黒い花の屍櫃(かろうど)・2 長編ミステリー
『黒い花の屍櫃・1』はこちらから
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悪魔に取り憑かれたという青年は、小平のアトリエで制作しているという。梶木から住所を聞き、訪ねてみることにした。
「免罪符の実態を暴くはずが、まさか悪魔憑きの話になるなんて驚きだったな」
武藤の顔色はすぐれない。歩く速度もふだんよりゆっくりで、まるで目的地に着くのを遅らせたいかのようだ。
「武藤さんは、悪魔は存在するって信じてる?」
小平駅の改札を通り抜け、武藤に問い掛けた。
「この世界は二つのエネルギーからできてるらしいぜ。否定的なエネルギーが悪魔で、対抗勢力が神と呼ばれるものらしい。現実に起こることは、俺たちの思考に拠るってことだな」
二人は跨線橋を渡り、階段を下りていった。前方に欅並木が見える。その奥には霊園がある。そこに、十歳のときに病死した母の墓がある。
霊園に続く道には石材店が並び、仏花が売られていた。白や黄色の菊のほかに、鮮やかなピンクのカーネーションや紫のリンドウの花束がバケツに活けられている。バケツは、墓掃除で水を汲めるようにという配慮からだ。花を買うと、柄杓も貸してくれる。墓参りが終わったら、バケツと柄杓は店先に返せばいい。
桐生が墓参りに来るときは、たいていピンクの花がアレンジされた花束を買った。母は鮮やかなピンクの花が好きだった。
「この霊園、ずいぶんと広そうだな」
武藤は入口の向こうに視線を向けた。
「うん。広場もあって、子供たちが駆けっこしたりしてるよ。ジョギングや犬の散歩をしてる人も見かけるな。ここに母の墓があるんだ」
「俺は親父を亡くしてる。毎年正月は実家に帰って墓参りしてるんだ」
「実家は長野だっけ?」
霊園を通り過ぎ、細い路地に入った。武藤がグーグル・マップで場所を確かめながら頷く。
「山ん中にあるんだ。お袋は足腰が達者でさ。月命日には一人で墓参りしてるらしい。もういい歳だから一人で行くのはやめろって言ってるんだが、聞かないんだ。山の空気吸いながら親父と話すのが楽しいんだと」
「元気なお母さんで羨ましいな」
桐生が墓参りしたのは半年前だ。一月中には花を供えに行こうと思っていると、バス通りに出た。うどん屋があり、店内から出汁のいい香りが漂ってくる。
「もうすぐお昼だね。帰りはここで食べてこうよ」
ガラス戸越しになかを覗くと、十席ほどのカウンターはすべて埋まっていた。うどんを啜る男たちの向こうで、白い湯気がもうもうと立っている。
「讃岐うどんか。いいね。俺はぶっかけ山菜うどんだな」
「健康的だね。僕はカレー南蛮かなぁ」
飯のことを考えているときが一日でもっとも平和だ。取材で食事が喉を通らないほどの衝撃を受けることもあれば、締め切り間近で食いっぱぐれることもある。うどん屋の角を曲がると、武藤が指差した。
「あの建物だな。一階がアトリエで、二階と三階はヨガ教室って話だったよな。四階はイタリアン・バルだぜ。営業は夜からか」
クリーム色のビルは四階建てで、壁面に看板が表示されていた。一階と三階の窓から明かりが漏れている。
エントランスのガラス扉を開けると、右手に集合ポストが並んでいた。イタリアン・バルは『40's』、ヨガ教室はそのままで、アトリエの表札だけがない。突き当りにはエレベーターがあり、その手前に階段があった。階段の向かいに黒いドアがあるが、こちらも表札はない。
悪魔に取り憑かれている青年とは、どんな人物なのか。自分が作った作品が、免罪符として売られていることをどう思っているのだろう。
チャイムを鳴らし、耳を澄ませた。武藤は桐生の五歩後方に立っている。
「何でそんなとこに立ってるの?」
「だってヤバいだろ。ほら、いきなり胸倉掴まれて投げ飛ばされたら」
武藤はマーカス神父よろしく十字を切った。ドアが開き、若い男が顔を出した。
「『sorbet』の梶木さんから、こちらに黒い花の箱を制作された作家の方がいらっしゃると伺ったのですが」
桐生は名刺を差し出した。
「ええ。先ほど梶木さんから連絡をもらい、お待ちしておりました」
男は桐生から名刺を受け取り、久(く)利生(りお)稔(みのる)と名乗った。蒼白い顔で、白いつなぎを着ている。痩せているが、とくに変わった様子はない。
「心配なさらなくても大丈夫ですよ。悪魔に憑かれているといっても、普通に生活はできています。ふだん、悪魔は僕のなかで眠っているんです」
久利生はドアを大きく開け、桐生と武藤を招き入れた。なかは三十畳ほどの広さがあり、天井に嵌込まれた蛍光灯がアトリエの隅々まで照らしている。壁も白で、床はコンクリートだ。
左側面にある窓は磨りガラスで、冬の柔らかな陽光が射していた。右側の壁に台が設置され、モチーフが組まれていた。その前に大型のイーゼルにキャンバスがセットされている。キャンバスに描かれていたのは、青白い肉体の何かだ。黒い闇にしゃがみこみ、物問いたげに目を大きく見開いている。その生き物には大きな耳とロープのような尾があった。
正面突き当たりの壁には、『sorbet』で見たのとよく似た箱が置かれていた。窓際に作業台があり、翼を広げた獣の像と大輪の黒い花が並べられている。
「きみの作品、梶木さんのお宅で拝見したよ。花は造花だって聞いたけど、素材は何で作ってるの?」
作業台に近づき、黒い花に視線を落とした。桐生の父は高校の美術教師で、時間があるときは家で油絵を描いている。子供の頃にデッサンで挫折していなければ、美術の世界に進んでいたかもしれない。絵画制作はできないが、美術鑑賞は好きだった。
「紙粘土で作って、アクリル絵の具で塗装しています。レジンや革で作ることも考えたんですが、不透明で艶のない花にしたかったんです」
久利生の説明を聞き、桐生は箱に記されていた言葉を思い浮かべた。
「きみは箱の蓋に、〃死は眠る。黒い花のなかで〃と記していたね。あれってどういう意味なのかな」
「艶のない黒い花には、死が潜んでいる。そんなイメージで作っています。でもそれは、死を望むという意味ではなく、死を知ることでより誠実に生きられるんだと思っています」
「メメント・モリか」
武藤が呟いた。イーゼルの前に立ち、青白い生き物を眺めている。
「きみが作った花、会員に売ってるそうだね。一輪五千円って聞いたよ」
桐生は作業台から離れ、武藤の隣に並んだ。
「希望者にお売りしています。会員の方に喜んでもらえるなら、それでいいんです。本当は無料でお配りできたらとも思いますが、アトリエのテナント料や家賃を払わないといけないですから」
久利生の表情は穏やかで、やましいことがあるようには見えない。作品の販売は不当な金儲けの手段ではなさそうだ。もしかするとあの手紙に書かれていたことは、事実ではないのかもしれない。『sorbet』の元会員の嫌がらせという可能性もある。
「この絵もきみが描いたの?」
「いえ。それは榊(さかき)君の作品です。彼とアトリエをシェアしてるんです。彼、鷹翠美大の教務補助をしてるんで、ここへ来るのは夕方以降です。僕、彼の描く世界が好きなんです」
久利生はアトリエの隅に積み重ねられたスツールを中央に四つ並べ、微笑んだ。目元が和らぎ、やさしい印象になる。白い肌は陶器のようにきめが細かく、ジェンダレスな魅力がある。
「きみたち鷹翠美大の出身かい? まだ卒業して間もないのかな」
スツールの一つに座り、久利生に問い掛けた。
「卒業して一年になります。『sorbet』に置いていただいている作品が卒業制作になります」
久利生はドア口横の流し台へ向かい、棚からカップを三つ取り出した。台の上にはコーヒーメーカーがあり、すでにピッチャーにはコーヒーが保温されていた。
「悪魔の声が聞こえるようになったのは、いつごろから?」
桐生は久利生がコーヒーをカップに注ぐ様子を目で追っていた。所作が丁寧で美しい。育ちの良さが滲(にじ)み出ている。武藤はイーゼルの前から動かず、ときおり不安げに桐生のほうを見ていた。
「一年ほど前からです。子供の頃からシンボリックなものが好きで、大学では天使と悪魔の彫刻を彫(ほ)っていました。神秘的な体験がしたくて『sorbet』の会合に参加するようになり、それから幻聴が聞こえるようになりました」
久利生はトレーにカップを載せ、空いているスツールの上に置いた。白いソーサーにはスティックシュガーとティースプーンが添えられている。
「悪魔に取り憑かれているとわかったのは、どうして?」
桐生は手帳を開いた。久利生は武藤にもコーヒーを勧め、桐生の向かいに座った。
「幻聴がだんだんひどくなって、あるとき意識を失ったんです。いつもとは別人の声で怒鳴り散らし、知らない人に殴りかかったそうです。そばにいた榊君が止めてくれて喧嘩にならなかったそうですが、それをあとで知って怖くなりました。すぐに病院を受診して、血液検査やMRIで調べてもらいました。でも、発作性疾患や脳の機能不全は見つかりませんでした」
久利生の穏やかな話し方に安心したのか、武藤もスツールに腰かけた。『sorbet』が同好会として害のないものなら、この取材はここで終了してもよかった。だが、儀式で悪魔に憑かれたことは事実なのか。それはどうやって確かめればいいのだろう。そもそも悪魔はこの世界に存在しているのか。
「その後、精神科を受けました。そこで出会った精神科医が、僕に紹介してくれたんです」
久利生は言葉を切り、膝の上で指を絡めた。沈黙はほんの数秒だったかもしれない。あるいは数分だっただろうか。久利生は次の言葉を口にするのを躊躇っていた。桐生は久利生の顔を見詰めたまま、沈黙に耐えた。
「川瀬玄隆さんにお会いしました」
名前を言い、久利生はほっとした様子で息を吐いた。桐生は武藤と顔を見合わせた。
「著名な方なのかな。不勉強で申し訳ないんだけど、存じ上げないな。川瀬さんって、どんなお仕事に就かれてる方なの?」
「彼は、日本にいるただ一人の祓魔師です。ローマ・カトリック教会の日本支部は、日本に公式なエクソシストはいないと発表しているんで、記者さんたちがご存知ないのも無理ないですよ」
久利生は桐生の視線をまっすぐに捉えて、微笑んだ。
つづく