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【母と娘という呪い(共依存)と私のレゾンデートル(存在理由)】

いやー私の感じていたことをスッキリ言語化してもらった気がして、この方のnoteを10コくらい一気読みしてしまった。

▪️ 生き辛さは、親との関係性に結びついている。
https://note.com/fuliko/n/n97723e70ed70

また後で自分用に感想を追記するかも(しないかも)。※追記したらダイアリーに写真をつけます。←わりといつもこの作法。追記の目印。

母のことは大好きだしいつも全力で喜ばせてあげたいんだけど、しんどい、と思ってきた自分もいて。それって共依存なのかもねぇ。

世代間連鎖で、【共依存=愛】ってなっちゃうのかねぇ。わたしには娘がいないけど、もし娘がいたら娘も苦しんだのだろうか。それとも今息子たちも私の愛が重くて苦しいのだろうか?

(旦那いわくむしろ愛が足りない感じだから三男が私にくっついて回ってる、という…それはそれで問題アリだな…)

あ、でも祖母と母はネグレクト方向で、母と私は過干渉方面で、そして私と息子たちはまたネグレクト気味…世代間連鎖としては合ってるのか。(ダメだけど)次は過干渉のターン…でも息子たちはそんな感じはしないな…娘だったら違うのか。

でもこの人の別のnoteで、お受験で息子にキレ散らかされたお母さんの話も載ってたしなぁ…性差だけではない相性ってあるのだろうと思う。息子だって相性が悪い場合がある。

私は認知の歪みによって【愛情と書いてプレッシャーと読む】という意識がすごいので、息子たちはできるだけノープレッシャーで接したいと思っていて、なにかをやらせたい時は切々と損得を解くし、(私にとって「あなたのため」は禁句)誠心誠意お願いしてダメならあっさり諦めるし(ただし手を替え品を替えをするときはある。ワンチャンお願い、先っぽだけ!という感覚←例えに品がない)、旦那からは「愛情が感じられない」と不満をもらう。

旦那は愛情(=共依存)の怖さを知らないからそういうことを言うんだ。共依存の歪んだ愛は親の自己愛なんだぞ。子どもに向いてないんだから結局いくらもらっても満たされない上にプレッシャーが上に乗っかってるんだぞ。毒されるくらいなら愛情なんて無い方がいいと思うけどな私は。それも極端なのかな。どうなんだろうな。

月3で参加している「嫌われる勇気読書会」で前回かな、「嫌う」っていう感情には2種類あって、「満たされない支配欲(=気になって仕方ない=近づいていく)」と「生理的嫌悪(=視界に入れたく無い=離れたい)」だって聞いた。

これ母が祖母に向ける「大嫌い」は完全に前者なんだよな。もう全てにダメ出し。そんなに嫌なら見なきゃいいのに、と思ってたけど私の嫌い(=さよなりぃ)とは別の種類の感情だったんだな。

どちらも「嫌い」って名前が同じだからややこしい。

思い返してみたら身の回りにも過去に私に「嫌い=執着」を向けてくる人はいたな。事あるごとに悪意を向けてきて、「私に苦しんでほしい」、という意図が見える人…そうかあれは支配欲なのか。私は自分に支配欲が希薄だから気づかなかった。

今思えば愛着の問題がある人だったのかなぁ。

たぶんその人本人は見捨てられ不安が強いんだな。だからわかりやすく無視したり、周りから見える場所であからさまに私を見下してみせたり、私から周りを切り離して孤立させようとしたり…

でも私は幼少期からずっと集団からはみ出してきた言わば「プロぼっち」(=ぼっち力53万)なので、その攻撃は痛くも痒くもない…そもそも集団において孤立した状態がノーマルなのだよ、と肩をポムポムして差し上げたかった…

それで苦しむ状態はもう思春期に置いてきたのだよ。むしろ今は【お大師さまとふたり、同行二人】のお遍路さんじゃないけど、【自分と二人三脚】で常に自分の横に【自分に肯定的な自分】の存在を感じるので、外の世界で四面楚歌だろうとなんだろうと何も寂しくないのである…やばい人?

その人はきっと自分がされたら嫌なことを一生懸命私にしてくれたんだろうな。DJあおいさんがよく言うところの「自己紹介」ってヤツだな。ひとりになることは私は別に嫌じゃないよ。ひとりでいる時、私はむしろホッとするし自分と2人きりであると感じる。ひとり遊び上手、ここに極まれり。

まとまらんけど。

とにかくこの人のnoteは刺激になった。この人自身はまだ苦しんでそうだけど。早く自分との二人三脚で足並みが揃うといいね、と思った。(謎の上から…?)


追記・自己肯定感が高くていいね、なんて言われそうだけど高いのではなく、自己肯定をいったん「諦めた」のだ。自己肯定感が低い自分を受け容れた、というか。むしろ私はずっとはちゃめちゃに自己否定派だった。

過去に私は自己否定のあまり自分はトランスジェンダーだと思い込んでいたことがある。というか生まれつきずっと自分の女性性に自信がない。(小4まで第一人称がボクだった。)

けれどそれは、女性という集団に馴染めず性役割がうまくこなせない自分を誤魔化すための逃避だったのではないか、というのが最近の自己分析だ。それを認めたらとても楽になった。

あとは女性集団から排斥されがちな自己に対して、「お客さん」として下駄を履かせてチヤホヤしてくれる異性集団への憧れでしかなかったのかもしれない。性的価値による持ち上げ。

私の「自分の心は本当は男性なのではないか」という思いは、性的異和ではなく単なる性役割からの逃避と自己否定の歪んだ形だったのでは、と最近では思う。男性同士の嫉妬はすごいって言うし、男性の世界も同性には厳しいんだたぶん。

対等性からの逃避。その対等の性別としての、「同性」への嫌悪感と甘えでしかなかったんだろうな、と自分の男性性については思ったりしている。まぁ女性的情緒に欠けるところはあるにしろ、周りの女性像と違うからといって、【私という女性】を丸ごと存在否定する必要はないな、と思ったというか。私みたいな女性がいてもいいだろう、と間口を広げたというか。

今はもう自分のも他人のも性別とかまぁどっちでもいいし、私は私だなと思うのみである。女性への敵対心も昔に比べてずいぶん和らいだ。逆に男性への憧れもさほどなくなった。

今は逆に女性と「対等」に関係性を作ることに興味がある。利害や性的アピール以外の部分で人と関係性を構築したい。いや別に性欲と切り離した場所で対等に接することができるなら、相手は女性に限らず男性でも構わないわけだけど。

もうここらで性別を超越したいというか、中間性としての私の存在価値(レゾンデートル)を模索したいというか。

私の中でずっと【母なるもの=女性】への憎しみがずいぶんあったし、「実在の母」と「母なるもの」の存在がないまぜになって呪いみたいになってたんだけど、最近ずいぶんほどけてきたな、と思う。

幸せになる為の嫌われる勇気は、正しく嫌う勇気(執着を手放す)でもある、と前回の読書会で思った。反動形成的な嫌いは、自分へのダブルバインドでもあるので、苦しい。

自分の「嫌い」の感情(劣等感を含む)とじっくり向き合い、本当は近づきたいなら「嫌い」と思考停止するのではなく「本当は好きになりたい」と本音を言語化する方がいい。その上でその人は自分の思い通りにはならない、と支配欲を手放すか、相手からも好きになってもらえるように相手をケアする方向に向かうか。

自分の感情を読み間違わなければ人間関係が改善されて楽になっていくのではないかと思う。

母のように「許せない」が多い人は特に。母の場合は『嫌い』の本音を紐解くと、「ずるい(羨ましい)」「いたい(傷ついた)」「こわい(もう傷つきたくない)」が三大柱だろうと思う。まぁ老齢の母にこれを今さら言っても仕方ないので言わないけど。本人の生きづらさはともかく私の生きづらさを解消するために私は母の本音を分析する。愛の呪いを解くために。

総括すると?、結局人間は自分の脳みそを通してしか世界と繋がれないので、脳みその中を美しくするのが一番手っ取り早く世界を浄化する方法だと思うんだよな。この世がクソということは揺るがないので。親からの呪いに縛られてようと性志向がどうだろうと嫌いの定義が間違ってようと、その中にあってせめて美しいものを見たり感じたりしたいじゃない。(突然のテーマの飛躍…雑)

#今日のお歌 …【あいである】愛があるからこそ苦しいんだ。それでも愛を信じて手を伸ばすんだ。https://youtu.be/xl64-2D3MKs

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