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黒い花の屍櫃(かろうど)・16


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 フロントガラスにぽつぽつと雨が当たった。小さな水滴は白い尾を引きながら流れていく。ワイパーが間隔を空けながら左右に揺れ、水滴を拭っていく。

 男が地図に記した刑場跡は、枯れ草に覆われた空き地にあった。木製のフェンスで囲ってある。ごつごつした縦長の岩がいくつも並んでおり、何も知らなければストーンヘンジを模しているかのようにも見える。信仰を捨てるより死を選んだ人々が眠る場所は、ひどく寒々として寂しかった。

 璃子はゆっくりとハンドルを切り、ワゴン車は細い脇道へと進んでいった。道の両側は樹林で民家はない。車一台がやっと通れる幅の道を五キロほど行くと、右手に小高い丘があった。その先はさらに道が狭くなっている。

「この丘の上だと思う。車はここに駐(と)めていきましょう。車を寄せるから、桐生君は先に降りて」

 璃子に促され、桐生は外に出た。傘はない。ナイロンコートのフードを被り、丘を上っていった。芝に覆われているが、人が一人通れる幅の小道は土で、ところどころに雑草が生えている。正面に白い平屋建ての教会が見えた。尖塔に十字架が飾られている。

 桐生は入口に近づき、ノブに手をかけた。鍵はかかっておらず、かすかにきしむ音と共に開いた。室内は柔らかな光に照らされ、長机の向こうにあるキリストの磔刑像たっけいぞうを浮かび上がらせている。室内には誰もいない。

 教会を出て、辺りを見回した。左手にも平屋が建っている。こちらの屋根に尖塔はない。ドアが開き、人が出てきた。白髪で、白い式服を着ている。服装からこの教会の神父だとわかる。

「教会の見学をご希望ですか」

 神父はビニール傘を差し、桐生のほうへと歩いてきた。璃子が道を上ってくるのが見える。いつも携帯している晴雨兼用の黒い傘を差している。

「いえ、ちょっとお聞きしたいことがあって来ました。十年前に、こちらで悪魔祓いを行なったと聞いています。そのときの少女は、祓魔式の三日後に亡くなったそうですね」

 桐生が近づいていくと、神父は傘を差し向けてくれた。身長は桐生より少し低く痩せているが、背筋はぴんとしている。

「あなたは、その少女のことを調べるためにわざわざここまでいらしたんですか」

 神父は桐生の顔をまっすぐに見た。非難の色はなく、静かに観察しているようだ。

「正木有紗ちゃんの祓魔式を行った川瀬神父は、いま、ある青年の悪魔祓いを定期的に行っているんです。その青年は、子供の頃に正木耕助さんの木彫り店を訪れていました。有紗ちゃんに取り憑いた悪魔が、その青年に取り憑いた可能性はあると思いますか」

 雨はみぞれ混じりになっていた。神父が濡れないよう、軒下に移動する。璃子が桐生の後ろで立ち止まり会釈すると、神父は表情を緩めた。

「よかったら、なかで温まっていってください。私にわかる範囲でお答えします」

 神父はドアを開け、二人を招き入れた。図書室にあるような長机と椅子が置かれている。側面に書棚があり、聖書や讃美歌集が並んでいた。右手にドアがあり、そばにおかれた石油ストーブの上で、アルミのヤカンが湯気を吹いていた。二人はコートを脱ぎ、ストーブの前で手を擦り合わせた。

「川瀬神父はお元気ですか」

 神父は隣室から急須と湯飲み茶碗を運んでくると、ヤカンから急須に湯を注いだ。湯飲みに緑茶を淹れ、桐生と璃子の前に置く。璃子は嬉しそうに緑茶を啜った。

「はい。僕たち、一度悪魔祓いに参加させていただいたんです。青年に取り憑いた悪魔は強靭なパワーを発していましたが、川瀬神父の祈りの力に押さえ込まれているようでした」

「あなたは、悪魔の存在を感じたんですね」

 神父の問い掛けに、桐生は頷いた。神父は桐生の向かいに座り、両手をテーブルの上でそっと組んだ。

「さきほど、あなたがおっしゃったことですが、少女に取り憑いた悪魔は消滅しました。それに、あのときの悪魔は少女が自ら呼び寄せたものです。青年に取り憑いているのは、別の悪魔だと思います。もし仮に同じ悪魔なら、川瀬神父はその悪魔の名前を知っているのですから、祓うことができるはずです」

 祓魔式の間、川瀬が何度も悪魔に名前を訊いていたことを思い返す。

「有紗ちゃんは、なぜ悪魔払いが成功したのに自ら命を絶ったとお考えですか」

 川瀬に訊いた問いを目の前の神父に繰り返した。川瀬は父親の失踪と生活の困窮に言及していた。

「あの子が悪魔を呼ぶ儀式を行っていたのは聞いていますか」

「父親の正木耕助さんは事故に遭われて、それまで営んでいた木彫り店がうまくいかなくなったそうですね。生活が困窮し、有紗ちゃんの信仰心も揺らいだのではないか、と川瀬神父は話していました。耕助さんが行方不明になった半年後に、有紗ちゃんは悪魔に取り憑かれたと聞いています」

 桐生が答えると、神父は視線を落とした。湯飲みに手を添え、ゆっくりと口を開いた。

「あの子は、自分から悪魔を受け入れたのかもしれません」

「それは、どういう意味ですか。受け入れるって、いったい……」

 璃子は手帳を開き、ペンを握りしめている。

「悪魔の力を借りるために呼び寄せただけじゃなく、自分の体を悪魔に差し出したのかもしれない、ということです。悪魔の力で父親を殺したのではないかと考えています」

「……だから、有紗ちゃんは自ら命を絶ったというんですか。悪魔から解放されても、父親を殺した罪は消えないから」

 桐生の呟きに、白髪の神父は頷いた。

 
 誰かが呼んでいる。優しい懐かしい声が体に染み渡る。母の声だ。声のするほうに手を伸ばすと、かすかに湿った花弁はなびらに触れた。母が庭で育てていた白い薔薇が、床一面を覆い尽くしている。花弁に触れると、紐が解(ほど)けたように花弁が散った。指先に柔らかな感触を残して。

 闇に堕ちていく花弁を見ていた。もう声は聞こえない。スマートフォンが振動している。

 桐生は目を覚まし、コートのなかからスマートフォンを掴んだ。画面には『赤石』と表示されている。一関から新幹線で東京駅に向かっている途中で眠り込んでいたようだ。すぐ隣で寝ている璃子を横目に立ち上がり、デッキに出て『通話』をタップする。

「さっき梶木が任意で警察に引っ張られたぞ」

 赤石の一声で眠気が吹き飛んだ。

「梶木さんがR・Jだと疑われてるんですか。でも、それって変ですよ。R・Jから送られた手紙は、『sorbetソルベ』を糾弾してるんですよ」

 ドア付近の壁に寄りかかり、窓を見やる。雨粒がガラスにぶつかって流れていく。夜は街のライトで照らされていた。もう時期東京駅に着くと放送が流れている。

「『sorbet』の儀式で、秘密裏に動物の生贄が捧げられていたんだ。動物虐待で通報があったらしい」

「誰が通報したんですか」

「匿名だ。元会員か、たまたま儀式を目撃した第三者だろうな」

「あるいはR・Jかもしれませんね」

 ベランダのカーテンを開けた。雨は止み、青空が広がっている。

「事情聴取は一日中やってるわけじゃない。とりあえず梶木に会って、『儀式』についてもう一度詳しく聞いてこい」

 赤石は要件を一気に喋り、桐生が返事する前に通話を切っていた。

 

 *****
 
 主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかってのぼることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
                      【イザヤ書40・31】

 
 R・Jは文字を指でなぞり、笑みを浮かべた。聖書にはいくつもの付箋が貼ってある。若草色の付箋が貼られたページを開き、言葉を読む。
 
 人々は、多くのしいたげのために泣き叫び、力ある者の腕のために助けを叫び求める。
 しかし、だれも問わない。
「私の作り主である神はどこにおられるのか。夜にはほめ歌を与え、地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を授けてくださる方は」と。
 そこでは、彼らが泣き叫んでも答えはない。
                       【ヨブ記36・9】

 
 与えられた試練は人を強くするが、時には心を打ち砕く。それでも神を信じられるのかを試されている。アブラハムは息子のイサクを生贄として捧げよと告げられ、それを実行しようとした。息子への愛より神を愛していたというより、彼は恐れていた。

 偉大な力を望むなら、恐れを忘れてはならない。自分の命を惜しんでもいけない。犠牲を払わない正義など存在しない。間違った行いを正したいと思うなら、自らを犠牲にする覚悟がいる。薄っぺらなモラルを振りかざし、自己満足に浸る者は傲慢の罪に値する。

 R・Jは椅子にもたれ、壁中に留めた記事を見回した。母親が五歳の我が子を虐待して死なせ、十七歳の少年が六歳の妹を暴行の果てに殺している。二十九歳の女は、両親と共謀して六十代の男の首を切り落とし、黙秘を続けている。それらは新聞や週刊誌からの切り抜きで、最近はネット記事もプリント・アウトして貼り付けていた。

 黒いスエード革の表紙を開き、ペンを握った。
 
 ただ平和を願って生きているだけでは、強欲で満足することを知らない者たちに土足で踏み込まれ、踏みにじられ、搾取さくしゅされる。
 真の正義を行えるのは、神しかいない。そのためには、次の儀式に取り掛からなければならない。どんな犠牲を払うことになっても。
 
「もうすぐだ。神の復活は近い」
 R・Jは旧約聖書を胸の上に押し当て、十字を切った。


       つづく