黒い花の屍櫃(かろうど)・21 長編ミステリ
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駅前で舛添と別れ、二人は車で大籠へ向かった。母親の自宅は、遺体が見つかった廃屋とは逆方向にある林の向こうだという。途中、土産物屋でわらび餅を買い、その隣にあった牛丼屋で汁だく特盛りを平らげた。北村は牛皿と豚汁を追加し、その食欲に圧倒された。睡眠の不足を食欲で補っているかのようだ。
「舛添さんに植物のことを訊かなかったのは、そのほうが住所を聞き出せると思ったからですか」
桐生はきょう二杯目のコンビニ・コーヒーを手に持っていた。白い湯気とともに芳ばしい香りが立ち上ってくる。
「変に警戒されたくなかったんだ。でも聞き出せてよかったよ。そうだ。俺のiPadに毒性植物の画像を保存しておいたから、いまのうちに見といてほしい。体に吸収されたら中毒を起こしたり、最悪死に至ることもあるらしい。桐生君、もし手が触れても、口や目に近づけちゃ駄目だよ」
北村からiPadを手渡され、唖然とした。『野山で見かける植物』と題された画像ファイルには、二十枚近い植物が写真入りで説明されている。ドクニンジンやトリカブトといったメジャーなものから、マンダラゲ、ベラドンナといった聞いたこともない植物も載っていた。これだけの情報を、桐生が寝ている間に調べたのか。
青い花に目を惹かれ、トリカブトの説明を読んでみる。強い毒性があることで有名だが、ブルガリアでは観賞用に栽培している家庭も多いと書かれていて驚いた。茎は一メートル近い。マンダラゲは小説に書かれたこともあり、ブルガリアでは雑草の生い茂ったところによく見られるという。
画像を見ながら説明を読んでいるうちに車は小道に入った。速度を落とし、樹林に挟まれた一本道を進んでいく。
青紫色の花が咲くベラドンナの実は苺に似ているが、食べると中毒を起こすようだ。一方でパーキンソン病の治療に良好な結果をもたらし、「ブルガリア療法」として認められているらしい。長さは一メートルに達する。そこまで読んだところで、車が停止した。
「ここから先は歩いていこう」
北村は車から降りると、着ていたダウンコートのジップを首元まで上げ、手袋を嵌めた。左手にはわらび餅の入った紙袋を下げている。桐生はナイロンコートのポケットに入れたままのロザリオを握りしめ、北村のあとに続いた。
時刻は午前十時を回り、青空に薄い布のような雲が浮かんでいる。きのうに引き続きの晴天だが、二月の風は冷たさを増していた。北村はスマートフォンで場所を確かめている。
「電波入りますか」
「なんとかね。北西に進んでいくと大きな樅(もみ)の木があるって聞いたけど、この辺りは常緑樹だらけだから、どれがその樅の木なのかわかるかな」
桐生は北村がスマートフォンを掲げている方向を見渡した。舗装された道から外れた林のなかに、人が通れるくらいの獣道がある。
「こっちへ行ってみましょう。もし毒性植物が生えてるようなところに家があるなら、きっと道も舗装されてないですよ」
「それもそうだな。桐生君に従いていくよ」
二人は枯葉を踏みしめながら獣道へと入っていった。傾斜になっている。滑らないようにゆっくりと下りていった。
小道を抜けると平地になっていた。小さな溜め池があり、右手には大きな樅の木が立っている。木のそばに茅葺の一軒家があった。
「きっとあの家ですね。舛添さんのお母さんは、ここでどうやって暮らしを立てているんだろう」
桐生は樹林と溜め池に挟まれた脇道に立ち止まり、周囲の草に注意を払った。毒植物は茎が一メートル以上のものが多いと書かれていたが、そんな植物がいたるところに茂っている。
画像では花ばかり見ていたが、どこにも花は咲いてない。葉の形だけで見分けるためには画像と見比べる必要があるが、iPadは車の中に置いてきてしまった。
「自給自足かもな」
北村はスマートフォンを鞄にしまうと、茅葺の家へと近づいていった。
家は平屋で、入口の横に窓が三つ並んでいる。右端の窓は細く開いていた。
「ごめんください。舛添さんのお宅ですか」
北村が声を張り上げた。すぐに返事が返ってきた。引き戸が開き、白髪の老婦が顔を出した。小柄で痩せているが腰はまっすぐで、赤いセーターの上に毛皮のベストを着込んでいる。
「舛添登輝さんにこちらの住所を教えていただきました。登輝さんのお母さんですか」
北村が名刺を差し出すと、老婦は頷いた。
「おめはん方は、東京がれ、えらしたんだが?」
「はい、きのう新幹線で一関に来ました。あ、これ、よかったらお土産です。登輝さんから聞きました。わらび餅が好物だそうですね」
北村は人のよさそうな笑みを浮かべ、左手に下げていた紙袋を手渡した。
「柔らがぐで甘すぎねぁ和菓子が好ぎなんだ。くず餅や白玉団子も好ぎだよ」
舛添の母親は目を細め、土産袋を受け取った。顔には無数の細かい皺が刻まれているが、日に焼けて溌剌としている。
「喜んでもらえてよかった。登輝さん、お母さんのことを心配してましたよ。お一人で生活するのはたいへんですよね」
北村は溜め池を振り返った。
「この先には畑もあるし、林さ行げば山菜やきのごも採れるら、なんとがやっていげるよ。おめはん方は、希美のごど訊ぎに来だのがい?」
老齢の母親は北村と桐生の顔を見比べている。
「希美さんと夫の耕助さんのことを調べています。十年前に亡くなった有紗さんのことも」
北村はいったん言葉を切った。沈黙が流れる。
桐生は赤石に言われたことを思い出していた。記者が沈黙することで、取材対象が口を開くことがあるという。相手に考える時間を与え、思っていることが呟きとなってこぼれ出る。そこに隠されてきた真実がスクープを生むことだってある。だから沈黙を破ってはならない、と。
「……有紗は、自殺したんだ」
母親は低く呻いた。
「悪魔を呼び出して、父親の耕助さんを殺したと聞いています。でも、それは真実じゃないですよね?」
北村は口元に笑みを浮かべたまま、母親に問い掛けた。今度は相手が黙り込む。
「もう隠す必要はありませんよ。ご主人は亡くなられたと伺っています。耕助さんも希美さんも行方がわからない。彼らは幻覚を見ていたんじゃありませんか。我々は、この周辺に幻覚作用を持つ植物が生えているんだと思って来たんですよ。彼らはそれを摂取して、悪魔に取り憑かれたふりをしていた。違いますか」
北村の言葉に、母親はしばらく俯(うつむ)いていた。沈黙が続く。
桐生は二人から視線を外し、家の周りを見回した。三人がいる場所から十メートルほど離れたところに納屋がある。母屋のあとに建てたものらしく、屋根は臙脂色のトタンだ。納屋の後ろに背の高い植物が茂っている。
誘われるように、納屋のほうへ歩いていった。植物は太陽の光に向かって直立に伸びている。葉は黄緑色で柔らかそうだ。近づいていくと、切り込みを入れたようにところどころ尖っているのがわかった。表皮は細かい毛のようなもので覆われている。独特の匂いが漂っていた。
「おめ、その植物さ触っちゃわがねよ」
声が響き、桐生は伸ばしかけた手を止めた。振り向くと、母親は桐生に視線を向けたまま早足で歩いてきた。老齢とは思えない矍鑠とした足取りだ。口を引き結び、首を何度も横に振っている。その後ろを北村も従いてくる。
「その植物は、神様がおららにぐれだ秘薬なんだよ。んだども、扱いには充分用心しねぁばなんねぁ。そうしねぁど、厄介なごどになるがらね」
母親は桐生の顔を見つめ、小さな目を瞬かせた。
「この植物に触れると、幻覚が起こるんですか」
「触っただげじゃ幻覚は見えねぁよ。量さえ間違えねぁば、麻酔薬にもなる。おらだづは、この植物大事さ守ってぎだんだよ」
母親は毛皮のベストの前を掻き合わせた。冷たい風が草木の間を吹き抜けていく。
「この植物は、何という名前ですか。どんな花が咲くんでしょうか」
桐生は風にそよぐ丈高の植物を見やった。
「黒ヒヨスっていうんだ。花は五月がら咲ぎ始めるよ。淡え黄色が白の花で、花冠の内側は紫色なんだ。雌しべの周りは黒っぽぐなるがら、それで黒ヒヨスって呼ばれでらんだど思う」
――黒ヒヨス。
北村の画像ファイルで、黄色い花を見たような気がする。だが記憶は曖昧で、もし仮に花が咲いていても見分けられなかっただろう。
「有紗ちゃんは、誤って黒ヒヨスを摂取したんでしょうか。そのせいで悪魔を見ていたってことですか」
北村が口を開く。
「風が冷だぐなってぎだ。続ぎは、えのながで話しますよ」
老齢の母親は、毅然とした表情で母屋へ戻り始めた。
家のなかは暖かかった。囲炉裏や暖炉があるところを想像していたが、炬燵とストーブが置かれている。座布団を勧めてもらい、北村と隣り合って炬燵に入った。
「どうぞ召し上がってくなんしぇ」
盆の上に湯呑みを三つ載せ、母親が戻ってきた。桐生たちがいる居間の奥と左側面に襖がある。奥の襖は開いたままで、板の間にはガス台と流しが見える。左隣は寝室だろう。
あらためて母親に名前を尋ねると、舛添トワと答えた。録音の許可を取り、桐生はICレコーダーのスイッチを入れた。炬燵の真ん中に置き、湯呑みに手を伸ばす。緑茶だろうか。とくに香りはしない。
もしここで毒を盛られたら、二人とも消息不明になる。よからぬ想像に、飲むか飲まないか躊躇っていると、向かいに座った舛添トワが自分の湯呑みを引き寄せた。
「毒なんて入ってねぁがら、安心してくなんしぇね。毒盛るつもりなら、おめはんが黒ヒヨスさ近づいでも止めながったよ」
トワは湯呑みに三度息を吹きかけ、茶を啜った。
「それもそうですね」
桐生も立ち上がる湯気を吹き飛ばし、一口吞み下す。胃の奥がじわりと温まるのを感じた。
「先ほどの続きですが、有紗ちゃんは黒ヒヨスを飲んだのでしょうか」
北村は湯呑みには触れず、手帳を開いた。
「あの男は呪われでらったんだよ。おらだづにはそれが見抜げながった」
トワは視線を落とした。
「耕助さんの彫ったマリア様とキリストの像には、慈愛が溢れていると、涙を流したそうですね。翔子さんから聞きました。それだけ人の心を打つ彫刻が彫れる人だったから、希美さんとの結婚も賛成されたんですよね?」
桐生も自分の手帳を開き、四日前に舛添翔子から聞いた事実を確かめた。
「確がに耕助さんのマリア像は素晴らしかったよ。時間が止まってらった」
「それは、時間を忘れるほど美しいという意味ですか」
北村は首を傾げている。
桐生は、父親の書棚に所蔵されている一冊を思い浮かべていた。アウレリオ・アメンドラという写真家が撮った大判の写真集で、メディチ家礼拝堂に設置された彫刻をつぶさに鑑賞することができる。ミケランジェロは彫像を永遠の命を吹き込んだ。
写真で見ていることを忘れ、まるで自分もその空間に立っているような感覚になる。彫刻は生きている。
左に向けられたジュリアーノ・デ・メディチは、次の瞬間には右を向くのではないか。彼の足元に配された《夜(ノッテ)》は顔を上げて微笑み、《昼(ジョルノ)》は体を伸ばして立ち上がる。そんな光景を想像せずにはいられない。優れた芸術作品は時間を止める。止まった時のなかを永遠に生き続ける。
「事故さ遭わねぁば、こったなこどにはならながった。耕助さんは右手怪我して、人が変わってしまったんだ。腰にも痛みがあって、それで黒ヒヨスさ手出したんだ」
トワの言葉に、桐生と北村は顔を見合わせた。
「それじゃあ、最初に幻覚を見たのは耕助さんだったんですか」
「鎮痛剤の作用があるど話したべ。幻覚見るのが目的でながった。ただ痛み止めどして、少量おぢゃさ薄めで飲んでらったんだよ。んだども、そのうぢに、もっと欲しくなってしまったんだ。幻覚症状体験して、新しい作品が作れるどいい出したんだよ」
トワは息を吐き、湯呑みに口を付けた。
「もしかして、耕助さんは黒ヒヨスを飲みすぎて……」
あとの言葉を飲み込んだ。
「耕助さんは勝手さ黒ヒヨス飲んで、足滑らせだんだ。おらが畑がら帰ってぎだどぎには、溜め池さ浸がって亡ぐなってらった」
「どうして、警察に通報しなかったんですか」
正木耕助は事故死だった。だがトワも夫も警察に連絡しなかった。遺体はトワと夫が隠したのだろうか。
「警察さ調べられだら、黒ヒヨスも奪われでしまうべ。日本の家庭で栽培するのは禁止のはずだがらね」
「……遺体は、埋めたんですか」
そうとしか考えられない。これは罪の告白だ。罪状は死体遺棄だが、すでに時効が成立している。
「遺体は溜め池がら引ぎ上げで、どうすればいいが希美さ相談さ行ったんだ。んだども、翌朝には死体は失ぐなってらった。神様が連れでいったんだど思う」
希美が遺体を処理したのか。有紗も手伝ったのかもしれない。そのことで有紗は心を病んでしまった可能性は充分考えられる。あるいは記憶を消し去るために黒ヒヨスを飲んだのか。
「ずっと秘密にしてきたのに、あなたは僕たちに黒ヒヨスのことを話してくれました。もう黒ヒヨスを守らなくてもいいということですか」
「希美も亡ぐなってしまったんだ。もうおらしかいねぁども、守る必要があるど思いますか」
トワは湯呑みを握りしめている。
「先週、希美さんの家の庭で見つかった骨のことなら、まだ希美さんのものだと断定されていませんよ」
「いや、希美はもうこの世さ生ぎでねぁ。命の光は消えでしまった。おらにはちゃんとわがるんだよ。んだ、おめはん方にお願いがあるんだ。誰が希美を殺したのが、突ぎ止めでおらに教えでほしい」
トワは顔を上げ、桐生と北村に視線を向けた。
「きのう、この近くの廃屋で、若い男性の遺体が発見されたのはご存知ですか」
「知ってら。サイレンが響ぎ渡ってらったがらね」
北村は鞄から二つ折りの紙を取り出し、トワに差し出した。きのうR・Jから届いた手紙のコピーだ。現物は警察に提出している。
「希美さんを殺したのは、この手紙の送り主だということがわかっています」
トワは手紙を手に取り、読みながら小さな声で呟いた。
「希美を殺した犯人は、死んだのが……」
「それを突き止めたいと思っています。トワさんは、久利生稔という青年をご存知ですか。桐生君、久利生君の写真を持ってないか」
「ええと、悪魔憑きの取材をしたときに、武藤さんが写真を撮ってました。武藤さんに画像を……」
桐生は振り返り、スマートフォンを取り出そうとコートを引き寄せた。スマートフォンはコートのポケットに入れたはずだ。
「いま、悪魔憑ぎっつったが? その青年は、悪魔さ取り憑がれでらのがい」
トワが問い掛けた。
「久利生君は『sorbet』というオカルト同好会に参加していました。そこで悪魔に取り憑かれたと聞きましたが、彼も黒ヒヨスを飲んでいたんでしょう。もしかすると、誰かに飲まされていたのかもしれません。桐生君、希美さんも『sorbet』に参加していたんだったよね?」
「ええ。奇数月に『sorbet』の主催者である梶木さんの自宅で儀式が行われていて、希美さんは六月と十二月にはビジネスホテルに宿を取って参加していたそうです。希美さんは、梶木さんに黒ヒヨスを調達していたのかもしれないですね」
二人の説明に、トワは目を見開いた。
「希美が持ぢ出した黒ヒヨスで、あの青年は悪魔見でらったのが……」
「その可能性は高いでしょう。彼は黒ヒヨスを毒だと思ってなかったのかもしれません。何かのエキスだとでも信じていたとかね。だから幻覚症状に戸惑い、悪魔祓いを受けることにしたのかもしれません。ちなみに久利生君の悪魔祓いを行なっていたのは、川瀬神父です。日本で唯一の悪魔祓い師で、有紗ちゃんの悪魔を払ったのも川瀬神父だと聞いています」
「……その青年は、痩せでらったげえ? 色が白ぐで、女の子みだいな綺麗な顔してらったげえ?」
「そうです。トワさんは、久利生君に会ったことがあるんですね。彼は子供の頃にこの地を訪れ、耕助さんが観光客向けに開いていた木彫りの体験教室にも参加していたんです」
桐生は前に乗り出した。
「有紗ど一緒さ、男の子が遊びに来てらったごどがあったよ。あの子だったのが」
トワは思案気に顔を右に傾けた。
「その青年に、最近会ったんですね?」
「訳ありな様子の青年がこごへ訪ねでぎだんだ。綺麗な花の彫刻持ってぎでね。大籠で彫刻やりでって言うがら、しばらぐ宿貸してけだんだ。納屋で木彫り彫ってらったよ。んだども、四日前にいなぐなっちまった。その子が残していった彫刻が納屋にあるよ。まさが、あの青年がこの手紙書いだ犯人なのがい?」
「それはまだわからないんですが、はっきりしたらトワさんに真っ先にお知らせしますよ」
北村は手帳を閉じ、ICレコーダーを掴んだ。最後まで湯呑みには口を付けなかったのは、毒を警戒していたからだろうか。
桐生は緑茶を飲み干し、立ち上がった。フラつくようなことはない。出されたお茶に毒など入ってはいなかった。体が温まり、頭もすっきりしている。
「帰る前に、納屋を見せてもらってもいいですか」
久利生は失踪している間、何を彫っていたのか見ておきたかった。一緒に大籠を訪れた日にはぐれなければ、彼はいまも生きていただろうか。なぜ東京へ帰らなかったのか。
「何でも見でいってぐれ。あの青年は才能があったよ。花だげでねぐで、神様の像彫って欲しかった。そしたら家宝にしたども、まったぐ残念だよ」
トワは無念を振り払うように首を横に振った。頭にタオルを巻き、軍手を嵌める。玄関に置いてあったシャベルと籠を抱え、外へ出た。日は高く昇っているが、空気はひんやりとしている。
「耕助さんの別れた妻子は、東京に住んでいるそうです。トワさんは、耕助さんから何か聞いていませんか」
トワの横を歩きながら問い掛ける。梶木から話を聞いたときは、失踪した夫を探しているのだと思った。だが、希美は耕助が溜め池に浸かって死んだことを知っていた。トワから夫の死を告げられた希美は、トワが寝ている間に遺体をどこかに埋めたのだろう。有紗が悪魔を呼び出して殺したというのは、ただの憶測に過ぎなかった。
「耕助さんからはなんも聞いでねぁよ。んだども、希美は知ってらったど思う。一度、耕助の子が訪ねで来だって聞いだよ」
「それは、本当ですか」
思わず声を上げた。
「幾つくらいの子が訪ねて来たんですか」
「おらにはわがらねぁ。希美の家さ行ったら、メモどが日記なんどがあるがもしれねぁ。んだども、警察がみんな持って行ったごったね」
トワは納屋の前まで二人を案内し、これから裏の畑へ行くという。
「鍵は掛げねぁでいいよ。必要なものがあったら持っていって構わねぁ。登輝には、元気にやってらがら心配はいらねぁど伝えでほしい」
トワは確かな足取りで、溜め池の向こうがの道を登っていった。
納屋の扉はアルミの引き戸だった。北村はスマートフォンで周囲の写真を何枚か撮り、黒ヒヨスも写した。
「草だけ見ても、毒があるなんて思わないよな。いや、花が咲いてても気づかない。むしろ花の匂いを嗅いでみたくなるから、かえって危険かもしれないね」
「北村さんがせっかく調べてくれたのに、もう少しで触るところでした。おまけにタブレットは車に置いてきちゃったし」
「いや、かえってよかったよ。桐生君が近づかなかったら、トワさんは黒ヒヨスのことを話さなかったかもしれないよ。本当は、正木耕助の遺体も発見したいところだけど、トワさんは知らないみたいだったな」
「僕は、希美さんが埋めたんだと思いますね。それにしても、久利生君はどうしてトワさんを訪ねてきたんだろう」
「黒ヒヨスに魅了されていたのかもしれない。久利生君は希美さんから毒を買ってたんだよ」
北村は戸口に近づき、引き戸のトッテに手を掛けた。大した力を入れなくても、扉はするするとスライドした。薄暗いが、正面に窓があり、うっすらと光が差し込んでいる。二人はなかへ足を踏み入れた。
「でも、それなら悪魔に取り憑かれていたんじゃないことを、久利生君はわかってたはずです。それなのに、どうしてわざわざ悪魔祓いを受けていたんですか」
話しながら、室内を見回す。三畳ほどの広さで、壁際に大きな木の台とスツールが置かれていた。木片が大量に散らばっている。母屋にあったのとよく似た石油ストーブがあり、奥には小さな流しと換気窓もある。光はその窓から差し込んでいた。
物置というより、作業場だ。部屋は棚で仕切られていた。ダンボールや木箱がぎっしりと詰め込まれている。
「有紗ちゃんのケースと同じじゃないのか。有紗ちゃんはなんらかの理由で黒ヒヨスを摂取した。幻覚症状があることで悪魔憑きだと噂され、悪魔祓いを受けることにしたんじゃないかな。小さな村は、何でも筒抜けだからね。でも、本当は悪魔に憑かれてなどいない。そのうちに過剰に摂取するようになり、命を落としたんだよ。薬物中毒と一緒さ」
北村が書いたスクープ記事が脳裏をよぎる。夢を叶え、成功したミューシセシャンが自らクスリに手を出し、身の破滅を招く。金や名声では埋められない穴を抱え、幻覚で穴を消し去ろうとする。
久利生が埋めたかった穴は何だったのろうか。
棚で仕切られた向こう側に足を踏み入れ、桐生は目を見張った。床一面に花が敷き詰められている。いや、正しくは花の彫刻だ。梶木の自宅で見た黒い薔薇とは違う。大きさはまちまちで、着色はされてない。百合のような大振りの花もあれば、道端に咲いているような小さな名もなき花もある。
木彫りの花のなかに、黒い木箱が置かれていた。
「桐生君、気をつけたほうがいい。毒の粉でも入ってたら大変だよ」
北村の声は耳に入っていたが、理性で考えるよりも先に箱に手を伸ばしていた。これは久利生のメッセージだ。ずっと埋めたかった心の穴に、何を注ぎ込めばいいのか。
子供の頃に母を病気で亡くし、大人になったいまは父の見舞いにも行かずに取材に明け暮れている。その記事は、誰かを幸せにするものじゃない。
――お前は人様に迷惑をかけて生きている。畳の上では死ねないと、わかっているのか。
読者が求めるスクープで、傷つく者がいる。スターの裏の顔を暴いて、それが何になる?
いや、違う。虚構は崩れ去ればいい。どこかにかならずあるはずだ。けっして崩れ去ることのない尊い何か……。
それは、掌に収まるほどの小さな箱だった。花の中からを掴みだし、そっと蓋を開けた。
「……これは……花弁……」
箱のなかには白いワタが敷き詰められていた。その中央に、緩やかに波打つ花弁が載っていた。触れてみると硬い、木を削り出して花弁を作ったようだ。真っ赤に塗られ、艶もある。それは大輪の薔薇の花弁を思わせるハート形をしていた。
つづく