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黒い花の屍櫃(かろうど)・5 長編ミステリー

『黒い花の屍櫃・1』はこちらから

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 藤田から話を聞いたあと、ほかの『sorbet』の会員にも取材したが、手紙に書かれていたような高額な贖宥状しょくゆうじょうの販売事実は掴めなかった。むしろ悪魔に憑かれた青年がいることで、儀式にはなんらかのパワーがあるのかもしれないと思わざるを得なかった。

『sorbet』の記事が出たのは、翌週の木曜日だった。「黒い花に秘められたヒーリング・パワー」と題し、『黒い花の屍櫃かろうど』のモノクロ写真と共に掲載した。写真は梶木の応接間に飾られていたものだ。

 記事では、梶木から聞いたシャーマンの儀式と、シベリアおよび中央アジアの民群のなかで世襲されているシャーマニズムについて簡単に紹介し、最後に久利生が悪魔に取り憑かれたことと、悪魔祓いを受けていることを匿名で載せた。反響は大きく、「自分も悪魔祓いを受けたい」という電話がひっきりなしに架かってきて、『FINDER』編集部は対応に追われた。

 さらに四日経った月曜日に桐生が出社すると、手紙や葉書も届いていた。

「こんなに世間が悪魔に関心を持ってるなんて驚きよね」

 璃子は葉書や手紙の束を一枚一枚確かめ、差出人住所が記載されているものと無記名のものをり分けながら桐生の机に並べていく。

「次の祓魔式ふつましきは今週の土曜日だから、セッションが終わったあとに久利生君を訪ねてみるのもいいかもね。もしかしたら悪魔が立ち去ってるかもしれないし」

 桐生は並べられたものに視線を落とした。どれも宛名は手書きで記されている。そのうちの一通に目が留まった。白い封書に宛名がワープロ文字で印字されている。手に取って裏を見ると、こちらもワープロ文字で「R・J」と記されていた。

「R・Jさんからまた手紙が来てるよ。『sorbet』の記事への抗議かもね」
 抽斗から鋏を取り出し、封を切った。きっちり三つに折られた紙を開く。

 『FINDER編集部御中』

 まず、あなた方が一読者の声に耳を貸し、迅速に対応してくださったことに感謝申し上げます。ただ、先日掲載された『sorbet』の記事には、はっきり言って失望しました。
 あの記事では、まるで『sorbet』の主宰者・梶木には精霊の力が宿っているかのように読み取れてしまいます。仮名・林真一はやししんいちさんに悪魔が取り憑いたのは、彼に人知の及ばぬ力があり、悪魔を引き寄せたからではないでしょうか。つまり、梶木に精霊の力があったからではない、と申し上げたいのです。

 林真一とは、久利生の仮名だった。身元が露見しないよう、年齢も三十代の男性をイメージして書かれていた。

 あのような邪悪な集団があるから、林さんのような方が被害に遭うのです。本来呼び覚ますべきは、悪魔と判然がつかない精霊などではありません。そんなものに、人の心を癒す力などあるはずがない。
 神は死んだと宣言した超人は、暗黒に呑まれてしまいました。神は死んでなどいません。ただ眠っておられる。真の儀式とは、神を目覚めさせるためにあるのです。それを私が証明しましょう。あなた方はその目で確かめ、記事にしてください。この世界を覆う閉塞感を打ち破り、新たな光を差し込むのは神のみであると知らしめてください。
 次号の『FINDER』を心待ちにしております。

                            R・J

 紙は二枚あり、簡単な地図と住所が記されていた。封筒の消印は二日前の日付で『牛込』と押されていた。

「これ、なんだかヤバそうな手紙だよ。神を目覚めさせるって、いったいどんな儀式を指してるんだろうね」

 手紙を璃子に渡し、記された住所をスマートフォンで検索してみた。住所は実在している。

「私もこれは嫌な感じがする。ただの悪戯かもしれないけど、そうじゃないかも。行って確かめてみよう」

 つねづね鳥居から「五感を駆使して取材しろ」と言われている。「ヤバそう」で「嫌な感じ」がするなら行くしかない。桐生はコートを掴み、璃子と共に編集部をあとにした。

 麻布十番駅で南北線に乗り、四谷で中央線に乗り換えた。立川駅から名称が青梅線となり、奥多摩駅に着いたのは正午過ぎだった。山の別荘のような外観は趣がある。駅の背後には山が聳え、青空が広がっていた。

「お腹減ったね。何食べる? 老舗の定食屋があるみたいだよ」

 朝食を食べる習慣のない桐生の腹がさっきから鳴っている。電車内ではひたすら「奥多摩・おすすめランチ」を検索していた。

「オートファジーって知ってる?」

 璃子は飲食店が並ぶ通りとは反対方向へ歩き出した。前方にバス停があり、三台のバスが駐まっている。

「聞いたことあるよ。断食するんだよね?」

「『オート』はギリシャ語で自己という意味なの。ファジーは『食べる』、つまり細胞が自己成分を分解する機能ってこと。食事と食事の間を十四時間から十六時間あけて胃を完全に空にすると、オートファジーが働き出して、古い細胞が生まれ変わるみたい。私、昨夜は十時に夕食を食べたから、あと二時間食べないでおきたいんだよね。桐生君も、一緒にオートファジーで若返えろう」

 璃子は健康オタクで、桐生の高すぎるコレステロール値を気にしている。

「あと二時間がんばれば、若返るんだね」

 空っぽの胃袋が異議を唱えるようにグウと鳴った。

「内臓脂肪も分解され、目の下のクマもなくなるみたい。それにちょうどあのバスに乗れば、手紙に書かれている住所まで二十分くらいで着くはずよ」

 昨夜桐生が食事したのは深夜十二時過ぎだった。二時までやっている近所の居酒屋で、一人ビールを飲みながら餡かけ五目焼きそばと牛すじ煮込みを完食していた。だから目の下のクマが濃くなっているのか。天パの髪はきょうも好き放題に跳ねまくっている。これ以上クマが濃くなったら人相は指名手配犯だ。

「いいよ。仕事したあとの飯はおいしいからね」

「さすが『綿毛君』ね。急ぎましょう」

 それはいったいどういう意味かと問いただしたかったが、桐生は肩をすくめてバス停へ向かった。

 倉戸口くらとぐちでバスを降り、桐生は辺りを見回した。道の左側は樹林で、右手には奥多摩湖が広がっている。空気は冷たく澄んでいた。

「方角はこっちね」

 璃子はグーグル・マップを一瞥し、歩き出した。腹の虫は何度鳴いても無駄だと諦めたのか、もううんともすんとも鳴らなくなっていた。

「璃子さんて、前世は渡り鳥の隊長だったんじゃない? 体内に方位磁石が埋め込まれてるでしょ」

「それをいうなら、桐生君はタンポポだね。黄色の花より綿毛のほうがイメージかな」

「子供の頃、植物だったらいいなって思ってたことはあるよ。二酸化炭素を酸素に変えられるなんて素敵だよね。できればタンポポより杉がいいな。たくさんの緑に囲まれて、毎朝鳥の囀(さえず)りを聞くんだ」

 璃子のあとを追いながら、鬱蒼(うっそう)と茂る大森林を思い浮かべた。雨上がりの葉に載った水滴に光が当たり、きらきらと輝いている。

「でも、杉だと動けないから、人間に切られちゃうよ。タンポポの綿毛なら、ふわふわ飛んでどこへでも行けるでしょ。前から思ってたけど、桐生君の髪の毛って綿毛みたいだよね」

「そういうことか。これでもきょうはマシだよ。晴れてるから。髪一本一本が好き放題に跳ねるなんて、栄養を無駄にしてるよね」

 桐生はふわふわ持ち上がる前髪を押さえ付けた。

「みんなそれぞれに主張があるのよ。たぶん、あの家ね。ほかに建物はないし。空き家っぽいわね」

 璃子はスマートフォンで位置を確認し、眉を顰(ひそ)めた。枯れた草むらのなかに古びた木造の平家がある。

「不法侵入って言われたら嫌だから、ちゃんと手紙は持ってきてるよ。ちょっと呼び掛けてみよう。『FINDER』です。どなたかいらっしゃいますか」

 枯れ草を踏みしめながら敷地内へ入っていく。枝に留まっていた鳥たちがいっせいに飛び立った。門扉も塀もない。家の後ろは竹林で、ぎっしりと笹が生い茂っていた。人の気配はない。ドアはアルミで、横に窓があるが雨戸が閉められている。

「どなたか、いらっしゃいませんか」

 璃子はドアに近づき、桐生を見た。

「このドア、開いてるわ。なかに入ってみよう」

 アルミのドアはしっかり閉められておらず、壁との間に二センチほどの隙間がある。

「きっと空き家だね。ここまで来たんだから、覗いてみよう。祭壇に竹林の神でも祀られているかもよ?」

 桐生は先陣を切ってドアを開けた。室内は薄暗い。床は一面板張りで、舞い上がった埃はドアから差し込む光に照らされ、白い帯のように伸びていた。部屋は横に長く、仕切る棚や壁はない。

 吹き込んだ風に、何かが乾いた音を立てた。音がしたほうへ視線を向ける。枯れ葉は右側の床に溜まっている。雨戸は閉まっているのに、どこから入ってきたのか。枯れ葉はドアから吹き込み、右側へ押しやられたのだろうか。

 桐生は枯れ葉の敷き詰められた床に近づき、首を傾げた。枯れ葉だと思ったものは、花だった。茎も葉もない。しゃがみ込み、花を手に取る。薔薇か。

 ドライフラワーかと思ったが、違う。幾重にも重なる花弁は、黒い紙でできていた。剣弁高芯けんべこうしんに切り取られた花弁は、大輪の薔薇を模している。これによく似た花を、桐生は数日前に見ていた。『sorbet』の主宰者・梶木の応接間に飾られていた樹脂の箱には、黒い花が敷き詰められていた。蓋に刻まれていた金色の文字が浮かぶ。

 ――死は眠る。黒い花のなかで。

 黒い花は不自然なほど積み重ねられ、中央が盛り上がっていた。花を掻き分けていくと、白いものが見えた。

 ――指……まさか……。

 桐生は目を凝らした。これは人間の足なのか。それとも精緻に作られた人形か。

 花の山を視線で辿りながら、手を奥へ伸ばした。指が何かに触れる。硬くひんやりとしている。山が崩れ、桐生は息を呑んだ。

 黒い花に埋もれていたのは、女性の顔だった。見開かれた双眸そうぼうは白く濁り、虚空こくうを見詰めている。

 そのとき、冷たい風が吹き込み、積み重ねられた黒い花が乾いた音を立てて飛ばされていった。女性は白のモヘアに暖かそうな緑のダッフルコートを着ていたが、胸にどす黒い染みができていた。モヘアは十字に切り裂かれている。その傷が何を意味するのか、桐生にはわからなかった。

 *****

 ピアノ曲が流れている。――超包括的な絶望。R・Jは、この言葉の響きが気に入っていた。とにかくその絶望を拭い去る必要がある。

 冷蔵庫を開け、円筒のガラス瓶を眺めた。柔らかな赤黒い塊は、神がこの世に作り出した神秘だ。それは体から取り出されたいまも変わらない輝きを放っている。もう少し時間が経ったらもう一つの神秘の隣で凍らせるつもりだった。

 ガラス瓶の横に並べてあるステンレス製のタンブラーを掴む。液体をお気に入りのワイングラスに注いだ。

 わざわざ移し替えるのは、液体の色を見るためだ。液体で満たされたグラスは赤く輝いている。赤には生命を蘇らせる力がある。それを一気に飲み干した。

 旋律に神経を集中する。音は激情を孕(はら)んでいた。強く響く音のなかに静寂が包み込まれている。そこには怒りと悲哀がある。暗闇に散りばめられた感情の粒が、R・Jの心を揺さぶった。

 スピーカーの載ったローチェストに近づくと、抽斗ひきだしから日記を取り出した。一か月前、祖父の家の屋根裏で見つけたものだ。黒いスウェード革の装丁で、金色の糸で縁取られている。表紙を開くと、黒い押し花が貼り付けられていた。花の下には文字が記されている。

 ――汝の欲望を叶えよ。

 楷書体の文字はかなり達筆だ。ぱらぱらとめくると、祖父の細いポールペン文字が書き付けられていたが、半分以上は白紙だった。それなら自分が何か書いてみようと日記を持ち帰った。文章を書くのは苦手だったが、日記に向かうと言葉が浮かびあがった。書いているうちに自分が何を望んでいるのかが明確になり、体の内側から活力が湧いてくるのを感じた。いままで、言葉の力を見縊みくびっていたのかもしれない。

 R・Jはペンを取り、きょうの日付を書き込んだ。少し考えて、ペンを走らせる。

   新しい一日が始まる。冷蔵庫には新しい心臓が必要だ。


                 第二章へ つづく