恥の感覚
最近読書会で勧められて「自分の感情・感覚をじっくり味わう」ということを意識してやっている。
どうにも私のようなタイプは理性や言語化が先行しすぎて、感情や感覚が伝えてくる心の無意識領域からのメッセージを無視しがちだと指摘されたので。
不安が強すぎたりイライラしやすくて感情が不安定な人は無意識からのメッセージに振り回されているので言語化することで安定するのだけど、私のようなタイプは逆に言語化しすぎて感情や感覚からのメッセージをキャッチする力が弱まってしまっているので、あまりなんでもかんでも言語化しすぎない方がいいらしい。
なるほど、それは理にかなっていると思った。(理性優勢型)
なので、違和感や不快に思ったことをすぐさま言語化しないで、まずはそのモヤモヤを味わう。身体のどの部分がどんなふうに反応するのかを感じる、ということを意識してやっている。
あとはあまり合理的に状況分析から判断しようとしないで、快・不快で判断する練習をする。
「やらない、なんとなくイヤだから」
「やりたい、なんとなくワクワクするから」
みたいに、プライベートでどっちを選んでも構わないような場面では、できるだけ快不快を根拠に判断してみる。これを繰り返す。
まず快不快で判断して、それから「なぜ不快なんだろう?」「なぜワクワクするんだろう?」を分析するのはやってもいいだろうと思ってやっている。
(タスク記憶が弱すぎて、ただ感じるだけでは淡雪のごとく消えてしまう。で書き出すと、自然に分析めいてしまう)
先に状況判断せずに、一度わざわざ感情の回路を経由する。(ずっと使ってなかった回路をこじ開ける。)自分の感情感覚を置いてきぼりにしない、ということをやっている。
今まで意識してなかった感情の動きを少しずつ感じるようになってきておもしろい。
私のメンター的立場の人に言わせると、「感情は身体感覚」なのだそうで。
そうなると、ある種の運動神経みたいなものだから、感情をキャッチするのが下手な人、ニブイ人はいるのだろうなと思う。
感情が身体感覚って言われてすごくしっくりくるのは、私の周りでエモーショナルな感情優位な人ってだいたい子どもの頃から足が速かったり球技で活躍したりする運動神経の良い人だから。
頭より先に身体が動くって母もよく言っていた。
感情を感じるのも運動神経なんだろうな。そういう人はドカーンてよく噴火するみたいに怒ったり嘆き悲しんだりしてる。感情の運動量がすごい。モタモタしている私みたいなタイプはそんな風に神経伝達しないよなぁと思う。
で恥の感覚。
Twitterであるツイートを見てふっと理解したのがあるので残しておく。
「一度でも悪口を言ってしまうと、何の努力もせずに得られる優越感の快感が忘れられなくなる。そして、努力することができなくなり、ひたすらに悪口を言い続けることになる。そうなると後は落ちぶれ続けるばかり。そういう自分はどうなのか?と自問自答した方がいい。」
たまたまTLに流れてきたのだけど、これを見て『叱る依存が止まらない』を読んだ時に思ったことが蘇ってきた。
悪口は快感。ものすごい快楽物質が脳内を駆け巡る。そして依存性があってやめられなくなる。これはガチ。叱る依存も同じ。アレは正当化された悪口。
#悪口依存症
しょーもない悪口や叱責を繰り返して迷惑千万自分は被害者みたいな顔をしてる人を見てしまうと、あー脳汁出てるなぁ自分がキモチヨクナルためのおナニーに人を使うなよそんなの人前で堂々と公開して恥ずかしいぞぃと思う。
これを書いていて「恥ずかしいの感覚」について一個自己理解が進んだ。
私は恥の感覚が独特で一般的な恥の感覚がイマイチわからないんだけど、色んな人の「恥ずかしい」を分析した結果、生殖に関わることをあまり人前で大っぴらにしないことが恥の感覚の原点なのだろうとざっくり理解している。(異論は認める)
デアレバ、あの悪口を言って陶酔している様は生殖行為の悦と似ているので人前でやるのは一般的な感覚で言うところの恥に該当するのではなかろうか、と見ていて思う。
そういう意味では「花が美しい」という価値観もあまり持てなくて、「あれって生殖器だよなぁ」という感想を持ってしまう。綺麗なんだけど、私からしてみたらキレイなカタチのおっぱい、みたいな美しさとして鑑賞してしまうというか。
いや生命活動はすべからくとても美しくて素晴らしいものだというのは揺るがないけど、花の美しさ香りの良さはあくまで生殖のために身につけたものだよな、というのが前に来る。そして私は別に生殖を否定しない。クジャクとかキジのオスの美しさも、昆虫の残酷さも、みんな同じ線上にある命の美しさだと思う。花だけが特別ではない。
恥の感覚は奥深い。
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