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黒い花の屍櫃(かろうど)・23 長編ミステリ

     『黒い花の屍櫃・1』はこちらから
  
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 一階に明かりはなく、ヨガ教室がある二階と三階、早見の店がある四階の窓から光が漏れていた。

「まだ榊君はアトリエに来てないみたいね。先に早見さんに会いに行きましょうよ。三人のアリバイをちゃんと確かめる必要があるわ」

 璃子は軽快に階段を上っていく。桐生の足はいつもより重かった。二日間の大籠出張で疲れが溜まっている。踊り場まで来ると、息が切れた。璃子は桐生を置いてどんどん上っていき、引き離された。

 この事件が終わったら、真衣のヨガ教室に通おうと思っていた。週一回でもいい。心惹かれる女性が教えてくれるヨガを体験してみたい。

 ふと、前回この階段を上っているときに、上から真衣が下りてきたことを思い出す。

〈きょうのレッスンは五時で終わりなの〉

 あの日は火曜日で、ヨガ教室は五時で終わる。では、別の曜日は何時までだろう。

 スマートフォンを取り出し、真衣のヨガ教室のレッスン時間を検索した。平日は午前十時から六時、土曜が定休日で、日曜は午後一時から五時までだった。

 舛添トワの話では、久利生がいなくなったのは三日前の土曜日だ。死亡推定時刻は公表されていないが、久利生の遺体はまだ腐敗してなかった。岩手の気温の低さを考えても、死後二日から三日ではないのか。

 真衣なら犯行が可能だ。一方、早見の店は夜から始まる。『40's』の営業時間を調べると午後六時から深夜一時までで、月曜が定休日だった。金曜の深夜、仕事が終わってからに大籠へ行くのは無理がある。

 榊は鷹翠美大の教務補助だから平日が仕事で、土・日が休みだろう。仕事の拘束時間だけを見れば、早見より真衣や榊のほうが犯行可能のようにも思える。

 二階フロアまで来て立ち止まった。どこかで聞いたことのあるピアノ曲が流れている。白い壁にはヨガのポーズをとる女性のイラストが描かれていた。廊下のなかほどに入口があり、女性の話し声がした。先に真衣に会うことにしたのかもしれない。

 ガラスドアは開いていた。なかを覗くとカウンターのそばにソファーがあり、年配の女性二人が笑いながら話していた。ヨガの受講生だろう。よく似た黒いダウンコートを着込み、スポーツバッグを肩に掛けると部屋から出てった。

 ピアノ曲は流れ続けている。これはショパンのノクターンだ。父が絵を描くときによくかけていた。光の粒が水面を駆けていく。音は光を放ちながらやさしく響き合う。

 カウンターの横の棚に、アクリルケースが置かれていた。なかには黒い花が敷き詰められている。真衣は『黒い花の屍櫃』を久利生から購入したと話していた。飾られているケースは梶木の応接間に置かれていたものより一回り小さいが、蓋には同じ金色の文字が刻まれている。

 ――死は眠る。黒い花のなかで。

 大籠で見た黒ヒヨスが、冷たい風にそよぐ光景が浮かんだ。

〈一度、耕助の子が訪ねで来だって聞いだよ〉

 トワの声が耳に蘇る。耕助の子は、父親に会うために大籠まで来た。耕助が失踪する前だから、十年以上前だ。別れた妻も一緒だったのだろうか。そのとき、耕助は子供とどんな話をしたのだろう。

 その後も子供は耕助に会いに来ただろうか。父親が失踪したことを知っただろうか。もしかしたら亡くなっているかもしれない。そう聞かされて、納得しただろうか。その子が生きていれば、いまいくつだろう。

「桐生さん、お仕事帰りに寄ってくださったんですね」

 名前を呼ばれ、桐生は顔を上げた。篠原真衣がカウンター奥のドアから顔を覗かせた。白地に黒いロゴ入りTシャツを着て、肩にピンクのタオルを掛けている。肌には艶があり、黒い瞳は輝いていた。

「僕の家、ここから近いんだ。健康のためにヨガでも始めようかなってね」
「ヨガは体と心を整えるんです。頭がすっきりして、きっといままで以上にいい取材ができますよ」

 真衣は微笑ほほえんだ。桐生が持っている紙袋に目を留め、不思議そうに見つめている。タオルで包んだ小箱の上に、木彫りの花を積み重ねて入れてあった。持ち手の隙間から木彫りが見えていることに気づいた。

「ああ、これは久利生君が彫った木彫りの花だよ。まだ着彩はされてない。久利生君が亡くなったことは、知ってる?」

 桐生は紙袋から木彫りの花を取り出し、カウンターに並べた。その横に、小箱を置く。

「……あれは、久利生君だったんですね。大籠で自殺した男性と報道されていたから、もしかしたらとは思っていましたが……」

 真衣は小箱に手を伸ばし、蓋を開けた。赤いハート形の木片を見て、瞳からふっと輝きが消えた。

「……これは、どこにあったんですか」

「大籠です。二日前にR・Jと名乗る人物から手紙が届いて、僕ともう一人、別の記者と行ってきたんだ。久利生君は手紙に書かれていた通りの場所で命を絶っていた。僕たちはずっと、久利生君は悪魔に取り憑かれていると思っていたけど、そうじゃなかったんだよ」

「どういうことですか」

「幻覚作用のある毒を持つ植物があるんだ。大籠に同行してくれた記者は薬物に詳しくてさ。久利生君は定期的にその毒を摂取してたんじゃないかって疑ってたんだよ。それで、どこかにそんな植物が生息してるんじゃないかって探したら、あったんだ。殺された正木希美さんの実家にね。この木彫りと小箱は、実家の納屋で見つけたんだよ。久利生君は失踪後、しばらくその納屋で過ごしていたらしい。作品を作りながらね」

「……これは、久利生君の作品じゃないわ」

 真衣は小箱のなかに収められた木片を取り出し、掌(てのひら)に載せた。柔らかな曲線を描く木片は薄く艶やかで、本物の薔薇の花弁はなびらのようだ。

「……彼が作っていたのは、いつも艶のない枯れかけた花よ。彼は死に魅了されていたの。だから自分で自分の棺を作っていたんだわ。でも、この花弁はぜんぜん違う。生命の息吹を感じるわ。花のいい香りがする」

 真衣は掌に載せた花弁を顔に近づけ、笑みを浮かべた。その微笑は冷ややかで、それまで桐生が知っている真衣とは別人のようだった。

 何かがおかしい。

「きみは、その花弁を作った人を知ってるのか」

「彼は盗んだのよ。父にしか彫り出すことのできない命の花を」

 大籠まで父親に会いに来た子供――亡くなった正木有紗の異父姉妹……。

「きみが……正木耕助さんの娘なのか。お父さんが失踪していることは、知ってるのか」

「父は殺されたのよ。正木希美とその娘に」

 真衣の声は低くかすれた。

「僕はきのう、希美さんのお母さんから話を聞いてきたんだ。編集部に帰れば、録音した音声もある。お父さんは事故死だよ。足を滑らせて溜め池で亡くなっていたんだ」

「あんな浅い溜め池に落ちたくらいで、大人が死ぬわけない。そのくらい、考えれば誰だってわかるわ。父は黒ヒヨスの毒を大量に飲まされて死んだのよ。その死体を希美と有紗が埋めたの。そのとき、久利生も埋めるのを手伝ったのよ」

 真衣は目に侮蔑の色を浮かべ、吐き捨てた。

「……それは、誰から訊いたんだい?」

 桐生はゆっくり後ずさった。心臓がどくどくと音を立てて桐生に警告している。決定的な質問をする前に、退路を確保しろ。

 さっき女性会員がいたソファーの後ろに大きな窓がある。カーテンやブラインドはなく、外の夜景が見える。夜景といっても黒い空にまばらな家の光が見えるばかりだが、ひらりと白いものが舞った。雪だ。

「正木希美が全部話してくれたわ。私と母から父を奪ったくせに、事故で右手が不自由になったからって、父を薬漬けにして殺すなんて許せなかった」

「……きみが、R・Jなのか」

「あなたが間違っていると思う行為が、私には正義かもしれない。一つの正義しか信じないことが間違っているのかもしれない。そうは思いませんか」

 真衣の問いかけに、桐生は身震いした。あの手紙を書いた人物は人殺しだ。

「きみは、三人もの命を奪った。お父さんを奪われた復讐が目的なら、どうして恵里香さんも殺さなければならなかったんだ?」

「あの女は、希美から黒ヒヨスを買ってたんだ。希美は『sorbet』の会員に毒を売って、生計を立ててたんだよ。だから最初に希美を殺し、希美の携帯電話で恵里香を倉戸口に呼び出した。二人が亡くなって、久利生は自分で黒ヒヨスを採りに来ることにしたんだよ」

「じゃあ、久利生君の悪魔祓いは……」

「あんなのはインチキに決まってるでしょ。ラテン語で話した言葉は、『エクソシスト』の映画や書籍でいくらでも仕入れることができるからね」

 真衣は赤い木片を小箱に戻した。その仕草は優雅で、とても人を何人も殺したようには思えない。

 榊はアトリエに来ているだろうか。璃子は早見の店へ行っただろうか。桐生がいないことを心配しているかもしれない。

「きみは、神は復活したと書いていたけど、本当はそんなことどうでもよかったんだな。ここまで話してくれたことには感謝するよ。一緒に警察へ行こう」

 もし、真衣が襲いかかって来たら大声で叫ぼうと決めていた。榊や早見が駆けつけ、璃子が通報してくれるはずだ。

「これは全部、桐生さんが作り出した幻覚よ。あなたも黒ヒヨスの過剰摂取で死ぬのよ」

 真衣は桐生の顔に右手を向けた。何かが噴霧され、桐生の目の前から光が消えた。

 
 冷たい風が木々を揺らしながら吹き抜けていった。湿った土の匂いがする。桐生は息を切らして走っていた。ここは森のなかで、雪が降り積もっている。

 追いかけてくるものがいた。底知れない冷気と獣の匂いを纏(まと)っている。振り返り、獣の姿を見た。頭が七つある。額には666と刻印されているのがわかった。あれが『黙示録』に記されている悪魔だと知っていた。

 地を揺るがす轟音(ごうおん)と同時に獣の鋭い爪が右腕に突き刺さり、激痛が走った。雪は花弁のように舞い上がり、赤い血と混じり合う。寒さが素足の感覚を奪っていた。左の足首に獣の牙がかする。足をぎ取られてしまえば、桐生は悪魔に呑み込まれる。

 風が吹いてくる方向に出口があった。左手を出口へ突き出した。中指の先端に、かすかなぬくもりを感じた。誰かが桐生の名前を呼んでいる。優しくて、なつかしい声だ。

「……母さん」

 目を開けると、周りのすべてが真っ白で視界がぼやけた。

「よかった。桐生君、気がついたのね」

 璃子の声だ。何度か瞬きをして辺りを見回す。桐生はベッドに横になっていた。璃子の隣には榊と早見がいる。

「僕は、どうしてここに……?」

 体を起こそうとしたが、うまく力が入らない。身体中に砂でも詰め込まれたように重く感じた。

「桐生君の姿が見えなくなったから、二階まで探しに行ったのよ。そしたら真衣さんと話してる声が聞こえてきたから録音したわ」

「じゃあ……どこまで知ってるの?」

「まあ、おおよそ全部ってところね。すごい音がしたから、慌てて部屋へ行ったら桐生君が倒れてた。救急車を呼んで病院へ運んでもらったのよ」

「真衣さんは? 彼女がR・Jだったんだよ。逮捕したんだよね?」

 腕に力を入れ、鉛のように重い体を少しだけ起こすことができた。榊が手伝ってくれる。

「真衣さんの行方はわからないんだ。いま警察が捜索してる」

 榊の言葉に耳を疑った。

「あのヨガ教室には入口が一つしかなかったよ。僕は意識を失ってしまったけど、璃子さんがドア口にいたんだ。逃げられないはずだよ」

「璃子さんに呼ばれて、俺たちもすぐに二階へ駆けつけたんだ。俺は階段で、早見さんはエレベーターで下りてきた。でも、真衣さんの姿は見なかった」

 榊は顔を歪めている。

「真衣がR・Jだったんなら、あのいかがわしい儀式をやってたんだよな。神を復活させるために生贄を捧げてたって、『FINDER』に載ってたよな。久利生を殺して、神が復活したとしたら、そいつが真衣をどこかに逃したのか」

 早見は髪を掻きむしった。

「いや……窓だ。あの部屋には大きな窓があった。カウンターの奥の部屋にも窓があるんじゃないかな。外から建物を見たときに、窓から明かりが漏れているのは見たんだ。きっと璃子さんが来る前に、どちらかの窓から逃げたんだよ」

 桐生は意識を失う寸前までの記憶を辿ろうとした。だが、頭の奥に霧がかかったようで、判然としない。

 なぜ、真衣は自分がR・Jであることを桐生に明かしたのか。ヨガ教室の営業時間を調べ、金曜日の夜から土曜日の時間の都合がつけられるとは思った。だが、本気で真衣を疑ってはいなかった。

 カウンターの奥から顔を出した真衣は、桐生を見て嬉しそうに見えた。だからつい、取材のために立ち寄ったとは言わなかった。ヨガを始めてみようと思ったのも事実だ。

 真衣の表情にかげりが差したのは、紙袋に入れてきた木彫りの花と小箱を見せたときだ。

「あの小箱は、いまどこにあるのかな」

 桐生の問いかけに、璃子は目を見開いた。

「私もそれを訊こうと思ってたのよ。タオルに包んで紙袋に入れてたわよね?」

「真衣さんに見せたんだよ。カウンターの上に並べて。あの小箱に入れられていた木片の花弁(はなびら)を見て、真衣さんの表情が変わった」

 目を閉じて記憶を辿る。真衣は花弁の木片を掌に載せ、微笑ほほえんだ。

 ――命の花弁。

「……あの赤い花弁を、真衣さんは〃命の花弁〃って言ったんだ。父にしか彫り出すことができない。それを、久利生君が盗んだって。璃子さんはその会話を録音した?」

「私が聞いたのは、真衣さんがR・Jかって桐生君が訊いたところからよ。真衣さんのお父さんって、正木耕助さんだったのね」

「耕助さんは黒ヒヨスの毒を過剰に摂取したせいで、溜め池に足を滑らせ亡くなってる。耕助さんのお母さんはそう話してくれたんだ。でも、本当のところはわからない。真衣さんは、希美さんと有紗ちゃんが殺したって思ってるみたいだったよ。だから希美さんを殺したって」

「結局、R・Jは復讐のために殺人を始めたのね。お父さんが作った小箱を持って、どこへ逃げたのかしら」

 璃子の呟きを聞きながら、桐生は全身の力が抜けていくのを感じていた。真衣はそう遠くへは逃げられない。捕まるのは時間の問題だ。深い眠りに落ち、夢は見なかった。

     つづく