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黒い花の屍櫃(かろうど)・24 最終話

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 五日後の火曜日午前六時。桐生は編集部のスチールデスクの上に突っ伏していた。はじめてカキを任され、入稿を終えたところだった。

 先週の企画会議で予定されていた『悪魔憑きの少年の素顔』の記事は、『驚愕! R・Jの素顔』に変更された。桐生と真衣の遣り取り全文を書き起こし、会話のなかで桐生は真衣がR・Jであることを突き止める。

 事件は終わった。何度も自分にそう言い聞かせてきた。だが、真衣の行方は依然として不明だった。自宅アパートの冷蔵庫からは血液の入ったタンブラーが押収され、R・Jが行っていたのは悪魔崇拝ではないかという憶測も囁かれた。

 ――神は復活した。

 R・Jから送られた最後の手紙に書かれていた言葉が、頭に引っかかっていた。この事件は、本当に父親を殺した者、その者から毒を買っていた者、父を埋める手伝いをして父の作品を奪った者への復讐だったのだろうか。

 病院で夢を見ていたとき、黙示録の悪魔に追いかけられながら、桐生は母の声を聞いた。夢でもいいから会いたかった。

 真衣も父親に会いたかったのではないか。自分と母親を捨てた父親でも、真衣にとってはかけがえのないたった一人の父親だった。命が宿っているような花の彫刻を、幼い真衣にプはレゼントしたかもしれない。真衣は父が彫った木彫りを大切にしていた。

 だから、桐生があの小箱を見せたとき、言わずにはいられなかったのだ。それは久利生が彫ったものじゃない。父の作品だと。

 桐生は机から顔を起こした。

 真衣は父親の遺体を掘り起こしたかったに違いない。骨のかけらでもいいから持ち帰り、供養したかっただろう。希美の暮らしや趣味について、調べていたかもしれない。近所の畑仕事を手伝うだけで、暮らしを立てていることを不思議に思ったのではないか。

 久利生のことはいつから知っていたのだろう。久利生のアトリエがある建物でヨガ教室を開いたのは偶然ではないのかもしれない。

 もう一度真衣に会って、真実を突き止める必要がある。

「桐生君、ついに記事を書いたんだね。これから仮眠室で一眠りするかい? それとも一緒にモーニングコーヒーを飲んで眠気をぶっ飛ばすかな。それなら俺が特製のコーヒーを淹れるけどね」

 北村が席までやってきて、桐生の肩をポンと叩いた。

「北村さん、篠原真衣はいまどこにいると思いますか」

 桐生の一声に、北村は口角を引き上げた。

「すでに眠気は吹き飛んでるみたいだな。篠原真衣は国外へ逃亡したとかな」

「え……でも、あのとき、すぐに警察を呼んだって璃子さんは言ってたし、警察だって真衣さんがどこでクレジットカードを使ったとか、スマホの電波とか調べてるはずだから、国外は難しいんじゃないかな。車でどこかへ行った可能性が高いでしょうね。夜行電車とかバスとかも有りだな。あ、僕がコーヒーを淹れますよ」

 椅子から立ち上がろうとしたが、北村に押し戻された。

「いいって。たまには俺が淹れるよ。あ、そういえば、千厩せんまや警察署からメールが届いてたよ」

 メールと聞いてもピンとこない。

「何のメールですか」

 変な体勢でうたた寝していたので首が痛い。首筋を手で揉み解しながら上を向いたり下を向いたりしてみた。上を向いたときに妙な音がした。体がきしんでいる。

「ほら、久利生君の毒物検査の結果だよ。一週間かかるって聞いてたけど、五日でわかったみたいだね」

 北村はコーヒーメーカーに水を入れ、ドリップコーヒーをセットした。

「黒ヒヨスの毒が検出されたんですね」

 自分だけ座っているのも落ち着かないので、コーヒーメーカーが置かれている流しまで歩いて行く。

「いや、それがさ、毒物も薬物も検出されなかったんだよ」

 北村はマグカップを二つ並べ、流しの横にある冷蔵庫からメープルシロップと豆乳を取り出した。

「じゃあ、久利生君は黒ヒヨスを飲まされて殺されたんじゃないってことですか」

「うん。自殺の線が濃厚になってきたらしい。でも、篠原真衣は久利生君を殺したって言ったんだろ?」

 北村に訊かれ、桐生は動きを止めた。真衣とのやり取りは一部、音声データもあり、克明に思い出していた。入稿原稿を読み直さなくても、真衣の言動は頭に刻まれている。

 久利生が悪魔に取り憑かれていたというのはインチキだと言っていたが、久利生を殺したとは明言していない。

〈きみは、三人もの命を奪った〉

 あのとき、桐生は一方的に言葉をぶつけ、真衣は否定しなかった。だから真衣が久利生も殺したのだと思い込んだ。

「真衣さんは、久利生君を殺したとはっきり言いませんでした。僕は勝手に真衣さんが三人を殺したんだと思い込んでいたんです」

 湯が沸騰し、ピッチャーに黒い液体が落ち始めた。芳ばしい香りが立ち上る。

「ずっとわからないと思ってたんだ。久利生君のスマートフォンは電池が切れていたのか、あるいはシムカードを抜いていたのかわからないが不通だった。失踪し、行方のわからない彼を、犯人はどうやってあの廃屋に呼び出すことができたのか。それが謎だったんだ」

「……久利生君は……自殺だった。でも、それならどうしてあの手紙を『FINDER』に送ってきたんですか。R・Jになりすまして……」

「久利生君は、篠原真衣がR・Jだと知ってたのかもしれない。だから、自分がR・Jだと名乗り、自殺することで事件を終わらせようとしたんだ」

「そんな……それじゃ、まだ神は復活してない……」

「久利生君は本当に悪魔に取り憑かれていたのかもしれないよ。だから死に魅入られ、希死念慮から抜け出せなかったのかもしれない」

 北村はコーヒーを二つのカップに注ぎ、どちらにもメープルシロップと豆乳を入れた。スプーンでかき混ぜ、桐生に差し出す。

「篠原真衣は、父親の遺体を掘り出したと思うか」

「ええ。希美さんのもとを訪れたのは、お父さんの遺体をどこに埋めたのか聞き出すためだったのかもしれません。真衣さんが儀式を始めたのは、お父さんの霊を供養するためだったのかも」

 コーヒーを一口啜る。自然の甘みが脳に染み渡る。

「他人を殺して自分の父親の霊が供養できるなんて、ふつうは考えないけどな」

「あるいは生き返らせるとか……」

 桐島の呟きに、北村は咳き込んだ。

「それは、かなり異常な発想だね。でも、R・Jならあり得るかもな」
「北村さんなら、どこを探しますか」

 北村特製のソイ・ラテは、苦味と甘味が絶妙に混ざり合い、深い味わいが寝不足の心と体を満たしていく。ゆっくりと飲みながら、北村に視線を向けた。

「俺ならまず、久利生君の持ち物とかブログがあればそれを読んでみるね。あ、でも桐生君は久利生君とたくさん話してるだろ。もし本当に、死を決意して大籠に向かったんなら、何かヒントになるようなことをきみに伝えてたんじゃないか」

 北村に問われ、久利生と交わした会話を思い返す。はじめてアトリエで会った日、久利生は黒い花の説明をしてくれた。

 ――艶のない黒い花には、死が潜んでいる。死を知ることでより誠実に生きられるんだと思っている。

 彼は、誠実に生きようとしていた。それは何かを悔いていたからなのか。真衣が言っていたように、正木耕助の遺体を埋める手伝いをしたのだろうか。あるいは自分が飛び出したせいでバイク事故を引き起こし、亡くなった谷口光一への罪滅ぼしか。

 一ノ関へ向かう新幹線のなかでは、太陽になった神の話を聞かせてくれた。

「そういえば、不思議な神々の話を教えてくれました。何ていう名前の神だったかな。ちょっと覚えられないカタカナだったから、手帳にメモしたんですけど」

 桐生は席に戻り、手帳をめくった。

「ありました。テクチズテカトルとナナウアチンという二人の神が、世界を照らすために火のなかに身を投げるという話でした」

「その話なら、俺も学生の頃に読んだことがあるよ。腫れ物だらけのナナウアチンが太陽になるんだよな。テクチズテカトルは月になる。で、その場にいたほかの神々は風の神によって皆殺しにされた。神々の心臓は抜き取られ、新しく生まれる星たちの命の糧となった。ジョルジュ・バタイユが書いた『呪われた部分』って本で読んだ記憶がある」

 北村はコーヒーカップを片手に目をすがめている。

「……新しい命の糧となったのは、神々の心臓だったんですよね」

 暗闇のなかで、何かが光ったように感じた。

「真衣さんは、本気で生き返らせようとしているのかもしれしない。絵里香さんの心臓と希美さんの心臓を保存していたはずですよ。それなのに、真衣さんの自宅から押収されたのは血液だけで、心臓は見つかってません。おかしいと思いませんか。」

「あらかじめ、心臓は持ち出していたってことか。じゃあ、どこへ向かったんだ?」

「耕助さんが亡くなった溜め池かもしれません。そこが、真衣さんにとっての呪われた場所ではありませんか」

 言葉にした途端、桐生にはそれが真実に思えた。

「僕、これから確かめてきます」

「わかった。俺も一緒に行く」

 北村は特製ソイ・ラテを飲み干し、ダウンコートを掴んだ。

 
 真衣が行方をくらませてから、すでに五日経過している。父親を生き返らせるために、心臓はいくつ必要なのだろう。ヨガ教室で毒を吹きかけられたとき、もし璃子や警察が駆けつけていなければ、桐生は殺されていたかもしれない。真衣は桐生の心臓を捥ぎ取り、父が亡くなった『呪われた場所』へ向かっただろう。いまは、あらたな犠牲者が出ていないことを祈るしかない。

 東京発午前七時十六分のはやぶさに乗車し、一ノ関駅には午前九時二十一分に着いた。そこからタクシーで大籠へ向かう。

 窓の外は雪が舞っていた。まるで五日前に東京で見た雪の続きを見ているようだった。

「僕の思い違いだったら、北村さんに迷惑かけちゃいますね」

 タクシーの後部座席で揺られながら、隣に座る北村に話しかけた。

「桐生君は子供の頃、何になりたかった?」

 北村は穏やかな表情で、フロントガラスにぶつかる雪を見ていた。ワイパーが一定の速度で雪を払っていく。

「小学校の卒業アルバムには〃宇宙飛行士になりたい〃って書きました。笑っちゃいますよね。僕、方向感覚がめちゃくちゃ悪くて、たぶん三半規管が弱いんですよ。だから絶対に向いてないのに」

「俺はサッカー選手になりたいって書いてたよ。チームプレイが苦手で、誰かに右へ行けって言われたら、一人だけ左に行くような奴なのにさ。そのくせプレッシャーに弱くてね。徳永瑛人のことを調べてるときは、ゴロの連中から脅されたりしてトイレで吐いたりしてたんだ」

「それは……知りませんでした。そんな連中がいるんですか」

 桐生は北村の横顔を見た。端正な顔立ちはどんなときも生き生きとして、プレッシャーを感じて苦しんでいる様子など想像もつかない。

「ウヨウヨいるよ。裁判になったらお前を叩きのめしてやる、なんてのはしょっちゅうだし、殺人犯の家族を取材したときは、お前は人間のクソだなって顔に唾かけられたりな。ひどいもんだよ」

「この仕事を選んで、後悔してるんですか」

 ――お前は人様に迷惑をかけて生きている。

 手術をした父の見舞いにもまだ行ってない。なぜ、もっと父を喜ばせるようなことを仕事に選ばなかったのか。なぜ、自分は事件記者になったんだろう。

「後悔はしてない。取材も同じだよ。取材して、それがたとえ記事にならなくても、後悔なんてしない。俺が悔いるなら、理由をつけて取材をやらないことだよ。誰かに殴りかかられたら嫌だとか、訴えられたらどうしようとか、寝不足で腹が減ったからとか、そんなことを理由に取材を怠ったら、あとでかならず後悔する。やるだけやって駄目なら、また次がんばればいいさ」

 北村は口を引き結び、前方の景色を見つめていた。

 前回と同じ場所まで行き、タクシーを降りた。車が通らない小道は雪が積もり始めている。タクシーの運転手に一時間待っていてもらうことにして、桐生と北村は歩き出した。

 舛添トワは無事だろうか。

 目印の樅の木を見つけ、獣道を下りていく。綿のような雪が頬に当たって消えていく。常緑樹の波に積もった雪は、白い花のようだった。

 真衣はどんな思いで父親に会いに来たのだろう。人間の心臓を欲する神など、復活する必要があるだろうか。それほどこの世界はけがれているというのか。

 平地まで下り、辺りを見回した。数日前に見た土地は白く塗り替えられ、溜め池に映り込んだ空が鈍く光っている。人影はない。

 異次元の世界へ来たような気がした。どこまで行っても人はいない。北村と桐生だけが時空の歪みに落ち込んで、人のいない世界へ来てしまったのではないだろうか。

「桐生君、あそこに誰かいる。ほら、納屋の後ろの草のなかに」

 北村は目を凝らし、黒ヒヨスが群生している草叢くさむらを見つめている。黒いマントを頭からかぶった人物が、草叢のなかに立っていた。腕を左右に広げている。小柄で痩せていることは、遠目にもわかった。

 桐生は雪道を駆け出した。あれは真衣なのか。まさかトワを殺し、心臓を神に捧げているのではないか。もしそうなら、彼女の魂はもう救えない。いや、遥か昔に真衣の心は闇に堕ちた。彼女の命を持ってしても、罪をあがなうことなどできない。

「桐生君、気をつけるんだ。篠原真衣は毒を持ってるんだよ」

 北村の忠告を聞きながら、それでも確かめずにはいられない。神は復活しない。真衣は間違っている……。

「真衣さん」

 黒いマントの人物に呼びかけた。だが、草叢に立っていた人物は微動だにしない。黒いフードには雪が積もっている。どれくらいの時間、この人物は静止しているのか。

 桐生は黒ヒヨスの葉に触れないように避けながら、マントの人物の前へ回り込んだ。深く被せられたフードの下に、日に焼けた顔が見える。細かい皺が刻まれ、かすかに口を開けている。大地に十字に組まれた杭が打ち込まれ、腕と両足は縄で縛り付けられていた。

「……トワさん……そんな……」

 その場に崩れそうになった瞬間、かすかなうめき声がした。トワは生きている。

 杭に駆け寄り、縄をほどこうとしたが固く結ばれ指で緩めることができない。

「鋏か包丁を探してきます。待っててくださいね。すぐ戻ります」

 その場を離れようとして、はっと後ろを振り向いた。何かがある。草のなかにぽっかりと四角い空間がある。背の高い草と降りしきる雪に視界を遮られ、何かよくわからない。ただ、よからぬ気配を感じた。

 吐く息が白く震えた。ゆっくりと近づき、覗き込む。

 草の上に長方形の台が置かれていた。布が敷かれ、その上に並べられているものを見て、桐生は悲鳴をあげていた。

 台の上には二つのガラス瓶が載っていた。瓶は凍りつき、なかに何が入っているのかは判別できない。二つの瓶と瓶の間に置かれていたのは人間の頭蓋骨だった。

 それはさながら神への祭壇のようだった。

 
 この週に発売された『FINDER』は売切れ御礼となった。その後、篠原真衣は大籠キリシタン殉教公園で身柄を確保された。そのとき、年配の男性と一緒にいたことがわかっており、男性のことを真衣は父親だと話したそうである。

 舛添トワは病院に運ばれ、一命を取り留めた。納屋の裏に生えていた黒ヒヨスは、行政により撤去されたという。  

               
                                       了


【参考文献】

トレイシー・ウィルキンソン著・矢口誠訳『バチカン・エクソシスト』(文藝春秋)
リチャード・ギャラガー著・松田和也訳『精神科医の悪魔祓い』(国書刊行会)
ウィリアム・ピーター・ブラッティー著『エクソシスト』(新潮社)
星野道夫著『森と氷河と鯨』(文春文庫)
セバスチャン・ポー、コリーヌ・ソンブラン著・ダコスタ吉村花子訳『シャーマン』(グラフィック社)
ミルチア・エリアーデ著・堀一郎訳『シャーマニズム』(ちくま文芸文庫)
ニック・ランド著・五井健太郎訳『絶望への渇望』(河出書房新社)
マルセル・モース、アンリ・ユベール著・小関藤一郎訳『供犠』(法政大学出版局)
クロード・レヴィ=ストロース著・大橋保夫訳『野生の思考』(みすず書房)
サムエル・ウルマン著・作山宗久訳『青春とは、心の若さである』(角川文庫)
ジョルジュ・バタイユ著・生田耕作訳『呪われた部分』(二見書房)
ニール・マクレガー著・高里ひろ訳『人類と神々の4万年史』(河出書房新社)
『旧約聖書』(いのちのことば社)
 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!