一夜明けて…
※メンタリストDaiGo氏の炎上について書いています。精神的に弱っている人は読まない方がいいです。
【一夜明けて…】
ああ、小山田氏に続き、また時事問題を追いかけてしまった…(メンタリストDaiGo氏の炎上問題)
しかし人権・差別に関わる問題はどうしたって無視できないのよ…
優生思想も…
その先にあるのはウチの息子の生存に関わる問題だからね。そこは断固として看過できない。
コロナ禍でありとあらゆる負の感情が可視化されている。つらいけど、機会と捉える
#差別を許さない
#優生思想を許さない
毎日新聞が速報で記事にしてくれていた。中立の立場をとりながらも記事内で引用したコメントは全て批判的なもの。報道機関としてこれがギリギリのラインか。ありがとう毎日新聞。
#危険思想の肯定的拡散を止める
https://mainichi.jp/articles/20210813/k00/00m/040/001000c
内容を読むと、これは本当に看過できない。
社会的生産性のある人間しか生きていてはいけないというのは基本的人権を無視した優生思想に当たる。
社会不安のある情勢でアジテーションを受けると、大衆心理は安心を求めて思いもよらない方向に流されてしまう。過去の歴史から学んだはず。
今コロナ禍でまさに社会不安が蔓延している。わやわやと、不安で浮足だった心。今の困った状況を、誰かのせいにしたい心。みんなが苦しい。
「アイツが悪いんだ」
そんな一言で、重い犠牲を払って作り上げた人権尊重という考え方、精神の進化が、簡単に前時代的な価値観に引き戻されてしまう。
影響力のある人の発言は重い。影響力のあるメディアの責任も重い。本人の愚行も許されないけれど、それを容認する「空気」を作り出すことが怖い。
小山田氏の時には見過ごされ、認知度のある2誌がまるで武勇伝のようないじめの記事を掲載し、さらにはオリ・パラのクリエイターにまで起用して世界中から非難された。恥ずかしかった。私たち日本人はそこから何を学んだのか。
彼ら個人へ言いたいことは「あなたは間違っています」それだけだ。その上で、マスメディアの良心を問いたい。
インフルエンサーから得られる利益追求のために社会のありようをねじ曲げてしまっていいのか。
暴走する個人を押しとどめるのは良識ある人々の声だと思う。今回の件でDaiGo氏の推薦する自著本や翻訳本の帯を外して欲しいと働きかけたクリエイターや編集者もいた。
自分の生活の糧を得る場で、まして仕事を受ける立場で版元に声をあげるのはものすごい勇気だと思う。心からの敬意を。
Black Lives Matterの時は真っ黒な携帯画面をシェアした人がたくさんいた…アフリカ系アメリカ人(旧呼称・黒人)の方々以外にも。一人一人の声は小さくても集まれば大きな力になる。
制裁を加えたいわけじゃない。しかし、間違ったことには明確にNOの意思表示をしたい。しなければ。
間違ったことがノーリスクで通れば社会はそちらへ流れる。炎上させれば儲かると有象無象が模倣する。社会を支える倫理観が揺らぐ。そのとき真っ先に被害を受けるのは弱者だ。つまり、子どもや障害者や社会的立場の弱い人たち。弱い者は踏んでもいい、そんな社会は嫌だ。
アフリカ系アメリカ人の方々とその友人たちや支持者たちが黒い画面で掲げた抗議は、暴行致死をした警官個人に向けられたものだっただろうか?そうではなく、差別と差別を容認する差別意識という価値観そのものに向けられたNOだった、と私は思う。
私はホームレス差別をはじめとする、生産性で命の価値をはかる価値観に心から抗議する。その価値観は受け入れられない。断固としてNOだ。
もう大人なので、間違ったことを誰かがなんとかしてくれるのを待っているわけにはいかないけれど、NOを言うのは勇気がいる…自分がいつ間違わないとも限らないのだし。けれど。
注目が収益になる時代に「相手にしない」という意思表明もあるだろう。それは黙認や無関心とは違うものなので可能なら分けて捉えたい。うまく区別できる方法があればいいのに。
私は空気が読めない人間なのであまり得意ではない分野だけれど、「空気」が世の中を動かす、という現象を何度か目にしたことがある。ならばこれを間違っていると「思う」人が増えるだけでもきっと力になる…どうか念じて欲しい…彼らは間違っている、と。そういう人が増えるだけできっと世の中は変わる。私はそう信じている。
きっかけはDaiGo氏の発言かもしれない。けれどその発言を下支えするもの。それはもうずっとあった。弱い者を邪魔に思う価値観。さらに「それが本音だよな」と容認する価値観。そうした価値観に私は断固としてNOを唱える。
内面の自由はある。けれどそれを影響力のあるプラットフォームで発信するのは内面の自由を明らかに飛び越えている。
それをなんとなく容認しているうちに、世の中の「空気」が取り返しのつかないところまで行ってしまうことを私は引き止めたい。
私の声なんて小さくてなんの力もないけれど。
それでも声の力を信じて祈る。たくさん、祈る。
その後YouTubeで◯時に謝罪します、という予告がDaiGo氏から出たけど私は見に行かなかった。優生思想や差別を煽る発言での炎上を収益化させてはいけない。最悪2匹目のドジョウを狙う人が出てしまう。
謝罪動画の収益は全額寄付と言っているけれど知名度が上がり将来的に増える収益、その他の動画の閲覧数が倍増することで得る収益を思えば謝罪動画分を寄付したからなんだというのだろう。
人の命を利用した非常に悪質な金儲け。
これが続くなら有害情報発信のペナルティとしてアカウントを凍結してほしい。人権尊重、特に生存権を侵害するという社会の根幹をゆるがせ(忽せ)にする発言の拡散は許されない。
この状況を自社のプラットフォームサービスYouTubeで放置しているGoogleの企業責任も問いたい。広告収入の何%かを配信者とプラットフォームでシェアするわけだから、差別や人権侵害の動画で企業として収益を得ていることになり、「場所を貸しただけ」では済まない。
間違ったことが目の前で平気で行われているのを見るのはつらい。息子らよ、こんな恐ろしい価値観が若い人たちから出てくる、そんな生きづらい世の中にしてしまってごめん。
追記・謝罪動画の代わりに見た同じ時間の金曜ロードショーで、カンヌ映画祭での記者会見より、という、もののけ姫に込めた宮崎駿監督の思いが公開されていた。
もののけ姫の大切なテーマのひとつ…
「人はどうやったらコントロールできなくなってしまった憎悪をコントロール出来るのか」
憎しみのコントロール…実に実にタイムリーだった。あまりにタイムリーで呆然とした。私はその時まさにDaiGo氏の差別発言や小山田氏の問題、それを容認するメディアにコントロールできないほどの憎悪を抱いていたので…宮崎監督に見透かされたみたいに感じた。
サン:アシタカは好きだ、でも人間を許すことはできない。
アシタカ:それでもいい。サンは森で、わたしはタタラ場で暮らそう。共に生きよう。
森を壊され、育ての親とたくさんの仲間の動物たちをころされたサンは、強烈に搾取され蹂躙された弱者だ。「共に生きる」とはなんなんだろう。
内部で暴走する憎しみを、どうにかコントロールしてタタラ場と森で「彼ら」と共に生きていけるのか?と自問している…
※ 初稿は8/14朝、2回目の謝罪動画が出る前でした。
8/19追記・あれからいろんな人の知見を読んで、キャンセルカルチャーについて色々と考えた。それは私刑に当たるんだな、と改めて思った。「間違っているから罰を与えてやろう」、というのは相手が自分より強かろうが弱かろうがやってはいけないことだった。反省した。「ノーリスクで間違ったことが許されたらその価値観に歯止めがかからないから」、というのは私刑を行う自分の暴力に免罪符を与えるための詭弁でしかなかったと今になって思う。一時の激情に駆られて私刑を正当化して、それをさらに煽るような書き方をしたことを反省している。この日記で私はいくつか間違いをおかした。これからはNOを唱えることについてよく考えていきたい。NO自体がダメなのではない。差別的な「価値観」へのNOはいい。でもそれを象徴するシンボリックな「憎いアンチクショウ」に直接向けるのはダメだ。個人に向けた不買運動やプラットフォーム出禁にしようと呼びかけるのは、集団対個人で自分は集団の側で「罰という暴力」を与えている。人数差のある状態でそれをやればイジメの構造だろう。個体差では向こうが勝っても、数の上でこっちが圧倒的に有利なのだから。それはいけない。暴力は何も生まない。(勘違いしないで、理不尽を許したわけではないのよ。@ウィンリィ・ロックベル)もののけ姫でパヤオ監督が込めた思いしかり。自分の中の暴走する憎しみを、言葉を剣にしたりせず、拳を使わずに暴力に頼らずに解決していく道を模索していきたい。