黒い花の屍櫃(かろうど)・13 長編ミステリ
『黒い花の屍櫃・1』はこちらから
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正木希美は『sorbet』の会員だった。有紗が亡くなったあと、精神的な支えを求めているときに梶木の著作と出合ったようだ。
府中駅から京王線で新宿へ向かう途中、スマートフォンで検索すると、梶木の著作は三冊見つかった。新宿駅で書店へ立ち寄り、『思想・宗教』の棚から一冊抜き出した。『精神の扉』と題されたハードカバーの表紙には、木彫りの面の写真が使われている。鷹を模した木彫りは、シャーマンが儀式で被(かぶ)る面を思わせた。
その本を買って、大江戸線で麻布十番へ向かった。電車へ乗り込むと、さっそく表紙を開いた。『はじめに』と書かれたページに視線を落とす。
人は生まれた土地と繋がっています。先祖の血を受け継ぐと同時に、土地の精霊とも繋がっているのです。私たちはそのエネルギーに守られて生きています。だからこそ、先祖が守ってきた血を裏切ってはなりません。ひとたび血を穢すようなことをすれば、その者はかならず呪われます。
桐生の脳裏に、旧約聖書の『創世記』が浮かんだ。神への捧げ物を競い、カインは弟のアベルを殺した。その土地にはアベルの血が染み、兄の罪を叫んでいた。カインは呪われ、故郷を追放される。土地の精霊と繋がっているのは、シャーマニズム信仰特有でもなさそうだ。
視線を本に戻した。
どんな土地にも精霊がいます。精霊は野生の動物や植物に宿り、トーテムとしてインディアンたちに崇められてきました。世界を旅し、トーテム・ポールを見た方もいらっしゃるでしょう。
トーテム氏族の始まりは、野生の動物です。太古からその土地で生き抜いてきたクマやハクトウワシ、クジラやサケは、クリンギット族やハイダ族の母体です。彼らは供儀によってトーテムと一体化することで、聖なる力を得ることができます。
彼らだけではありません。供儀は私たちに力を与え、聖なるものへと高めてくれるのです。これから私と共に、聖なる高みへと進んでまいりましょう。
捧げ物をするから力が与えられる。川瀬は「ギブ・アンド・テイク」だと話していた。生贄を捧げるから、神から恩恵を与えられる。『sorbet』の教義はキリスト教と相反するものではない。それなのにR・Jが『sorbet』を糾弾するのはなぜだろう。
『sorbet』で販売している久利生の黒い花を非難しているのに、長山恵里香の遺体を覆い尽くしていたのは黒い花だった。手の遺骨の上に置かれていたのも黒い花だ。どちらも久利生の花によく似せて作られていた。それはなぜかと考えているうちに、麻布十番に着いた。
改札を出て地下道を歩いていく。金曜の昼前で、二、三人の人とすれ違っただけで地上へ出た。
編集部のドアを開けると、璃子が真っ先に駆け寄ってきた。ビニール袋を桐生に差し出す。
「R・Jから手紙が届いています」
透明なビニール袋に白い封筒が入っていた。宛名はワープロ文字で、左下に『速達』と印字されている。消印は昨日で、『新宿二』と押されていた。
「証拠品ですから、指紋はつけないでください」
璃子にラテックスの手袋を渡され、桐生は手袋を嵌(は)めた。封筒から手紙を取り出す。前回同様、きっちり三つに折られたA4の紙を広げた。
『FINDER編集部御中』
今週号を拝読し、一刻も早くお返事を差し上げようとパソコンに向かっている次第です。あなた方の探究心に敬意を抱いております。
前述の記事の中で、供犠は何のためにあるのかと、問い掛けていらっしゃいましたね。
一言でお答えするなら、この世界が成り立つために必要だからです。
私たちが現実だと信じている世界は、すべてバランスで成り立っています。光を認識するには闇が必要です。死が訪れるから、また生まれる。善があり、悪がある。このバランスを取るために、儀式が必要なのです。
ただ勘違いしないでいただきたい。生贄となるのは悲しむべきことではありません。むしろ誉れです、神に捧げられた命は、聖なるものへと昇華されます。生きている間は決して到達できない聖域へと進み、神と共に永遠の清らかさを得ることができるのです。これ以上、尊い死はないでしょう。
桐生は唇を噛んだ。命を与えられた者は、懸命に生きるしかない。命を捧げることで到達できる聖域なんていらない。
おりしも大籠では人骨が発見され、ニュースになっておりました。遺骨のそばに供えた黒い花については、報道されていませんでした。ですから、あなた方はあれが私の手によるものだと気づいていないかもしれないと懸念しております。
私の供儀をより深く知っていただくために申し上げます。あれは、正木希美さんの遺骨です。昨年の十月に彼女のもとを訪れ、生贄として聖なる死を迎えられたのです。
神の復活は近い。それをあなた方にお見せすると約束いたします。では、また近いうちに。
R・J
「ふざけてる。R・Jは二人の女性を殺したんだ。儀式と称しながら、本当は殺人を楽しんでるんだよ」
手紙を引き千切りたかったが、その前に璃子が桐生の手から手紙を奪い取った。
「桐生君は、久利生君の祓魔式で悪魔を見たんでしょ。悪魔を信じるなら、神の復活も信じてるんだと思ってた」
「僕が見た悪魔なんだけど、もしかしたら催眠術にかかってたせいじゃないかって、高輪さんに言われたよ」
桐生はラテックスの手袋を脱ぎ、自分のスチール・デスクの抽斗に入れた。
「そう考えるほうが現実的ではありますね。肉体や精神のコンディションを助けるセラピーとして使っている心理学者もいます。フランツ・メズマーという内科医のことを調べたことがあります」
「メズマーは聞いたことがあるな。フロイトが精神症治療に催眠術を使ってたのは知ってるよ。でも催眠術って、そんなに簡単に誰でもできるってもんじゃないだろ。そもそも、催眠をかけられた覚えはあるのか」
武藤は桐生に視線を向けた。
「久利生君の部屋へ行った時に、暗示をかけられたのかな。でも、璃子さんも一緒にいたのに、僕だけ催眠にかかるなんて変だよね」
「梶木さんの取材に行った時かもしれませんよ。シャーマンなら可能かもしれません」
「じゃあ、武藤さんも催眠術にかかってるとか?」
「催眠術には、かかりやすい人とそうでない人がいるそうです」
璃子は桐生と武藤を見比べている。
「そういえば昨日、梶木さんに会ってきたよ。正木希美さんは、『sorbet』の会員だったんだ。R・Jは『sorbet』の会員を二人も殺したことになる」
「R・Jは、実は『sorbet』の会員だったのかもしれませんね。だから長山さんや正木希美さんとも知り合いだったとも考えられます」
「もしそうなら、警察が突き止めるのは時間の問題だよ。僕が見た悪魔が催眠術によるものなら、久利生君の症状も催眠によるものなのかな」
桐生はコートを脱いで椅子の背凭れに掛けた。コーヒーを淹れて一息つきたい。
「それはわからないですよね。川瀬さんは本物のエクソシストで、バチカンには国際祓魔師協会もあります。それに、あの祓魔式は本物です。催眠術にかかっているだけなら、エクソシストは必要ありません。ところで、久利生君は東京に戻ってきたんですか」
璃子の問いに、桐生は首を傾げた。武藤を見ると、首を横に振っている。
「久利生君から連絡はないけど、戻ってきてるでしょ。明日は祓魔式なんだ。帰りに久利生君たちのアトリエを覗いてみるよ。希美さんのSNSは、もう調べた?」
「フェイスブックに登録がありました。友達登録は二十人ほどで、全員にメッセージを送ってあります。アトリエに寄る前に、この手紙を青梅警察署に届けてください。編集長が連絡してくれていますから」
璃子は毅然とした顔で、R・Jからの手紙を再び桐生に渡した。
つづく