黒い花の屍櫃(かろうど)・6 長編ミステリー
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第二章 螺旋
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昨夜、警察署を出たのは夜八時過ぎだった。通報後、青梅警察署での調書作りに五時間を要した。空腹で声も出なかったが、駅前の蕎麦屋でざる蕎麦の大盛りに大海老天丼を追加したせいで、朝になっても腹は減ってなかった。オートファジ―効果なのか、疲れも残ってない。
桐生と璃子はデスクの赤石の指示を受け、梶木の自宅へ向かっていた。
警察の会見で配られた広報文を新聞社から入手し、被害者は|《ながやまえりか》長山恵里香・二十五歳であることがわかっていた。テレビやネットニュースでは、まだ被害者の名前は公表されてない。それでも刑事が聞き込みに行っていれば、長山恵里香が殺されたことを梶木はすでに知っているだろう。
桐生は生前の長山恵里香に一度会っていた。梶木の自宅を訪ねたとき、応接間に案内してくれたモヘアの女性だった。
R・Jが長山恵里香を殺した。R・Jはいったいどこで長山恵里香と出会ったのか。あるいは、もともとの知り合いだったのか。
遺体発見場所に遺留品はなく、SNSも調べたがヒットしなかった。梶木から話を聞き、長山恵里香の背景を探らなければならない。
「ちょっと体が軽くなったかも」
「よかった。今年こそはLDL値を正常にできるかもね。お勧めの筋トレはデッドバグよ」
「何、それ。死んだ虫って、なんか縁起悪い名前だね」
「赤石さんは、寝る前に十回してるみたい。死ぬほどキツいって言ってたわ。腹筋を短時間で鍛えられるの。お勧め動画、あとで桐生君にもラインで送っとくね」
璃子は水色のロングコートの裾をひらめかせ、迷うことなく梶木邸に辿り着いた。黒い門扉の向こうにライトグレーのモダンな邸宅が聳えている。インターホンを押すと、男の声で応答があった。
「先日こちらに伺った『FINDER』の桐生です。きょうは梶木さんにお聞きしたいことがあって来ました」
すぐに門扉のロックが外れ、奥に開いた。邸宅のドアから梶木が顔を覗かせる。
「早いですね。ちょうど犬の散歩に出かけようと思っていたところです。何か疑問に思われたことでもありましたか」
梶木の表情は晴れやかで、茶色い髪はきれいにウェーブしている。会員の女性が殺されたことはまだ知らないようだった。
「この前お邪魔したときに、僕とカメラマンを案内してくれた長山恵里香さんのことをお訊きしたいんですが」
「それは、彼女と直接話したいということですか。彼女は会社員なんで、話が聞けるとしたら夕方以降になると思います。メールを送っておきましょうか」
梶木は訝しむように首を傾げた。黒いパーカーにグレーのジョガーパンツを合わせ、リラックスした装いだ。きょうはリモートワークか、公休日なのだろう。
「もうじき刑事も訪ねてくると思うんで、お伝えしておきます。長山さんは亡くなりました。何者かに殺されたんです」
「……それは、いったいどういうことですか。あなた方は、なんでそんなこと知ってるんですか」
梶木は目を見開き、そのまま瞬きもせずに桐生と璃子を交互に見比べた。二人のうち、どちらかの顔に答えが書いてあるとでもいうように。
「きのう、編集部に手紙が送られてきたんです。その手紙には地図が同封されていました。奥多摩の倉戸口という場所に何か心当たりはありますか」
璃子は赤い手帳を開き、梶木に視線を向けた。
「……『sorbet』の会員と何度か訪れたことがあります。奥多摩湖周辺を散策し、森林のなかで精霊の声に耳を傾けるんです。いかにたくさんのものを自然が与えてくれているのかに気づくことが大切です。まさか、倉戸口で……」
「地図には廃屋の場所が記されていました。そこで僕たちは、長山さんが亡くなっているのを発見しました。梶木さんのところにもおかしな手紙が送られてきてませんか」
「そんな……私たちは何も悪いことはしてません。どこかの新興宗教のような霊感商法や寄付も募ってません」
「でも、久利生君が制作した黒い花を売ってますよね。犯人は、久利生君の黒い花の作品を知っていて、高額なものを会員に売りつけていると思い込んでいるのかもしれません。R・Jという名前に心当たりはありませんか。手紙にはリズム・アンド・ジャーナルとルビが振られていましたが」
桐生の問い掛けに、梶木は視線を彷徨わせた。
「名前にJが付く会員は思い当たりません。犯人は、どうして久利生君の作品を知っていると思われるんですか」
「長山さんは、黒い花の造花に埋もれるように亡くなっていました。あの場所を、まるで久利生君の『黒い花の屍櫃』に見立てたかのように感じたんです」
硬くひんやりとした感触が蘇る。白く濁った双眸が桐生を見詰めている。
「……犯人は、あの作品を知っているということですか」
梶木は独り言のように呟き、ドアに寄りかかった。
「長山さんが誰かに恨まれていた可能性はありますか。最近恋人と別れたとか、ストーカーに悩んでいたとか。長山さんは、どうして『sorbet』に参加するようになったんですか」
「長山さんが付き合っていた男性は、去年の夏にバイク事故で亡くなったんです。それで彼女は生きる気力を失い、精神科にも通ってたそうです。そこで久利生君に声をかけられたと聞いています。『sorbet』には、久利生君が連れてきました」
「長山さんは、久利生君と同じ精神科医に診てもらっていたんでしょうか」
桐生はペンを握り直した。
「ええ。久利生君に藤田先生を紹介したのは私なんです。藤田先生なら、ちゃんと見分けてくれますから。久利生君を蝕んでいるのが精神疾患なのか、それとも悪魔の憑依なのかを」
「梶木さんは、藤田先生が国際祓魔師協会の会員だということもご存知だったんですね?」
「超越したものという意味では、悪魔も精霊も同じです。私はどちらか一方だけが存在するとは思っていません。精霊が私たちの魂を癒すなら、悪魔が生命のエネルギーを吸収して破壊することだってあると思っています。藤田先生は、そのことを知った上で、医学に仕えている。私が精霊の道を探究しているようにね」
梶木は微笑んだ。
梶木邸を辞し、二人は府中駅へ向かって歩き出した。
「長山さんのことをもっとよく知るために、久利生君のアトリエへ行ってみよう」
桐生の提案に璃子も頷いた。校了のデッドラインは夜九時で、まだ時間がある。
「久利生さんは、『sorbet』の会員を辞めたわけじゃなさそうね。自分が悪魔に憑依された場所へ長山さんを連れていったんだから。『sorbet』の会員に黒い花も売ってるし」
「悪魔祓いを受けながら、一方で悪魔的なものも信仰しているのかな」
「久利生さんにとっては、悪魔も精霊の一種なのかも。憑依は取り除きたいけど、精霊の力は信仰し続けているとかね。R・Jは、久利生さんのなかの悪魔だとも考えられるわ」
璃子はバス通りに出ると、欅が植えられた歩道を足早に歩いていく。璃子の仮定に桐生は躓きそうになった。
「R・Jは『sorbet』を糾弾してるんだよ。R・Jが悪魔の化身だとしたら、糾弾すべきは川瀬神父や有沢神父が行う祓魔式のはずだよ。璃子さんも、悪魔が神に毒付くのを聞いたでしょ?」
「聞いたけど、桐生君ほど悪魔を信じてるわけじゃないわ。藤田先生は国際祓魔師協会の会員で梶木さんとも親しい関係みたいだし、精霊の会にも出席してるのかもよ」
「藤田先生は『sorbet』の儀式にも出て、祓魔式では悪魔払いの手伝いをしてるっていうのかい? それじゃあ久利生君の治療なんてできないよ」
「神も悪魔も肯定しているからこそ、医学の道を進まれているとも考えられるわ」
璃子がきっぱりと断言したところで、桐生の腹の虫が鳴った。
「藤田先生が何を信じているのかについてはわからないけど、R・Jが供犠によって神を復活させることができると信じてるのは確かだね。これは、『使命殺人』なのかもしれない」
殺人の動機は五つあると、桐生は考えていた。『復讐』・『強奪』・『口封じ』・『使命』・『快楽』の五つで、犯人がFBIのプロファィルで分類されている秩序型・無秩序型のどちらだとしても、五つのうちのどれかに当てはまる。たとえば悪魔に「お前を嘲笑(あざわら)う者を殺せ」と命じられて殺人を犯したのなら、動機は『復讐』といえる。「世界を浄化するために殺せ」と命じられての犯行なら、動機は『使命』だ。
駅前に戻ったところで、今度は璃子の腹が高らかに鳴った。
つづく