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聖なる夜に花は揺蕩う 第1話 湖の底/「全10話」

 
【あらすじ】
 12月10日(金)、週刊誌『FINDERーファインダー』の事件記者・桐生きりゅう北村きたむらとカメラマンの岡島おかじまは秩父湖に来ていた。彼らは切断された遺体を発見する。きっかけは、今朝『FINDER』編集部に送られてきた手紙だった。いままでに5人殺害し、そのうちの1人を湖に沈めたという内容で、詳細な地図と免許証も同封されていた。手紙には、犯人の署名として円と十字の印が記されていた。円と十字の印を手掛かりに、桐生たちは残る4件の事件へと導かれていく。 



   

 12月10日金曜日

 
 子供の頃は、絶対の正義があると信じていた。悪は罰せられ、傷つけられた者の涙は報われる。正義はかならず勝つ。大人になったいまも、それが幻想だとは思ってない。諦めたら終わりだ。

 すでに日は傾いていた。アスファルトに落ちた枯葉が風に飛ばされていく。

 桐生きりゅうは立ち尽くしていた。視界の右側には秩父湖が広がっている。濁った水の中にスキューバ・ダイバーが二人いた。投光照明を浴びながら、ロープに吊るされた移動式ストレッチャーを誘導している。

 五時間前、桐生は水中ライトを持ち、岡島おかじまとともに湖底に潜っていた。水のなかを漂うおりがまだ髪にこびりついてる。

 切断された遺体は湖に沈んでいた。いくつものおもりを付けられて。

「で、おたくらは通報する前に遺体があるか、自分たちで確かめに来たのか」

 目の前の刑事が桐生を見た。秩父南署の尾崎おざきと名乗った男の顔には、いくつものしわが刻まれている。口調は軟らかいが双眸そうぼうは鋭く、人の内側に何があるのかを知り尽くしているような威圧感があった。ベテランの刑事であることは、その身にまとう空気でわかる。

「おかしな手紙は、ときどき編集部に送られてきます。もし手紙の内容が悪質ないたずらだったら、警察に迷惑をかけることにもなりますからね」

 特派記者の北村きたむらが抑揚のない声で答える横で、桐生は喉にせり上がってくる感情を必死に押し戻していた。グラビア班に所属する岡島は桐生のすぐ後ろに立ち、茫然自失で無言を貫いている。

 道路は黄色いテープで封鎖され、制服警官が桐生たちに背を向けて立っていた。道路脇に傾斜した小道があり、湖岸に出られる。細い吊り橋が掛かっており、向こう側の山へ渡れるようになっていた。

 湖面に視線を向ける。スキューバ・ダイバーが湖面に浮かび、移動式ストレッチャーがビニール袋を引き上げた。水しぶきが飛び散り、無数の光の粒となって夕闇に消えていく。

 きょう桐生がここへ来たきっかけは、週刊誌『FINDERファインダー』編集部に届いた一通の手紙だった。

 
   親愛なる『FINDER』の皆様へ
 
   良心の呵責かしゃくというものを、私が持っている
  などとは思いません。そうであれば、遠い昔
  に私は自分の生涯を閉じるべきでした。地獄
  へ堕ちる者には、地獄の門が見えるといいま
  す。
   でも、私にはまだ見えてない。だからこう
  して、あなたがたにお知らせするこにしまし
  た。どうか見つけてください。
   私はこれまでに五つの魂を闇に葬りまし
  た。どの遺体も未だに発見されておらず、
  単なる失踪事件として扱われています。
   警察には、事件の認識さえないかもしれ
  ない。このまま私が死んでしまえば、彼ら
  に申し訳ない。
   私が生きている限り、また人を殺すで
  しょう。
   どうか私を止めてください。でも、こんな
  手紙を送っても、きっと信じてもらえないで
  しょうね。
   そこで、五人目の遺体をどこに遺棄したの
  か地図に記し、同封しておきました。遺留品
  として免許証も入れてあります。
   なぜ私がこの女性の免許証を持っているの
  かを考えてくだされば、この告白が真実だと
  わかるはずです。女性の名前は瀬田絢子せたあやこ
   香霖こうりん大学の准教授です。
   あなたがたの幸運を祈ります。
 
            名もなき殺人者より

 
 手紙はワープロ文字で、余白に印が記されていた。正円のなかに二つの楕円が十字に重なるように描かれている。

 ことの真偽を確かめなければならない。潜水用のドライスーツとエアーポンプを装備し、地図に示された湖に着いたのは昼前だった。

 桐生と岡島が湖に潜り、遺体を発見した。遺体は両腕と両脚が胴体から切り離され、胴体は腹の辺りで二つに切断されていた。七つ目は頭部で、針金でいくつものコンクリートの塊が括り付けられていた。

「あと、どのくらいで帰れますか」

 北村の問いに、尾崎は目をすがめた。

「おたくら三人とも、第一発見者だからな。厳密には湖に潜ったお二人さんだが、おたくも自分だけ車で帰るのは忍びないだろ。一緒に署に来てもらうのがいいだろうね」

 尾崎は、道路脇に駐められた黒のSUVを見やった。北村の車だ。

「車は岡島君に運転してもらって、私は三峯みつみね口駅までバスに乗っていきますよ。それなら二人も帰りが楽だろうし」

 北村は振り返り、岡島に頷いてみせた。

「いや。おたくが記事を書くんだよね?」

 尾崎はベージュのトレンチコートの襟を立て、開いた手帳を眺めている。北村が「ええ」とうなずくと、かすかに口角を上げた。

「送られてきた手紙について、詳しく聞かせてもらわないといけない。今夜は東京へは帰れないだろうな」

 尾崎は空を見上げた。爆音を響かせてヘリが近づいてくる。テレビ局が事件を嗅ぎつけたようだ。

 警察が到着する前に、デスクの赤石あかいしに連絡を入れていた。岡島が撮った遺体の画像はパソコンから編集部に送信してある。北村は一刻も早く東京へ戻り、瀬田絢子の調査に取りかかりたいだろう。

 桐生はまだ記事を誌面に書かせてもらった経験はないが、想いは同じだった。岡島だって、一刻も早くここを立ち去りたいに違いない。

 尾崎の低く穏やかな声に、三人はただ項垂うなだれるしかなかった。

 
 その後、秩父南警察署で調書を作り、北村の車で鷹の台にある自宅アパートへ戻ったのは深夜二時すぎだった。青白いライトがエントランス横の集合ポストを照らしている。

 右手にはスポーツバッグを持っていた。ドライスーツやフットフィン、軽量の酸素ボンベが入っている。ドライスーツはダイビング中級ライセンスを取ったときに奮発して買ったものだ。ウェットスーツより厚みがあり、冬の海でも耐えられる。

 左手で取り出し口のふたを開け、チラシを掴み出した。デリバリーピザと駅前にできたスポーツジム。手紙の類はない。

 重い足を持ち上げて階段を上り、玄関で履き古したスニーカーを脱ぎ捨てた。コートを着たままリビングのソファーに座る。

 もし、人の心のなかに凶悪の花が咲いているなら、その花を見てみたい。それを世間に知らせることは間違ってない。むしろ暴き、公表するのは正義だと信じていた。見つけることを望んでいた。ネタが欲しい。スクープを掴みたい。

 どんなに出版業界が不況でも、スクープさえあれば週刊誌が売れることは北村が立証していた。自分も北村のような事件記者になりたい。

 だが、きょう湖で見たものは、想像していたものとはかけ離れていた。

 最初は、服を着せられた人形がバラバラに散らばっているのかと思った。二本の腕と脚が同じところに向きを揃えて置かれていた。白い指がやけにリアルで、桐生は顔を近づけ飛び退いた。

 その先に視線を向けると、顔があった。目は開いたままで、瞳孔が白く濁っていた。それ以上は見ていない。

 酸素ボンベを背負っているのに息ができなくなり、湖面へと必死に手足を動かした。陸に上がったあとも、まだ湖底にいるようだった。

 その夜は夢を見なかった。気がつくと部屋の電気は点いたままで、時刻は午前六時になろうとしていた。窓の外はまだ暗い。

 湖底の遺体が脳裏に浮かびあがる。黒い髪は水中をたゆたい、白濁した瞳が桐生を見つめている。

 記憶を振り払うように飛び起き、スマートフォンでGoogleを開いた。『FINDER』から速報が出ており、トップに表示された。瀬田絢子の名前は報道されてない。

『FINDER』は毎週木曜日に店頭に並ぶ。そのため、校了日に間に合わなかったスクープ記事はネットで一般公開する。ワイドショーやバラエティーが『FINDER』の記事を使用する際は使用料を取る。使用料は、今年一年だけで三千万円を超えていた。スクープにはそれだけの価値があるということだ。

 いま桐生が目にしている公開記事には秩父湖で遺体が引き上げられたことと、犯人から手紙が送られてきたことが書かれていた。円と十字の印とともに。

 
   

 12月11日土曜日


『FINDER』編集部は、麻布十番にある。午前七時を過ぎていたが、土曜日の地下鉄は空いていた。南北線の改札を通り、地下道を歩いていく。平日に見かけるビジネスマンはいない。それどころか駅員のほかには誰ともすれちがわなかった。

 階段を上りながら、出口を見上げた。四角く切り取られた白い光を見ると、いつもそこへ出たいと思う。光のなかへ。

 地上へ出て空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。吐く息が白い。

 一の橋交差点を左に曲がり、通りを渡ったところにある古びたビルへ入った。一階には月刊文芸誌『思想』の編集部がある。開けたままのドアから明かりが漏れていた。歴史と重みのある部署の前を通り過ぎ、階段を上った。壁はところどころペンキが剥がれ、ヒビが入っている。ビルは六階建てで、二階が『FINDER』編集部だ。

 ドアを開けると、奥の壁際のスチール机に北村が座っていた。ほかにはまだ誰も出社してない。

「桐生君、早いね。あまり眠れなかったのかい?」

「それが、帰ったら速攻で寝落ちしちゃったんですが、早朝に目が覚めちゃいました。ネットに上がったニュースを見たら、なんだかじっとしてられなくて……」

 コートを脱ぎ、鞄を自分の机に置いた。昨夜自宅まで車で送ってもらった礼を言い、流しへ向かった。コーヒーメーカーに水をセットしようと思ったが、すでにコーヒーはできていた。

「その気持ち、わかるよ。俺は家に帰る気になれなくて、ゆうべは編集部に泊まったんだ」

「うわっ、徹夜ですか」

「いや、俺も寝落ちした。気づいたら、机の上でよだれ垂らしてたよ」

 北村は苦笑いを浮かべ、机の上のマグカップを流しへ持ってきた。みんな自分のお気に入りのカップを置いている。北村のカップには「一朝一夕」と書かれていた。ちなみに桐生のカップには「歩くことを学べ!」と記されている。

 桐生は北村のカップと自分のカップにコーヒーを注いだ。

「岡島さんはビジネスホテルに泊まるって言ってたけど、ちゃんと宿取れたのかな」

 岡島は桐生の一つ歳上で、去年までアラスカにいたと聞いていた。ずっとフリーのカメラマンとして生計を立てていたが、今年の初め帰国し、春から『FINDER』で働き始めた。

「さっきLINEが来てたよ。現場の写真付きで、秩父湖の現場周辺はまだ規制線が張られてるって。小さな橋があったけど、しばらくは通行できないんじゃないかな」

「岡島さんは、また秩父湖へ行ってるんですね。やっぱりタフだな。アラスカにいただけのことはありますね」

 岡島も湖底の遺体を見ている。あの衝撃はしばらく残り続けるだろう。いまも冷たい水の中に浸っているような感覚だ。正義は果たされなかった。闇に消えてしまった。見失ったものを、この先見つけることができるのだろうか。

「しっかり写真も撮ってくれたしね。岡島君がダイビングのライセンスを持ってるっていうから、俺たちはあの現場を発見できたんたんだ」

 北村はコーヒーをすすり、一人頷いている。桐生も湖に潜ったことを忘れている。

「僕もダイビング中級ライセンスを持ってるんですけど」

「そうだったね。でも、もし桐生君だけだったら、デスクも潜って確かめてこいとは言わなかっただろう。ほら、水中写真て難しいしさ。それに桐生君は……」

 北村は言いかけた言葉を飲み込み、「ああ、そうだ」と話題を変えた。自分の席に戻り、パソコンのキーを叩く。

「寝落ちする前に、犯人の手紙に書かれていたマークを調べたよ。あれはコズミック・サークルって呼ばれるもので、カバラ魔術で信じられている強力な円らしい」

「犯人は、魔術を信仰してるってことですね。じゃあ、遺体を切断したのも儀式だったのかもしれない」

「あるいはゾディアックに憧れてるとかね。かなり古い事件だけど、桐生君も円と十字の印を見たことあるだろ?」

「デヴィッド・フィンチャーが撮った映画を、Netflixで観ましたよ。五十年以上前にサンフランシスコで五人が殺された殺人事件ですよね」

 犯行後に警察やマスコミに送りつけた犯行声明文に、円と十字の印が描かれていた。ケルト十字に酷似しているといわれたが、何を意味するのかは解明されていない。

「ニューヨークで模倣犯による事件が起こってて、それもNetflixで観ましたよ。その事件の犯人は捕まって、よかったって思いました」

「ニューヨークの事件では、遺体が発見されてたからね。失踪事件で遺体が発見されてないとそもそも事件だと認識されないから、被害者を見つけるのは難しいよ。昨日の手紙には、ほかに四人殺したって書いてあったけど、犯人が過去にあんな犯行声明文を送ってきた事件は記憶にない」

「……被害者は、行方不明のまま、どこかで生きていると思われているってことですか」

「そうだろうね。とりあえずあの円の印をアイコンにしているYouTubeチャンネルを見つけたから、メッセージを送っておいた。過去三年間に失踪した女性がいないか、もう少し調べてみるよ」

 北村の仕事の早さに唖然としていると、ドアが開いた。

「桐生君、もう出られる?」

 入ってくるなり、橘璃子たちばなりこが桐生に呼び掛けた。

「璃子さん、きのうの事件の速報、読みましたよ」

 璃子にコーヒーを淹れるため、桐生は食器棚から璃子のマグカップを取り出した。動物園で購入したというパンダの兄弟が描かれている。

 璃子は流しへやって来ると、せっかく出したカップを棚に戻した。

「岡島君が撮った現場写真も、続報で上げるってデスクが言ってたわ。私たちはこれから香霖大学へ行くわよ」

 璃子は桐生や北村と同じ特集班の記者で、桐生より二つ歳上の先輩記者だ。指示には従わなければならない。飲みかけのコーヒーを喉に流し込み、コートと鞄を掴んだ。

「わかってると思うけど、秩父湖の切断遺体は来週号のトップ記事よ。きのうのうちに瀬田絢子さんのSNSを調べといたわ。Facebookで繋がってる『友達』二十人にメッセージを出したところ、一人返信があったの。香霖大学の学生で、これから話を聞かせてくれるって」

 璃子は一呼吸おき、北村に視線を向けた。

「俺は手紙に書かれていたほかの被害者を探してみるよ。円の中に十字がある、あの変てこなマークが手掛かりになるかもしれない」

「北村さんなら、きっと見つけてくれるって信じてます。さあ、桐生君、行きましょう」

 璃子はロングコートの裾をひらめかせ、編集部の外へ出ていった。桐生が後を追いながら振り返ると、北村はスマートフォンを片手に持ちながら桐生に手を振っていた。
 

 香霖大学は渋谷に位置している。駅に着くまでに、SNSにどんなメッセージを送ったのかを璃子から聞かされた。編集部に送られてきた手紙のことは伏せ、瀬田絢子のことで訊きたいことがあるという内容を送ったという。

 麻布十番駅から大江戸線に乗り、青山一丁目で半蔵門線に乗り換えた。乗り換え時間を入れても渋谷まで十三分しか掛からなかった。

 改札を出て、入り組んだ地下道を歩いていく。ふだんは構内の出口表示をよく確かめながら地上出口を目指すが、きょうは璃子についていけば間違うことはない。

「璃子さんて、体のなかに方位磁石を持っているよね。雁の群れが迷うことなくラップランドを目指すみたいに、いつも最短ルートで目的地に向かうって凄いよ。『ニルスの不思議な旅』に出てくるアッカ隊長みたいだね」

 スウェーデンの作家・セルマ・ラーゲルレーフが書いた冒険物語を思い浮かべた。東横線の乗り入れ駅が地下に移動し、地下道は巨大な迷路と化したが、璃子は難なく地上出口へ出た。

「桐生君は、タンポポの綿毛みたいだよね」

「それって、頭がふわふわしてるってこと?」

 桐生は両手で髪を押さえつけた。今朝はジェルでセットするのを忘れていた。癖毛は収拾がつかないほど広がっているのが感触でわかる。

「髪がふわふわカールしてるのは羨ましいよ。私はカーラーやコテで巻いても直毛だからふわっとしないのよね」

 立体歩道橋を渡り、246号の坂を上っていく。

「湿気が多い日は大変だよ。髪が二倍に膨張するから、本当は長髪にしてゴムで縛りたいんだけど、そんなことしたら編集長に怒鳴られるからね。璃子さんのストレートヘアのほうがよっぽど羨ましいよ」

『FINDER』では、ごく一般的なビジネスマン・スタイルを推奨している。個性を主張するより、取材対象者に安心感を与えることが第一だからだ。

「でも、よかった。桐生君がダウンしなくて」

「え?」

「だって、遺体を直接見たんでしょ? 私たちは写真で見たからまだ衝撃が少なくて済んだけど、実際に水の底に沈んでるのを見たら違ったと思う。岡島君はきょうも現場に行ってるけど、きっとまだショック状態よね」

「そうだと思う。でも、アラスカで写真撮ってただけあって、タフだよ。あの写真を撮るなんて、僕にはとうてい考えられない」

 湖底で呼吸困難に陥ったことは言わなかった。

「アラスカって、オーロラが見えるんだよね。いいな。私も人生で一度は見てみたいんだよね。空が紫とかピンクとか緑になっちゃうんでしょ? きっとものすごく幻想的だよね」

 璃子は坂を上り切ったところで右に曲がった。前方に重厚な建物が見える。黒い門扉は開かれ、門柱に『香霖大学』と記されている。璃子は一度もGoogleマップを確認することなく目的地に着いた。と思ったが、璃子は正門を通りすぎた。

「桐生君は、行ってみたい国ってある?」

「子供の頃は宇宙飛行士になりたかったんだ。どこかの星へ辿りついて、新しい生命体と出会いたいって。でも、いまは僕が旅に出たら戻ってこれない気がするんだよね。都内でもよく迷うし、スマホがなかったら無駄に失踪するかもしれない」

 冗談のつもりだったが、璃子は神妙な顔で頷いている。

「綿毛って、どこへ飛んでいくかわからないもんね。知らない場所に行くときは、かならず予備のバッテリーを持ち歩いてね。行き先は誰かに伝えて」

 璃子は左手にあるカフェの前で立ち止まると、ガラス扉を開けた。

 店内は柔らかなライトに照らされ、入口横には緑が飾られていた。二人掛けのテーブル席が八つあり、奥の窓際席は四人掛けになっている。

 店内にいる客は桐生たちを除いて四人で、一人は初老の男性だった。新聞を広げながらサンドイッチを食べている。もう一人は上下グレーのスウェットを着た学生風の男で、コーヒーを飲みながらパソコンに向かっていた。あとの二人は若い女性で、生クリーム添えのパンケーキを食べながら笑い合っている。

 璃子が待ち合わせだと伝えると、窓際のテーブル席に案内された。取材対象はパンケーキの女子たちではないようだ。

 桐生は璃子の隣に座った。奥側の上座は情報提供者のために空けておく。璃子が瀬田絢子のページを桐生に向けた。

 顔の輪郭はシャープで、黒い瞳は強い光を発していた。まっすぐに画面に向けられた眼差しは、強い信念を感じさせる。緩やかにウェーブした黒髪は艶やかで、大人の芳香を漂わせている。免許証の写真よりずっと魅力的だ。

 桐生が手帳を取り出していると、背後で店の扉が開く音がした。振り向くと、店員に案内され、二人の男がこちらに歩いてくるのが見えた。

 一人は長身で、くっきりとした顔立ちをしている。パンケーキの女子たちが顔を上気させ、男を凝視していた。映画俳優と言われても通用しそうな美青年だ。
 その後ろを歩いてくる男も長身で充分に整った顔をしているが、美青年と並ぶと少し目が離れているように見えた。

 璃子と桐生は席から立ち、二人に名刺を渡した。長身の美青年は卯月嶺うつきれいと名乗った。後ろを歩いていたのが、メッセージに返信してきた富士原辰彦ふじはらたつひこだった。コーヒーを四つ頼み、璃子が口を開いた。

「二人は、瀬田絢子さんの生徒さんかしら」

「ええ。僕たち、瀬田先生のゼミで修論のレポートを書いているところです」

 富士原は、着ていたシャツの襟を引っ張った。

「じゃあ、二人とも院の二年生ね。卯月君もFacebookで瀬田先生と繋がってるの?」

 璃子が卯月に視線を向けた。

「ええ。でも、研究室のみんなが先生のSNSをフォローしてますよ。マスコミの方からメッセージが来て、どうするかLINEで相談したんです。みんな自分のレポートとか進路のことで忙しいって言ってたけど、話を聞いといたほうがいいと思って……」

「だから君たち二人が代表で来てくれたんだね?」

 桐生が笑顔を浮かべると、二人は小さくうなずいた。

「瀬田先生は、何かの揉め事に巻き込まれているんでしょうか」

 富士原は室内の温度が暑いのか、シャツの第一ボタンを外した。

「……先生は、ここ最近はどんな様子だったのかな。何か心配事があったとか、誰かに恨まれていたとか、君たち聞いてない?」

 桐生は質問に答える代わりに問い掛けた。

「とくに変わった様子はありませんでした。先生は、いつも俺たちの相談にのってくれました。みんな、先生を慕っていたんです」

 卯月はテーブルの上で指を組み合わせた。店員がコーヒーを桐生たちの前に置いていく。ソーサーにセットされたティースプーンとカップがぶつかる音が、沈黙を埋めるようにかすかな音を立てた。

 店員がアクリルの小さな筒に伝票を差して立ち去ると、富士原がふっと息を吐いた。

「瀬田先生は、しばらく大学に来てません。教務室に行って訊いてみたけど、休みだって言われただけで理由は教えてもらえませんでした」

「それは、何曜日だったのかしら」

「水曜だったと思います。でも、月曜から来てなかったのかも。お前、今週先生に会ったか?」

 富士原が卯月を見る。卯月は首を振った。

「……瀬田先生は、事件に巻き込まれたんじゃありませんか。あなたがたはその事件を知ってるんでしょ? だったら教えてください。先生に何があったんですか」

 卯月が桐生と璃子を交互に見つめていた。

「まだ、はっきりとは言えないの。でも、瀬田先生があなたたちに慕われていたことがわかってよかった。もし何か思い出したり気づいたことがあったら、いつでも連絡して」

 璃子は伝票をつかみ、席を立った。会計を済ませ、テーブルに視線を向ける。富士原が小さく頭を下げた。卯月は険しい顔でこちらを見ている。二人を残し、桐生と璃子は店を出た。

「二人とも、事件に巻き込まれたって気づいてるかも」

 桐生がカフェを振り返った。

「警察が身元を断定するまではこっちも話すわけにはいかないからね。いくら免許証があっても、遺体とは別人の可能性だってあるし」

 駅に向かって歩きながら、璃子は唇を引き結んだ。

 コートのポケットからスマートフォンを取り出し、LINEを確かめる。岡島は秩父湖の現場写真を特集班のグループLINEに送ってきていた。重大事件の情報は、このグループLINEで共有する。写真が増えていた。ダークスーツの男たちが秩父南署の門を通って行く写真だ。秩父南署の刑事たちだろう。

「岡島さんからLINEが来てるよ。もうすぐ秩父南署で警察の記者会見があるって。いつもの通り週刊誌は締め出されるから、広報文の入手をお願いしますって。これはデスク宛てかな」

 記者クラブに渡される広報文は、『FINDER』と旧知の大手新聞社・東光新聞から入手している。

 そのとき、桐生のスマートフォンが鳴った。着信画面には『東光新聞・高輪』と表示されている。画面をタップし、耳に押し当てた。

「桐生君、ネットの速報読んだよ。犯行声明分が送られてきたのは『FINDER』だけらしいね。桐生君が第一発見者だって聞いたよ」」

 高輪の声が流れ出す。東光新聞のエース記者で、桐生がアシとして取材する現場の先々で遭遇するうちに、よく声をかけてもらうようになっていた。

「あの事件の第一発見者が僕だって、誰から聞いたんですか」

「あれ? 言ってなかった? 俺、四月から埼玉支部に配属されたんだよね。報道局のヘリも飛んでるし、こっちは大騒ぎだよ。遺体は七つに切断されてたんだってね」

 高輪はソフトな喋り方で人当たりもいいが、情報を聞き出すまであきらめない。夜回り取材で捜査員から聞き出したようだ。

「警察は、遺体の身元を断定したんですか」

「いや、まだだよ。でも、頭部が見つかってるから、歯の治療痕を調べればじきにわかるだろう。犯人は遺体の身元を隠す目的で遺体をばらばらにしたんじゃないってことだね」

「ええ。僕たちに見つけて欲しかったんだと思います。手紙には、遺体を遺棄した場所の地図も同封されていました」

「ひぇっ。だから桐生君たちは現場へ行ったのか。ちなみにその手紙、どんな感じだった?」

「どんな感じって……」

 言葉に詰まる。

「文章から受ける印象とかだよ。粗野な言葉遣いだったとか、誤字とひらがなだらけで、中学生が書いたような幼い印象だったとかさ」

「文章に幼さは感じられませんでした。むしろ普段からよくものを考えているような印象を受けました。〃良心の呵責〃について言及されていました。そういうものを、自分は持っていないって。きっと社会に適応していますよ。誰からも異常だとは気づかれてないって気がします」

「その熟語って、“良心の呵責に苛まれています”って使うのが一般的だと思ってたよ。遺体を切り刻むような殺人者は、言葉の使い方が違うっていま知ったよ。あ、こっちはもうすぐ会見があるから、また連絡するね」

 高輪はそれだけ言うと、桐生が返答する前に通話を切った。

「北村さんからLINEが来たわ。手紙に書かれてた円のマークと繋がりのある女性を見つけたんだって。その女性、五月に失踪してて、いまだに行方がわからないみたい。女性の知り合いの男性が取材に応じてくれるって。明日の午前十時に新宿三丁目なんだけど、桐生君行ってくれる?」

「了解。これから編集部に戻りますか」

 特派記者の北村は、普段は独自のネタを単独で取材している。数多くのスクープをモノにしてきた北村からは学ぶことがたくさんある。アシとして同行できるだけで嬉しかった。

「いえ。手紙に同封されていた免許証の住所に向かいましょう。近隣住民から話が聞けるかもしれないでしょ」

 璃子は桐生を一瞥し、駅へ向かって歩き始めた。
 

「第2話」https://note.com/kipris/n/nd1368a92f13d

「第3話」https://note.com/kipris/n/n0f161b35014e

「第5話」https://note.com/kipris/n/n3bb275bf0498

「第6話」https://note.com/kipris/n/n5a131e0430fc

「第7話」https://note.com/kipris/n/n21f46ad223c9

「第8話」https://note.com/kipris/n/n3e50cd1f70f1

「第9話」https://note.com/kipris/n/n3dc6c3333b4b

「第10話」https://note.com/kipris/n/nd93a212fbde5