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黒い花の屍櫃(かろうど)・4 長編ミステリー

 『黒い花の屍櫃・1』はこちらから

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「待ってください。少しお話を伺いたいのですが……」

 桐生が廊下へ出ると、コートに袖を通していた二人の神父が振り向いた。

「あなたは、恐ろしい思いをなさったんじゃありませんか」

 川瀬の黒い目が、ひたと桐生の顔を見詰めている。

「久利生君の肩に触れた瞬間から、暗闇に堕ちたような感覚に襲われました。その間、ずっと祈りや罵りの声を聞いていました」

「あの罵りの声は、もはや久利生君ではありません。彼のなかにいる〃悪魔〃です」

「川瀬神父は、いままでに久利生君のように悪魔に取り憑かれた人を助けられたことはあるのでしょうか」

 桐生の額には、まだ汗が噴き出していた。闇のなかで聞いた声が脳裏にこびり付き、離れない。

「イタリアで、祓魔式の助手として立ち合ったなかに、悪魔の解放を見たことならあります。そもそも本当に悪魔に取り憑かれた人に出会うことがめずらしいんです」

 川瀬は臙脂色のマフラーを首に巻き付けた。有沢は靴を履き、ドアノブに手をかけている。

「でも、世界には被憑依者がたくさんいて助けを求めているから国際祓魔師協会が設立されたんですよね? そこには多くのエクソシストが集うと聞きましたが」

「エクソシストが最初にしなければならないのは、自分を訪ねて来た者が本当に悪魔に取り憑かれているのかを見極めることです」

「どうやって見極めるんですか」

 桐生がいつまでも質問を続けるので、有沢が非難の目を向けた。川瀬は有沢を手で制し、桐生に微笑んだ。

「チェック項目は四つあり、中世の時代から大枠は変わっていません。まず一つ目は、人間の能力を超えた力を発揮するか。二つ目は、本人が本来持っている声とは違う声で話すか。もしくは被術者が知るはずのない言語を話すか。三つ目は、遠い場所で起きていることや、被術者には知り得ない事実を知っているか。四つ目は、聖なるシンボルに冒瀆的(ぼうとくてき)な怒りや嫌悪を感じるか。精神の病に侵されているなら、自身の心と向き合う必要があります。そういう相手に悪魔祓いを行うと、悲劇に繋がることがあるんです」

 川瀬が言い終えると、有沢がドアを開けた。外の冷気が吹き込んでくる。川瀬は黒い手袋を嵌(は)め、飾り棚の上に置かれた靴ベラを掴んだ。

「ほかにも知りたいことがあれば、いつでも訪ねてきてください。教会の場所は、真衣さんに訊くといい」

 革靴に足を差し入れる川瀬に、桐生はもう一つ、どうしても聞きたいことがあった「あなたは、悪魔が恐ろしくないんですか」

 桐生の問いに、川瀬は顔を上げた。

「私は恐れない。むしろ悪魔のほうが私を恐れているんです。私たちは神に愛されていますからね」

 川瀬はナイロンの黒い鞄を手にすると、外気のなかへと出ていった。

 リビングに戻ると、久利生はぐったりした様子で椅子に座っていた。目が腫れている。榊が隣で久利生の背をさすっている。祭壇は片付けられ、天空に浮かぶ女性の絵もなくなっていた。真衣がガス台でコーヒーを淹(い)れている。

「桐生君、大丈夫?」

 璃子は帰り支度を整え、桐生のコートと鞄を差し出した。

「なんとかね。久利生君はだいぶ落ち着いたみたいだね」

 コートと鞄を受け取り、久利生を見やる。

「……すみません。何があったのか、記憶がないんです。ただひどい嵐にさらされていたみたいに体力が奪われて、動けません。すぐにでも眠れそうです」

「さっき僕に〃全力で逃げろ〃って囁いたの、久利生君だった?」

 桐生の問いに、久利生は首をかしげた。

「わかりません。本当に、何も覚えてないんです」

 久利生の背中をさすっていた榊が、桐生に視線を向けた。切れ長の黒い目は強い光を発している。

「祓魔式のこと、記事にするんですか」

「まだわからない。僕たちは『sorbet』の取材をしてたんだ。心を癒すはずの儀式で、悪霊に取り憑かれた青年がいると聞いたのが昨日のことだからね。でも、記事にするときはちゃんと知らせるし、きみたちのことは一切わからないようにするよ」

「『sorbet』か。久利生がこんなことになったのは、あいつのせいだ。心を癒すなんてうたい文句は、インチキもいいところですよ」

 榊が顔を歪めた。真衣がテーブルにコーヒーの入ったカップを六つ置き、一同にねぎらいの言葉をかけた。ミルクの入った小さなピッチャーとスティック・シュガーが添えられている。

「榊君は、久利生君の体を抑えているときに、暗闇に堕ちたような感覚に襲われたりするかい?」

「そんなもの、感じませんよ。ただ抑えるのに必死ってだけです」

「俺も、力一杯押さえつけてるだけで、闇なんか見えないな。桐生さんは、霊感があるのかもな」

 左側の部屋で荷物の整理をしていた早見が戻ってきて、立ったままカップを掴んだ。

「見えたわけじゃないよ。その反対で、何も見えなくなったんだ。ただ地面が波打って、やけに寒かったよ」

 桐生は真衣に礼を言い、コーヒーを啜った。黒い液体が脳内に染み渡り、闇の冷気は遠くへ押しやられた。

「ああ、でも部屋は寒かったな。エアコンが効いてるはずなのに、セッションが始まると温度が下がるのは感じる」

 早見は大きな体をぶるっと震わせた。

「なにはともあれ無事に終わってよかったわ。ところで、久利生さんを川瀬神父に紹介した精神科医はどんな方なんですか。よかったら紹介してください」

 璃子は久利生の向かいに座り、とびきり感じのいい笑みを浮かべた。

 府中駅へ移動し、久利生に紹介してもらったクリニックへ向かった。三時から午後診療が始まるので、その前に少し話が聞けることになっていた。

「桐生君が無事で、ほっとしたわ。ロザリオにも守られていたのかも」

 璃子は大通りを早歩きで進みながら、右手で十字を切った。

「セッションで闇に堕ちるなんて経験は、できることならもうしたくないね。いつも早見さんと榊君だけで久利生君を押さえつけてるなんて、すごいことだよ」

 外では〃祓魔式〃という言い回しは避けた。

「いつもは精神科医が来てくれてるみたい。きょうはお子さんの学芸会があって来られなかったんだって」

「これから僕たちが会いにいく先生だね。だから僕たちを参加させてくれたのか。久利生君のご両親や兄弟は、セッションのことを知ってるのかな」

「久利生さんは出身が山梨で、一人っ子よ。桐生君が川瀬神父と話している間に真衣さんから教えてもらったの。ご実家は青木ヶ原樹林の近くみたい」

「富士の樹海か。久利生君はそこで亡くなった人たちの霊とすれ違ったことがあったかもしれないね。悪霊に憑かれている人、実は日本にもたくさんいるのかもよ」

「そうでないことを祈るわ」

 璃子はグーグル・マップを一瞥し、「ここよ」と呟いた。クリニックは府中駅から十五分ほど離れた閑静な住宅街にあった。白い建物のエントランスには、色鮮やかな花の鉢植えが並べられている。黄色と紫の花はパンジーだとわかるが、ピンクや白の花の名前はわからない。

「冬でもこんなにたくさんの花が咲くんだね。あの濃いピンクの花はなんだろう?」

「植物のことはわからないわ。季節の花に詳しくなりたいとは思ってるけど、一日のスピードが早過ぎて気づくとまた桜が咲いてるって感じ」

 通り一面が盛大にピンク色になれば、さすがに誰でも桜だと気づくだろう。

「今年は梅の花が咲いたときに気づけるといいな」

 冬空の下で咲く花を眺めながら、桐生はガラスドアを開けた。

 ダウン・ライトに照らされた室内は壁も床もクリーム色で、黒いベンチシートが三列に並べられている。奥の受付カウンターに座っていた受付嬢と目が合い、桐生は名刺を差し出した。受付嬢はすぐに内線に繋ぎ、二階突き当たりにある執務室に行くよう二人に伝えた。室内にはどこかで聞いたことのあるメロディーがオルゴールで流れている。

「オルゴールの音って、不思議と心が安らぐね」

 階段を上りながら、メロディーに耳を澄ませた。

「水が流れる音や鳥の囀(さえず)りもいいよね。ヒーリング効果で脳波をアルファ波の状態にして、自律神経を整えてくれるっていうし」

 璃子もオルゴールの旋律に耳を傾けている。悪夢にうなされたときのためにヒーリング音楽を買っておこうなどと考えているうちに、執務室の前まで来た。桐生がドアをノックすると、中から「どうぞお入りください」と声がした。壁と同じクリーム色のドアを開ける。六畳ほどの広さで、手前に応接セット、奥に書斎机がある。背面に大きな窓があるが、ライムグリーンのブラインドが閉められていた。白衣を着た長身の男が桐生と璃子に微笑んだ。

「精神科医の藤田ふじたです。久利生君から連絡をもらい、お待ちしていました」

「突然押しかけたのに対応していただけて、ありがたいです。断られるのが僕らの仕事みたいなものなんで、驚いています」

 名刺を交換し、藤田の肩書に桐生は目を見開いた。

「藤田先生は、国際祓魔師協会の会員なんですか」

「ニュージャージーに留学してまして、プリンストンの病院に勤務していました。そのときに何度か悪魔憑きの疑いがある患者を診ました。神父さんから相談されたこともあり、そのうちにAIEの会員になっていました。川瀬さんとは、ローマで開かれた会合で知り合ったんです」

 藤田は桐生と璃子に壁側のソファーを勧め、桐生の向かいに座った。

「きょう、僕たちも祓魔式に参加させてもらいました。現実に悪魔が存在し憑依するなんて、実際に体験しないかぎり信じられないことです」

 闇を満たしていた冷たい空気が桐生の脳裏をかすめた。

「では、桐生さんは悪魔の存在を信じたんですね」

 藤田は興味深そうに桐生を見た。

「久利生君を椅子に押さえつけた時に、僕は暗闇に落ちたんです。闇のなかに、川瀬神父と悪魔の声が響いていました。必死で闇の道を駆けていると、地面が轟音とともに揺れて、僕はもう少しで闇に落ちるところでした」

「橘さんも、桐生さんと同じ暗闇に落ちましたか」

 藤田の問いに、璃子は首を振った。

「私は神と悪魔をそこまで信じてはいません。実際に悪魔の姿を見たわけじゃありませんから」

「璃子さんもあの声を聞いたよね? あれは久利生君の声じゃなかった。川瀬神父の祈りに、何語かわからない言葉で答えてたじゃないか」

 桐生はペンを握り、異議を唱えた。

「橘さんがおっしゃることは至極当然です。私だって、実際に目にするまで信じられませんでした」

 藤田は膝に両手を置き、指を組み合わせた。

「藤田先生がニュージャージーで診られた患者さんは、本当に悪魔に憑依されていたんでしょうか」

 璃子の質問に、藤田は首を振った。

「憑依されることは稀なんです。イタリアには、悪魔祓いを希望する患者がたくさんいますが、そのほとんどは精神的な病いか、なんらかの疾患からくる苦痛を悪魔からの攻撃だと思い込んでいるだけです。エクソシストの多くは、生涯悪魔憑きの患者に出会うことなく任務を終えるんです」

「悪魔憑きではないとわかった場合、儀式は行わないんですか。僕が調べた記事には、〃解放の祈りを捧げる〃と書かれていましたが」

「エクソシストによって、対応は異なるようですね。川瀬神父は行わないと聞いています」

「では、日本にもまだ悪魔憑きの事例があるんですか」

 桐生は身を乗り出した。

「私のところにも、年に数件ほど相談があります。でも、私の患者で川瀬神父に紹介して、祓魔式を受けたのは久利生君だけです。彼のなかに棲みついている悪魔を、一刻も早く追い払えるように願っています」

 藤田は指を組み直し、祈りを捧げるようにうつむいた。

 
            つづく