暑日が九月中旬まで引き延ばされた狂気の気候にほとほとうんざりしていたので、これから冬に近づいていくことが心なしか気分を明るくした。
千代田区にある国立近代美術館でリヒター展が六月から開催されており、和弥からは既に六回も行ったとの報告を受けていた。同じ展覧会に何度も行く気が知れないが、リヒターは和弥にとって大切な画家のひとりだった。
僕は特別画家に好き嫌いがあるわけではなく、印象派が比較的好みなぐらいのミーハーなのだが、それほど和弥が足繁く通う画家の作品に興味がないわけではない。気温が落ち着いてきたこともあって、久方ぶりに瑠菜を外へ連れ出そうと決めた。夏場は就労支援施設以外の外出を基本的に制限していたので、瑠菜からしても僕からの誘いは念願だったそうだ。言わずもがな、彼女が近代芸術に関心を持つはずもなく、僕と会って話をすることが目的なのだろう。別にそれでもいいから、最近の忙しない人間関係の休息として瑠菜に会いたかった。
近頃は梢江と莫迦みたいにセックスばかりをしていたので、僕の中の常識的な一般指針は多少なりとも壊れていた。セックスをして、梢江が泣いて、僕が慰めて、二人で死んじゃいたいねという妄想に浸る。僕は梢江を愛していたけれど、どれだけ愛しても一緒に死のうとは思えなかった。梢江に不満があるわけではない。仮に僕が心中相手を選べるとしたら、どの女でもなく梢江だった。麻奈美さんのように家庭があるわけでも、瑠菜のように病と向き合っているわけでもない。梢江は僕と同じ、何者でもない人だったから。ただ、死んでしまったら全てが終わる。僕にとって自殺は逃亡の手段でしかない。何者でもない僕が自殺をしたって、何も起こらない。それこそ無意味だった。
梢江と思想を介する機会が増えて気づいたが、彼女は見かけによらず案外聡明な女だった。季節ごとに自慢のウルフは色を変え、現在はシルバーという派手髪に気を取られ盲目を誘われるが、語りに意識を澄ませれば、彼女が秘める哲学には根拠と経験論が含まれており、僕はそういうギャップも含め梢江が好きだった。
「ヒヤマリはさ、自殺は予防すべきだと思う?」
自殺志願者でありながら自殺論者でもある梢江は、たまに僕へこのような質問をした。その都度、浅学さを図られないよう緊張感をもって回答に望むが、梢江が何を求めて僕に自殺の問いを言及してくるのかはわからない。
「まあ、ある程度は。自由意志が尊重されるべきだって考えもあるけど」
「私も同じ。自殺の予防は必要ないって言い切っちゃう、頭だけ良い人のクリティカルさはいらないんだ。やっぱり人は死なない方がいい。少なからず悲しむ人がいるうちは、ね。それにさ、確かに自由意志は尊重されるべきだけど、人に迷惑かけて死んだりするのはナンセンスだと思うの。死ぬならひっそり、首でも吊って死ぬべきだよね。それだって多少は迷惑がかかるんだから、もしヒヤマリが死にたくなったら、樹海にでも行って隠れて死ななきゃ駄目だからね」
「梢江を一人残して死んだりしないよ」
「甘っ。ヒヤマリらしいわ。でもさ、人が死にたくなるのなんていきなりだよ。人間には自殺の因子が大なり小なり存在していて、それが外的要因によって触発され、ぽっくりいっちゃうってこと平気であるから。死は人類にとって平等に与えられた権利でありゴールだから、それを個々人がどう扱おうと自由でしょ?」
ついさっきまでは「人は死なない方がいい」と言っていたのに、今この瞬間には自死を肯定している。それが梢江のやり方で、二つの視点から物事を鑑み、その狭間を反復横跳びし、自己の結論を叩き出したり、他者の価値観を炙り出す。驚いたのは、以前梢江の口から「両義性」という言葉が出たことだった。和弥と僕しか使わないであろう概念さえも持ち得る梢江は、やはり僕らと同様にこちら側の人間なのかもしれなかった。
「梢江の言ってることに一理はあるよ。でも、一理しかないね」
「いいじゃん、そういう返しができるヒヤマリの感性、私は好きだよ。だからね、私の自殺因子が膨れ上がり過ぎたら、破裂と共に死ぬんだろうなって今でも本気で思ってる。でも、空気を注がれ過ぎて破裂する風船みたいには死にたくない。程よく膨らんだ風船に、最期は自分で針を刺して割りたい。私の死生は、私だけのものであって欲しいから」
愛と死。きっと正解なんてあるわけがない問いが脳内を錯綜する毎日に心は疲弊していた。相手が梢江でなければ、自殺の正誤性などまともに取り合わなかったかもしれない。だからこそ、僕を制御するシステムである瑠菜とこのタイミングで顔を合わせるのは、自殺親和型の梢江に洗脳されてしまわぬよう、前向きに生きることの素晴らしさを体感するにうってつけだった。当たり前だが、瑠菜には梢江の話をしていない。偽物とはいえ兄としての役割を担っている僕が、破廉恥で下劣極まりない情事の感想や、初心な恋情などを赤裸々に、ましてや自殺肯定論などを吐露しようとは思えなかった。瑠菜は瑠菜。それでいいし、それが良かった。
実家まで瑠菜を迎えに行き、八王子から中央線乗り換えで東京駅へ向かった。電車を降りてからは瑠菜に歩速を合わせ、できるだけペースを落として美術館を目指した。僕らを背後から追い抜かす皇居ランナーに気を遣いながら、本来二十分で目的地に辿り着くまでのアクセス経路を四十分かけて歩いた。途中、瑠菜からはリヒターについて訊ねられ、僕は和弥の受け売りでリヒターについて話した。
ドイル最高峰の画家と呼ばれるゲルハルト・リヒターは、御年九十歳を迎えても尚作品を生み出し続ける現代アーティストであり、その長きにわたる人生の中で、ナチス、東ドイツ、西ドイツと様々な政治体制を生きてきた人物だった。今回の展覧会に多くの作品を借用したゲルハルト・リヒター財団、その設立のきっかけになった『ビルケナウ』は、アウシュビッツ強制収容所で密かに撮られた写真を元にイメージに作成されている。生きているうちに『ビルケナウ』を何度も自分の目で拝めたことを、和弥は一生分の幸福だと喜んでいた。
日本でもファンの絶えぬリヒター展ということもあり、開催から四か月以上経った今でも会場はかなり混雑していた。冷たい空気が張り詰める館内へ足を踏み入れ、瑠菜は僕の後ろに引っ付く形で作品を鑑賞していた。一つの作品に人が三人は張り付いており、瑠菜を気遣いながらの作品巡りはいつもと違って意識が鈍った。が、瑠菜が案外真剣に作品そのものや、説明書きを注視してくれたので、僕も昔の感性に立ち戻って、和弥だったら何を感じるのか思案しながらリヒターを楽しむことにした。
展示会場に入ってすぐ、『鏡、血のような赤』という硝子を真っ赤に塗った作品と出くわした。血のような、とタイトルには表記があるが、その作品は決して悍ましいものではなく、永遠に眺めていたくなるような、そんな深みのある赤をしていた。また隣にいた瑠菜も、その大胆かつ明瞭なリヒターの世界に、僕同様一瞬で魅入られているようだった。
二時間ぐらいかけて一通り作品を鑑賞し終えた僕らは、物販で気に入った作品のポストカードを何枚か購入した。瑠菜は基本僕の傍を離れなかったが、途中で退屈するような素振りはみせず、最後まで集中力を途切れさせずに退館までを過ごしていた。
美術館から東京駅へ戻り、僕らはKITTE内にあるカフェで一服することにした。
「茉莉くんが買ったポストカード見せて」
瑠菜は僕から渡された四枚のポストカードをじっくりと眺めながら「これね、あ、これもいいね」と、はしゃぎ調子のリアクションを溢している。
「僕と瑠菜、もしかしたら感性が似てるのかもね。和弥はそれ、別に特別好きそうじゃないから」
「そりゃあそうだよ。私と和弥より、私と茉莉くんの方が似た者同士だから」
自分で言って、瑠菜は照れていた。あどけない表情を誤魔化すように、彼女はオレンジジュースを飲む。ストローの先に小さな歯型がある。お前らやっぱり兄妹だよ、とも思う。
「茉莉くんがこの四枚を選んだ決め手は?」
「うーん、『花』は単純に描かれてる花が綺麗だったからかな。当たり前だろうけど、リヒターは絵がうまいね。ピントを奥の葉に合わせて、手前の花を暈けさせて撮った写真みたいなのが気に入った。部屋に飾ったら映えるだろうなって。『1999年11月17日』『アラジン』は他にも同じ手法の作品がいくつかあった中で、一番グっときたやつを選んだよ。『トルソ』は今回のパンフレットの解説を読んで、惚れたんだ」
裸の女性が膝を抱えている構図の『トルソ』は、リヒターの妻ザビーネを撮影した写真に基づく肖像画だった。解説によれば、——きわめて身近なモデルでありながら、どこか匿名の人物のように扱われていて、見るひとの欲望を掻き立てる古典的なヌードとも、親密な肖像画とも違っています。リヒターがかつてポルノ写真とアウシュビッツ強制収容所の裸体の写真を並べる展示を構想していた事実が示すように、彼の作品においてはヌードが常に両義的です。と、ある。この『トルソ』に秘められた両義性は、和弥の生み出す作品との共通点のみならず、まるで僕自身の生活を投影しているように錯覚させてくる魅力があった。
「瑠菜もポストカード買ってたよね。何にしたの?」
「私はね、『鏡、血のような赤』と『エラ』にしたよ」
「『エラ』は今回の展示会のポスターにもなってるからわかるけど、『鏡、血のような赤』はなんか意外だな」
「そう?」瑠菜が鞄から取り出したのは、一面真っ赤なポストカード。それを見つめながら、彼女は言葉を続ける。「私さ、病気のせいできっと皆より血を視る機会って多かったじゃん。だから血を視ると、不思議と安心するんだよね。作品の血は、私の血とはまた別の色だけど、私はこの色を知ってて、共感できる気がする。それがさ、この作品を良いなって思う人と同じ感覚になれてるみたいで、嬉しいんだ。私もやっぱり皆と同じだって思えるから」
「そっか」
痛みを知らずとも、血は彼女の身体に僕らと同じく流れている。ましてや痛みが伴わないからこそ、僕らより多くの流血と向き合ってきたはずだ。血の価値や意味に差異が生じてしまわぬよう、瑠菜はリヒターを通じて一般と同化しようと励んでいる。その無垢さに、近頃の僕の不純な心が段々と浄化されていく。一般を和弥と足蹴にし、麻奈美さんとの情事に耽り、梢江と死を美質に扱う陥落者である僕であっても、やはり守りたいものがそこにはあった。正しく生きること。”特別な”瑠菜にしか使えない言葉たちで感想を語る様子は新鮮で、芸術鑑賞と瑠菜の相性は悪くないように思えた。
「あとねあとね、ポストカードは売ってなかったんだけど、女の人が八人いる写真のやつも私は好きだったよ」
「『8人の女性見習看護師』だね」
その作品と対峙した際、僕はあまりに不謹慎なことを浮かべてしまった。退館後は即座に自分から除外した感覚を、瑠菜によって今一度、強制的に引き戻される。
『8人の女性見習看護師』は、アメリカのシカゴで起こった殺人事件の報道写真をもとに製作されたもので、シンプルに八人の女性の顔写真が並べられているだけの作品。時折リヒターはこのような形で、無名な被害者を度々モチーフとし作品を生み出していた。報道記事のセンセーショナルなテキストや凄惨な視覚的情報は削ぎ落し、ただ幸せそうな女性たちの表情のみを切り出すよう、あえて捉える。その手法を用いて彼は、あらゆるイメージの「等価」を狙っていた。
僕はその八人の女性の中に、知らず知らずのうちに瑠菜の姿を視ていた。下段の右から二番目の女性に、瑠菜の微笑みを無意識に納めてしまった。モデルの女性と顔が似ていたわけではない。もし僕が瑠菜の笑みを切り取って、その小さな枠に飾るないし描き、あえて「先天性無痛無汗症」という情報を付け加えず鑑賞したとして、等価に帰属した瑠菜にどれだけの価値を僕は見出せるのだろうか。慊りない問いに対する、僕の素直な解に悪寒が奔った。彼女が指定難病患者として産まれた以上、出逢いからこれまで、いやこれからもきっと、先入観の上で彼女を視ることしかできない。つまり、今更瑠菜を等価することができない、いや、したくないのだ。『8人の女性見習看護師』と対峙したことで、僕が瑠菜の傍にいて、贋の兄貴面をする理由に気づいてしまった。和弥の妹だからでも、僕が一人っ子だったからでもない。僕が何者でもないから、何者かである瑠菜を利用したかったのだ。痛みを知らない瑠菜にのみ、僕は価値を感じている。そういう最悪な、形容し難いどろついた感情だけが、当時からずっと僕を占めていたのかもしれない。
あの作品のコンセプトは、瑠菜から特別を奪う装置であった。僕が瑠菜を作品にしようと奮い立って彼女の肖像を描くとすれば、等価などはしない。痛みを知らぬ者の嘆きを的確に描写し、絶望の色を幸福の彩度に交えて、虚実の油画を生み出すだろう。無理に等価しようと意気込んでも駄作になるから、あえて大袈裟に、その変容と希少性を前面に、出し惜しみせずに瑠菜を描く。和弥ならどうだろうか。きっと和弥は、ただの瑠菜を描く気がした。あの日、花やアスレチック、天候や人物ではなく、ただの水道を描いた和弥であれば、難病患者の女ではなく、ただの妹を描くのだろう。どうしたって、僕はあの頃の和弥に勝てない。憧れが消えないまま、僕は大人になってしまった。だからこそ、早く証明して欲しかった。僕が信じた天才は、贋の天才ではなく、本物であると——。