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【三男に最近いつも言い聞かせているわが家の家庭内法と41歳アンネフランクの詩とネガティブ・ケイパビリティと】

※今回はめっちゃ硬いし長いしつまんない話です。よほど暇な人だけお読みください。

小一の三男はまだ幼児性の万能感で、親に「あれをして、これをして」といい、してもらえないとまるでこの世の終わりのように顔を真っ赤にして泣き喚き、また自分より下に見ている(らしい)次男や長男に「あれをしちゃダメ、これをしちゃダメ」と不当に行動を制限したり、当然のように力づくで指図をする。

母である私は、その都度その都度

「行動決定の権利はその人自身にあり、本人以外の周りの人間ができるのは【お願いすること】と【応援すること】だけだよ。」

と言い聞かせている。我ながら理屈っぽい家風だと思う。(もちろん年がら年中言うわけでなし、あまりにも三男の要求が目に余った場合のその都度である。甘えさせるべきところは甘えさせているつもりではある。)

私は、幼児だろうが老齢だろうが、障害があろうが、【意思決定】はその人自身の自由意思で決めるべきだと思うし、その決定の責任は本人が負うべきだろうと思う。

外で働く旦那に忖度して色々と「やってあげよう」と思うのは私の思いやり。思いやりは家庭生活の維持には不可欠だろうと思う。だけど、それがいつの間にか自分にとって【過度な努力】を強いられるものに感じたとしたら、それは率直に夫に話して負担を軽減できるか相談する。

自分を大事にすることが、ひいては家族を大事にすることだと最近気づいたから。かけがえのない自分をきちんと大事にすることで、家族のみんなを本心で大事にすることができるのだと思う。

まぁ我が家は旦那が【可能な限り責任を負いたくない】という信念?を持って生きているため、私が「今私が担当しているこれをやりたくないのだけど」と申し出れば大概は「やらなくていいんじゃない?」と返ってくる。

じゃあ代わりにやってくれるかといえばやってくれないのだが。家庭の共同経営者である夫から「やらなくて良い」、というお墨付きをもらった以上はやらなくても良いことになる。今まで義務だと思っていたものが、やってもやらなくても良いことになる。これの心理的な効果は大きい。

そうやって10年以上かけて家の中のいろんな義務を少しずつ手放して行った結果、私の担ってきたさまざまな責務は、「子ども達の生命維持に必要な案件」に絞られ、その他の大概は「やってもやらなくても良いこと」にカテゴライズされた。

自己犠牲を否定するわけではないけれど、そして家庭の中で主婦は比較的自己犠牲を強いられがちだけど、それを意思決定するのは主婦である私本人であり、自分が決定したことに【なるべく】不満は持たないようにしている。不満は決定する前になるべく解決しておくように。(あくまでなるべく)

家の中で私がやるのは、「やりたい」もしくは「やってもいい」と私が判断したことだけ。もちろんその結果家の中は散らかり放題だけれど、息子達は今のところ全く気にしない様子だし、旦那は知らん顔を決め込んでいるし、私もこれは我が家の現状では「しゃーない事だ」と受け入れて、片付けたい時に自由に片付ける。

これは随分とストレスフリーだ。もともと独身時代から家が散らかっているのは通常運転だったし、夕飯がポリンキーと納豆だろうが栄養さえ摂れていればあまり気にならないタイプなのだ。なにか物が無くなった時に探しながらついでに片付けることが多いかな…必要に駆られて。

そのかわり、と言ってはなんだけど、【息子達の前で自分の都合でイライラすること】を私は自分にあまり良しとしていない。(あくまでも「あまり」だけど)

【母親である自分が家庭の中で機嫌良く居る】、ということが、【部屋がいつも片付いている】ことよりも息子達にとっては精神衛生上良いことだろうと私は思っているから。

あとは、部屋が散らかっているのだから、そのデメリットに見合うだけのメリット(=母ちゃんいつも機嫌良い)を息子達に還元しなければ、さすがに申し訳ない、という私なりの責任の果たし方なのだ。

この件はあくまで私の考え方なのできっと異論のある方はいるだろうけれど、その異論は私のところへ寄せずに読んだ人の日記の中に自由に書いてくれたら助かる。

で意思決定。イマイチ日本の公教育ではしっかり教育されないのだけど、基本的人権として私が考える重要なものに【意思決定の自由】がある。意思決定の自由、という言葉そのものは日本国憲法には無く、おそらく基本的人権の中の自由権と呼ばれるものの中のトップバッターに挙げられる、【思想・良心の自由】に当たるのかな、と思う。

【自己決定権】を憲法改正や13条改定に伴う【新しい人権】に盛り込むかどうかというのが識者の間で議論されているというけれど、こちらのリンク先を読む限りでは、あまり国民にとって有益な改変にはならなそうな雰囲気が漂っている(^^;;

■ 「自己決定権」のあり方を考える ―尊厳死法制化・出生前診断をめぐる問題を中心に―
http://www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/1714akari_mizutani.pdf

なので、私が家庭教育で三男にくどくど諭している【意思決定の自由】は、上のリンク先や現在憲法関係で取り沙汰されている【自己決定権】とは切り離して考えて欲しい。

私にとっての【意思決定の自由】とは、たとえ親子であろうと子弟であろうと夫婦であろうと、自分以外の人間に、【本人の意思に反して】何かをやらせたり、無理矢理やめさせたり、行動を強要する権利はない、というもの。これが現在わが家で最も重要視されている家庭内法。家庭というのは小さな社会だ。

現行の憲法に【意思決定の自由】と明記はされないながらも、やんわりとした【思想・良心の自由】の中に含まれるものとして、家庭以外でも本質的にはこのルールは守られるべきだと解釈して私は社会生活を送っている。

つまりは冒頭に挙げた、

「行動決定の権利はその人自身にあり、本人以外の周りの人間ができるのは【お願いすること】と【応援すること】だけだよ。」

というところへ戻ってくる。

それ以上に相手に踏み込むこと、【思想の強要】をすることは、それがたとえ相手のためを思ってであっても、相手の人権を侵害する逸脱行為だと思う。

他人に【自分の望む何か】をして欲しかったら、ひたすらお願いするか、ひたすら応援する中で信頼を勝ち得て、相手自らこちらに歩み寄ってもらうしかないのだ。

ところが最近三男から以外にも、その辺りをかなり侵害される案件が立て続けに起こったし、私なりに比較的丁寧に説明しても相手からイマイチ理解されなかったので、その私の行き場のない怒りをちょっとした詩にしたためた。

この詩にメロディーをつけていつか歌になるかどうかまではわからないけれど、今回私の生に何の権利も責任もない他人から生き方にとやかく意見されるのがいかに不愉快かを身をもって体験したのは貴重な経験となったし、滅多に怒らない私がフツフツと怒った案件として、せっかくなので?日記に残しておこうと思う。

詩を紹介する前に、ちょっと話が逸れるけれど、この詩を作った時の私の脳内の背景を説明しておく。私の心の中には昔から、自由を愛するフランス人がたくさん住んでいる。そして彼らは自由の旗印のもとに逆らうものをギロチンにかけたり縛り首にしたりして、実はけっこう野蛮で過激なのだ。(もちろん心の中でね)

敗戦国として民主主義を【与えられた】日本と違って、王政から血みどろで勝ち取った民族は苛烈。そして民主主義を守るのは闘いだと知っている。そしてこのたび連休前に、第99代菅政権がスタートしたけれど、これから日本はどこへ向かうものやら。(前置き通り、ホントにかなり逸れたな)

そして頭の中は革命前夜のフランス人のわりに、思いついた詩の舞台は第二次大戦中のドイツなのだ🤣我ながらしっちゃかめっちゃか。でもそれがまた私らしい🤣

【41歳アンネフランクの詩(創作)】

あなたは私に拳を振り上げて
あなたのいうことをきかせることができるでしょう
けれどそうやって従順にいうことをきけばきくほど
私はあなたがキライになるでしょう

ときには私の命を奪うこともできる
あなた達の【常識】とやらで
私の手足をもいで首を縛ってガスを送って
あの恐ろしいナチスの軍人のように

いろんなありとあらゆる暴力によって
あなたは私の自由を奪うことができるでしょう

どんなに私を屈服させて
地面に膝をつかせても
私は生涯あなたを愛することはないでしょう

さようなら 私の心は自由です

あなたは私を屈服させる代わりに
温かいお茶を煎れて一緒に飲めばよかったのに
そうしたらきっと温かい愛情が生まれたのに

冷たいカップを一人で抱えて
あなたは満足?

愛し方を知らない哀れな人よ

さようなら
あなたの不器用な愛は
自由に空を羽ばたく鳥の羽を折って
地面に落とすだけ

地面を歩いては生きられない鳥もいるのよ
私はそんなのまっぴらごめん

さようなら 青い空が私を待っているから
さようなら 小さな小屋に未練はない
さようなら 愛されない人よ

次に会う時私は
二度とあなたの前では羽ばたかない
羽をもがれるのはイヤなのよ

力では心は手に入らない
覚えておいて
私は生涯あなたを愛することはないでしょう

■追記
久しぶりに自分のタイムラインで【ネガティブ・ケイパビリティ】が再発掘されたので(すっかり忘れていた)、上の政権についても性急に答えを急がずにひとまず思考を泳がせておこうと思う。

あと今日のワイドナショーでロンブーの淳がゲストで【HSP】についても取り上げられていた。今後この言葉はますます広がると思う。これはちょっと自分への覚え書き。

ネコも杓子もHSPという感じになるのはなんだかなぁとも思うけど、【特性】ということが特異なことではなくみなが持っている、という流れになるのは悪くはないとも思う。この件もネガティブ・ケイパビリティとして政権の行方とともにしばらく静観して行方を見守るつもり。

いやはや。読み直してみて、私って怒るとなんか気味が悪いというか、なんか怖い。感情とは真逆に淡々と理屈っぽい。ひたすらロジカルに走る。ロジカルに走りすぎて、せっかく最近芽生えてきた感情が消し飛ぶわ🤣怒るって感情じゃないのかしら…つくづく私って不思議だ。40年あまり生きてきて、自分のことが一番分からない🤣

#画伯三男の絵とかジオラマ ?とかJAFメイトとか尾道に出没したアマビエ様ならぬメジェド様ならぬピグモンとか
https://twitter.com/kirakiramamama/status/1307711615572127744?s=21

あと追記を書いていて思ったけれど、私の作った「薄日(はくじつ)」という歌は、ネガティブ・ケイパビリティの歌なのかもしれない、と思った。

ネガティブ・ケイパビリティっていうのは、ざっくり言うと理解不能なことや答えの出ない事態に耐える力のこと。論説で有名な帚木蓬生さんが本を出していて、今コロナの先の見えない時代を生き抜く力として注目されているチカラね。

薄日の歌詞の中にある、白黒ハッキリさせずにモヤモヤのまま、結論を急がずにグレーのまま過ごす決意と忍耐。自分の中にそういう強さがあることを、そういう思慮深さがあることを、ちょっと嬉しく思った深夜2時でした。(なんのこっちゃ)

■ 幽玄で美しい野焼きの風景と薄日(はくじつ)
https://youtu.be/4KQ5BN1WWHI

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