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黒い花の屍櫃(かろうど)・14

   『黒い花の屍櫃・1』はこちらから   

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 青梅署へ向かう途中、梶木が書いた『精神の扉』の続きを読んだ。南東アラスカで出会ったシャーマンのことが詳述されていた。瀕死の怪我を負った少年を治したり、余命一年と宣告された不治の病を霧消させたエピソードにはリアリティーがある。治療が事実なら、精霊はいまもこの世界に生きていることになる。

 久利生は梶木が行った儀式で悪霊に憑かれた。意図しない霊を呼び寄せてしまったと、梶木は話していた。梶木と会話を重ねることで、自分は暗示にかかっているのかもしれない。

 四ツ谷で中央線に乗り換え、その後、立川で青梅線に乗った。青梅署は川辺駅から徒歩十分ほどのところにある。

 午後五時過ぎに駅に着き、大通りを歩いていく。前回この道を歩いたのはわずか四日前だ。倉戸口で長山恵里香の遺体を発見後、調書を作るのに五時間を要した。きょうは手紙を渡したらすぐに帰りたい。

 青梅署の扉を開け、正面の受付に向かった。男性署員と目が合い、名刺を差し出す。週刊誌記者だと知り、受付署員の目が厳しくなる。

「『記者クラブ』に所属されてない方の取材は、固くお断りしています」

 こんな遣り取りは山のようにしてきたが、たいていは受け流してきた。だが、きょうは腹が立った。前回は五時間協力し、今回は一時間半かけてわざわざ証拠品を持ってきたのに、こんな対応は許せない。手紙を渡すのをやめて帰ろう。必要なら編集部まで取りに来ればいい。

「桐生さん、待ってましたよ」

 きびすを返した桐生の斜め向かいから、男が近づいてきた。倉戸口の廃屋で会っている。年配の刑事で、田淵たぶちと名乗っていたのを思い出す。受付署員を一瞥し、「この人は重要な証拠を持ってきたんだよ」と補足した。

 五分後、桐生は『刑事課室』で、田淵と横並びに座っていた。刑事課室は学校の職員室とよく似た部屋で、すべての机にはデスクトップ型のパソコンが載っている。十台のパソコン画面には、スクリーン・セーバーが流れていたが、部屋にいるのは桐生と田淵の二人だけだ。机の上には、コーヒーの入った紙コップが二つ置かれていた。

 桐生は紙コップと田淵を見比べた。田淵は、桐生の渡したR・Jの手紙のコピーを一心に読んでいる。本体は鑑識に回されたが、指紋は検出されないだろう。これまでR・Jから送られた手紙に指紋はなかった。

 桐生は自分の指先を見て、ほっとした。指紋は前回採取されているので、黒い指紋押印用インクの粉末を押し付けられることはなかった。十の指先が黒くなるのは、いい気分ではない。

 田淵が顔を上げ、まじまじと桐生を見詰める。

「R・Jは、長山恵里香のほかに、殺人を犯していたってことですか。大籠の人骨ってことは、向こうにも知らせないといけないな」

 田淵は太い指で紙コップの一つを掴み、息を吹きかけて冷ましながらコーヒーを啜った。

千厩せんまや署ですね。あそこでも調書作りに協力したんです。実は、大籠で人骨を見つけたの、僕たちなんですよ」

 桐生も田淵にならって紙コップを顔に近づけた。警察署のコーヒーは薄いか渋いと思っていたが、思いのほか香りがいい。一口飲んで、芳醇な苦味に口元が緩む。

「でも、この手紙が来たのはきょうの午後って話でしたよね。長山さんを発見したときのような事前情報は、なかったんでしょ」

 田淵は指を顎に当て、いぶかしげに首をひねっている。

「ええ。僕たちは別の件で正木希美さんのお宅を訪ねたんです。つまり、悪魔憑きの件で」

 桐生の返答に、田淵はのけぞった。

「週刊誌ってのは、けったいなもんを調べて回るんだな。最初にあんたから預かった手紙も儀式とか悪霊とかってずいぶんブッ飛んでたけど、まさか本当に悪魔が取り憑いたなんて信じちゃいないよな?」

 これが真っ当な刑事の反応だろう。「信じてない」と言い切りたいところだが、いまの気分は正直イーブンだ。

「まあ、あんたが引き当てたのは、かなりレアだよな。宝籤たからくじなら三億五千万ってところか」

「当たり……ですか」

 桐生は唾を呑み込み、田淵を見詰める。

「気をつけたほうがいいよ。あんまり引きが強いと、そのうち持ってかれちゃうかもしれないから。向こうの世界にさ」
 田淵はR・Jの手紙に視線を落とし、パソコンのキーを叩き始めた。

 
 午後七時過ぎに青梅署を出て、小平のアトリエへ向かった。帰り際、正木邸の庭で見つかった骨の身元について田淵に訊いたが、まだわかっていないという。発見された骨はきれいに洗われ、軟組織が一切残っておらず、DNAが検出できないのが理由らしい。

 頭蓋骨が発見されれば、歯の治療痕から身元を辿ることもできるが、周辺から残りの遺骨を見つけることはできていない。性別もわからない。成人の骨であることと、遺棄されて半年以内であることがわかっている。正木希美の消息について尋ねたが、依然として不明だった。

 希美のことがもっと知りたい。両親は健在なのか。消息不明なら、失踪届は出されているのだろうか。小平駅に着くまでの四十分間に何度かメールをチェックしたが、正木希美のフェィスブック仲間と連絡が取れたという知らせは来なかった。

 小平駅の改札を通り、跨線橋こせんきょうを渡って通りに出た。空気が冷たい。

 見上げると、白い三日月が浮かんでいた。通り沿いの石材店はみな閉まり、通る人もいない。けやき並木の間にぽつぽつと街灯はあるが、その奥にある霊園が黒い闇のように広がっているのが不気味だった。

 霊園内に街灯はない。一度、日が暮れ出した頃に来て、慌てたことがある。出入口は正門のほかに東口、西口、北口、南口の四つがあり、どの道もよく似ている。目印になるものが基本的に木か墓石なのだから仕方ない。設置されているトイレの作りもよく似ている。

 案内図を確かめながら散々歩き回ってやっと出られた。もし、完全に日が暮れていたら、本当に朝まで出てこられなかったかもしれない。

 霊園の前を横切り、十分ほどでアトリエのあるビルまで来た。四階にある『40's』の電気だけが灯(とも)っている。久利生と榊の作品展は日曜日までやっているので、四階に行けば二人がいるかもしれない。

 エントランスを抜け、突き当りのエレベーターに乗り込んだ。奥の壁にヨガ教室のポスターが貼られている。髪を一つに結った女性が、マットの上で気持ちよさそうに体を伸ばしている。凛とした横顔は、どこか篠原真衣に似ていた。もう一度真衣に会えることを期待していた。

 もし真衣が『40's』にいたら、連絡先を訊こう。きょう会えなければ、明日の祓魔式に参加してもいい。

 あんな女性と付き合えたら、毎日の景色も変わる。朝日に感謝しながら花を育て、休日は二人でビールを飲みながら映画を観る。居酒屋でもつ煮込みをつつき、物語について語り合う。そんなデートをしてみたい。

 いままで出会った女性たちは、方向音痴で運転もできないとわかると二度目のデートを断ってきた。最近は店でポイントカードを出しただけで引かれるという。こんな蛙化現象が恋愛を難しくしている。

 最後に女性にデートを断られたのはいつだったかと考えているうちに、エレベーターのドアが開いた。『40's』の看板が見える。店に入ると、早見が顔を向けた。カウンターの向こう側でグラスを拭いている。

「やあ、桐生さん。今夜も飲みに来てくれたのかい」

「ええ、久利生君のことも気になったんで、寄らせてもらいました。大籠で別れたあと、無事に戻ってきてるかなって。祓魔式は明日ですよね」

 店内を見回すが、真衣も久利生も榊もいない。中央のカウンター席に三十代くらいのカップルが座り、グラタンを取り分けていた。

 奥のテーブル席には年配の男が座り、アクリル・ケースに収められた木彫りのケルビムを眺めながら赤ワインの入ったグラスを傾けている。壁には榊の描いたペガサスと少女の絵が飾られ、右下のキャプションには赤いシールが貼られていた。売約済みの印だ。手前のテーブルに置かれた黒い有翼(ゆうよく)の獣の彫刻にも同じシールが貼ってある。

「それがさ、延期になったんだよ。祓魔式」

 早見はカウンターの端に座った桐生に、温かいおしぼりを渡してくれる。

「久利生君、まだ帰ってないんですか」

 おしぼりで指先までぬぐいながら早見に視線を向けた。生ビールとレバーパテを注文する。

「うん。榊君が心配して久利生君の実家にも連絡を入れたんだけど、なんだか様子が変らしい」

「変って、どういうことですか」

「久利生君の両親は、彼が子供の頃に離婚してるんだ。久利生君はお母さんに引き取られたんだけど、その後、再婚したらしい。で、継父とは折り合いが悪くて、いまはほとんど連絡を取ってないっていうんだよ」

 早見は桐生にだけ聞こえるよう、声のトーンを落とした。『40's』のロゴが入ったコースターの上に、ビールのグラスを置く。黄金色の冷えた液体の上に、白い泡がふんわりと載っている。

「じゃあ、大籠に旅行に連れて行ってくれた両親って、継父とお母さんだったのか」

 久利生はごく自然に〃両親と訪れた〃と話していた。久利生は両親の愛情を一身に受け、恵まれた環境で育ったのだと思っていたので意外だった。かくいう桐生も、長い間父親と確執があり、距離を取っていた。昨年父が脳梗塞で倒れ、それからは時々父のいる実家に立ち寄るようにしている。

 店の扉が開き、榊が入ってきた。仕事帰りなのか、フォーマルなロングコートを着ている。桐生を見ると、隣に座った。

「いま、早見さんから聞いたよ。久利生君、戻ってないんだって」

「連絡がつかないんです。大籠で何があったんですか」

 ロングコートを脱いでスツールの背に掛けた。おしぼりを受け取りながら、ビールと生ハムのサラダを注文する。

「正木さんの家の近くまでは一緒だったんだ。大籠キリシタン公園のそばだとわかってたから、そこでタクシーを降りたんだ。せっかくだから公園内を見て行こうって話になったら、久利生君は公園のなかには入らずに待ってるって言ったんだよ。三十分くらいだったかな。戻ってきたら、いなくなってたんだ。公園の高台には教会が建てられていたから、久利生君のなかの悪魔が嫌がったんだと思う」

 高台で聞いた鐘の音が蘇る。澄んだ金属音は風に運ばれ、その地で眠る殉教者の霊を悼む。

「あいつ、悪魔に乗っ取られたんじゃないのかな」

 榊の呟きに、レバーパテと榊のビールを置きにきた早見がぎょっとした。

「まさか……でも、だから久利生君は桐生さんたちと大籠へ行ったってこと?」

「ええ。初めから失踪するつもりだったんですよ。そうすれば、祓魔式に出なくて済みますから」

 榊は早見からビールのグラスを受け取り、桐生のグラスに軽く合わせた。喉が渇いていたとでもいうように、ぐっと呷(あお)る。桐生もつられてビールを啜った。

「あいつが最近描いたスケッチがアトリエにあるんですが、ちょっといままでと違ってるっていうか……」

 榊は左手の上に顎を載せ、考え込んでいる。

「二人とも、作品が売れててすごいよね。もう新作に取り掛かってるんだね」

 桐生は薄切りのバゲットにパテを付け、噛り付いた。濃厚で深い味わいが食欲をそそる。バゲットはパテの皿に四枚添えられていた。皿を押し出し、榊にも勧める。

「それが……塗りつぶされてるんです。黒のパステルで、何枚も……。あいつのなかの悪魔は、力を弱めてないんじゃないかって、心配してました。神父さんたちには悪いけど、悪霊を祓えないかもしれないって思ってきてたんです。桐生さんは、見たんでしょ? あいつのなかに棲む悪魔を」

「見たっていうより、感じたっていったほうが正確かな。僕はあの祓魔式の間、冷気が立ち込める真っ暗な道の上にいて、懸命に走ってたよ。川瀬神父の祈りに暴言を返していたのは、とても久利生君だとは思えなかった。だから悪魔だと思ったんだ」

 桐生の言葉に、榊の顔が強張った。黙って席を立つと、鞄から鍵の付いたキーホルダーを取り出し、店を出ていった。

 結局バゲットを四枚とも平らげ、残ったパテをつまみに二杯目のビールを飲んでいると、榊が戻ってきた。脇に大きめのスケッチブックを抱えている。薄い緑色の表紙は、子供の頃に桐生が使っていたものと同じメーカーだ。

 高校の美術教師である父は、桐生が小学校に上がるとすぐにスケッチブックをくれた。母が庭で育てていた薔薇のデッサンをさせるのが目的だったが、あまりにも形が崩れているので何度も描き直しをさせられた。

 何度描いても父を満足させることはできなかった。方向感覚だけでなく、空間把握能力が欠如しているのだと思う。ピカソは子供の頃に鳩の絵を描き、画家だった父親が筆を折ったというが、そんなことは普通は起こらない。

「久利生のスケッチブックです。この二週間、あいつは彫刻を彫るわけでもなく、黒い花を作るのもやめて、こんな絵ばかりを描いていました」

 榊にスケッチブックを渡され、桐生は表紙の手触りに郷愁を覚えた。厚手の表紙をめくる。一枚目は一面真っ黒に塗られていた。厚手の画用紙には引っ掻いたような跡がある。パステルの角を力一杯紙に押し付けて、わざと紙の目を潰しているようだ。

「うわっ。繊細な久利生君のスケッチだとは思えないな。黒く塗るだけなら、俺にもできそうだ」

 早見は榊が注文していた生ハムのサラダをテーブルに置きながら、黒い画面を覗き込んだ。次のページもまた黒い。

 桐生は画面に触れないよう注意しながらページをめくっていった。五枚目まできて、手が止まる。画面の中央に白い人影が描かれている。五ミリほど小さな人影は両手を振り、走っているように見える。ページを戻ってみると、一ページ目の中央にグレーの塗り残しがあった。

 そのグレーの塗り残しは、ページをめくるごとに少しずつ大きくなり、明度を上げながら人の形になっていた。六枚目を開き、桐生ははっと息を呑んだ。白い人影は少しだけ大きくなり、闇のなかに浮き上がっている。両手を上空に伸ばし、足をばたつかせている。

 祓魔式で桐生が体験した記憶が蘇る。目を凝らしているのに、瞼を閉じているかのように何も見えない。あざけりと罵声に大地が揺れ、体が浮き上がる。重力から解放されるということは、リアリティーを失うことだ。深淵に落ちていくとは、あんな感覚だと思う。

「……この絵は、僕のことを描いてるのかもしれない」
 桐生はスケッチブックから視線を外すことができなかった。


       つづく