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黒い花の屍櫃(かろうど)・9 長編ミステリー

   『黒い花の屍櫃・1』はこちらから

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 川瀬がいる教会は恵比寿にあった。電車での移動中に『神、人を喰う』を読み進めた。
 明治十年に東京大学から発行された人類学・考古学に関する研究報告書のなかで、「日本に人喰い人種がいた」と主張されたという。根拠として、貝塚から発見された人骨が他の獣の骨と識別できない状態で混在していたことや、ひっかいたり切り込んだりした傷がいちじるしいことなどを上げている。その後、日本人種論争に発展したらしい。

 以前読んだトマス・ハリスの『ハンニバル』には、戦時中に食用として連れ去られた子供たちの記述があった。神への生贄ではなく、極限状態を生き延びるための糧であった可能性が高いのでは、と考えているうちに、『「人柱」事件』に目が留まった。

 大正十四年六月二四日、『東京日日新聞』朝刊に、「宮城きゅうじょう二重櫓やぐらの地下から立姿の四個の『人柱ひとばしら』現はる」という記事が掲載されたらしい。その後さらに人骨が発見され、十六体が立ち姿で埋められていたことがわかっている。

 ネットで検索すると、すぐにヒットした。宮城は現在の皇居を指しているが、二重櫓については判然としない。記事に目を通し、かつてその地に寺と墓があったが寺は移転し、墓に埋められた人骨だけが残されたというところまで読んで恵比寿に着いた。

「人柱じゃなくてよかった」

 うっかり呟き、すぐ横を通り過ぎた年配の女性に怪訝な顔をされた。改札を出て、藤田に教えてもらった教会の住所をグーグル・マップに入れた。ビジネスマンや買い物客で賑わう駅構内を出て、緩やかな坂道を上っていく。おしゃれなイタリアンやカフェが目を引いた。

 マップが指示する通りに交差点を渡り、ビル街を抜けると細い道に出た。切妻屋根きりづまやねの建物が目に入る。建物の左に尖塔せんとうがあり、頂華に十字架が据えられていた。

 珍しく迷わずに教会に着いたことに感動しながら、目前の白い建物に近づいた。エントランスはコンクリート敷きで、両サイドに緑が植えられている。入口は二重扉になっており、内側には扉が三つあった。正面の大きな扉だけが閉まっている。扉の前に立っていた女性が桐生に微笑(ほほえ)みかけた。首から名札を下げている。

「左右のどちらかのドアからお入りください」
「川瀬神父にお会いすることはできますか。いつでも訪ねていいと言われて伺ったんですが」
 単刀直入に切り出した。藤田からは「平日は午後五時までは自由に教会を見学できる」とだけ聞いていた。
 名札を下げた女性は驚いた様子で桐生の顔を数秒見たあと、名前を訊いた。

「十日ほど前にお会いした桐生だと伝えてもらえれば、わかると思います」
 名刺は出さなかった。『FINDER』の記者であることを伝えて余計な警戒心を持たれたくなかった。聖堂で待つようにと言い残し、女性は出ていった。

 桐生は左の扉からなかへ入った。穹窿天井きゅうりゅうてんじょうが堂内を包み込み、蝋燭を模したシャンデリアが柔らかな光を投げかけている。台付きのベンチシートが左右にそれぞれ二十列あり、その広さに「ほう」と声が漏れた。一つのベンチに六人ずつ座ったとしても、二百四十人が集うことになる。

 壁にはステンドグラスがめ込まれ、赤や緑の光が独特の明るさを与えていた。聖堂内にはほかにも四、五人の鑑賞者がいて、祭壇の両脇に置かれた彫刻に見とれていた。
 入口のすぐ奥の壁際に書棚があり、長机が置かれていた。薄い冊子が積まれている。一部手に取り、視線を落とした。A4サイズで『最後の晩餐(ばんさん)』と題されたイラストと、〃わたしを愛する人は、わたしの父に愛される ヨハネ・14・21〃という文が印刷されている。

 冊子を開くと聖書の抜粋や讃美歌が印刷されていた。書棚には聖書と讃美歌集がずらりと並んでいる。日曜のミサで使うのだろう。
 桐生は冊子を掴んだまま中央の通路を進み、祭壇に近づいた。背後の壁はセピア色で、十字架が据えられている。十字架に磔(はりつけ)にされたイエス・キリストの姿を目にし、足が止まった。キリストは顔を右に傾け、痛みに耐えるように静かに目を閉じている。

 クリスチャンでもなければ聖書を精読したわけでもない。それでも教科書や映画で見るのとは違う、いままで感じたことのない空気に包まれた。体は無味無臭の透明な水のなかに沈んでいく。水は心の内側を清め、日常のなかで溜まり続けた黒い澱(おり)を薄めていく。

 セピアの壁には聖母と、その胸に抱かれた幼いイエスが描かれていた。上空には二人を祝福するように天使が舞っている。

「桐生さん、よくいらっしゃいましたね。教会へいらしたのは、初めてですか」

 祭壇の右側に川瀬が立っていた。黒の式服に身を包み、前回同様に紫の頸垂帯を首から掛けている。祭壇の両端にドアがあり、川瀬は右側のドアから入って来たのだろう。

荘厳そうごんな空気に圧倒されていました。川瀬神父にお訊きしたいことがあって、押しかけてしまいました」
 貴重な祈りの時間を邪魔したのでは、と申し訳ない気持ちになり、桐生は頭を下げた。

「平日は午前七時にミサがあり、午後は新約聖書や教会史などを学ぶ講座をしています。桐生さんのように洗礼を受けておられない方も自由に参加できます。講座は事前に申し込みが必要ですが、日曜のミサならいつでも参加できますよ」

 川瀬は桐生が持っていたミサの冊子に視線を向け、口元を緩めた。桐生は笑みを返しながら冊子を鞄に押し込んだ。
「いま調べている事件のことで、教えていただきたいことがあって来ました」

 声のトーンを落とした。祭壇のそばにいた観覧者は一通り見終わった様子で、聖堂の外へと出ていった。桐生は川瀬と向き合った。

「神は人間を生贄としていたことについて、川瀬神父はどう思われますか」
 桐生の問いに、川瀬は表情を硬くした。

「……それは、聖職者による未成年への性的虐待問題のことを指しているんですか」

 川瀬の返答に、桐生は「へ?」と間抜けな声を出した。

「違いましたか。カトリック教会のフランシスコ法王が児童性的虐待問題を、『生贄の儀式のよう』と発信していたので、てっきりそれをおっしゃっているのかと思いました」

「いえ、僕が訊きたいのはアラスカや日本で行われていた人身御供の儀式についてです。カトリックでは、子羊を生贄にしていたんですよね。子羊だとしても、生贄は必要だったのはなぜですか」

「ギブ・アンド・テイクですよ。多くを得たいなら、それだけの犠牲は払わないといけません。私たちの社会と同じです」

「僕たちが生きている限り、生贄は捧げ続けなければならない、ということですか」

 桐生の答えに、川瀬は肯定も否定も示さなかった。二重の黒い目を煌(きら)めかせ、桐生にベンチ・シートに座るよう勧めた。桐生が通路の左側に腰を下ろすと、通路を挟んだ右側のベンチに川瀬も座った。

「藤田先生からは、共食のためだと伺いました。神に捧げた生贄を食べることで、神と融合できるから」

「生贄を捧げるという行為は、犠牲を払うことを意味します。祈りを捧げ、私たちは神から守られます。〃わたしを愛する人は、わたしの父に愛される〃」

「聖書の言葉ですね。入口で頂いた小冊子に、同じ文が印字されていました」

「神の戒(いまし)めを保ち、それを守る人が、神から愛されるのです。罪を犯せば、それ相応の罰を受けなければなりません」
 桐生は手帳を取り出し、川瀬の見解を書き付けた。

「では、悪魔祓いをされているのはなぜですか」
 桐生は手帳から顔を上げた。川瀬は穏やかな表情のまま、まっすぐ桐生を見ている。

「それは、私に与えられた使命だからです。使命は果たさなければなりません。一つ一つの命は、与えられた使命をまっとうするために生きているんです。それは小さな細胞の一つに至るまでそうです。人間に神が必要なのは、自分の使命を見失いがちだからだといえるでしょう」
 川瀬の抑揚のある、よく通る声には、説得力があった。だが、その使命が間違っていたとしたら、誰が正してくれるのか。

「川瀬神父は、十年前にも悪魔祓いをされたそうですね。そのときの少女は亡くなられたと聞きました。少女の祓魔式ふつましきは失敗したのでしょうか」
 桐生の問いに、川瀬は目を閉じた。まるで黙祷しているかのように、持っていた聖書を胸に押し当てている。沈黙が流れたが、不思議と重苦しさはなかった。少女が亡くなったことで川瀬が自分を責めたとしても、すでに乗り越えている。桐生にはそう感じられた。

「――悪魔祓いは成功しました。でもその三日後に、少女は自ら命を絶ったんです」
 川瀬は聖書を膝の上に置き、桐生を見た。
「自殺したということですか。それは、いったい……」
 桐生の問いに、川瀬は視線を落とした。黒い表紙の聖書に両手を重ね、語り始めた。

 岩手県一関いちのせき市藤沢町に、その集落はあった。江戸幕府の禁教令の発布から十年以上が過ぎてから仙台伊達藩による弾圧が始まり、三年ほどで三百人以上が処刑された。高輪が話していた刑場跡は、集落のあちこちに見られるという。

 それでも迫害に屈せず、信仰を守り抜いた人々がいる。集落のはずれにある教会は、彼らの子孫によっていまも守られていた。

「少女の父親は木彫り店を営んでいました。見事な腕前で、マリア像やキリストの磔刑(たっけい)像はよく売れていたようです。観光客向けに木彫りの体験教室も行っていて、商売はうまくいっていました」

「少女はクリスチャンだったのに、悪魔に取り憑かれたんですか」

 これまでの取材から、悪魔に取り憑かれるのはキリスト教以外の信仰や儀式と交わった者だけだと思っていた。桐生の問いに、川瀬は視線を上げた。

「父親の正木耕助まさきこうすけは交通事故で右手を怪我したんです。そのせいで、指先がうまく動かなくなってしまいました。それから酒に溺れるようになり、生活も困窮していったそうです。そのせいで、娘の有紗ありさちゃんの信仰心も揺らいだのかもしれません」

「何かきっかけがあったんじゃありませんか。久利生君は『sorbet』の儀式で悪魔に取り憑かれたと言っていました。藤田先生の話でも、悪魔崇拝などの儀式に参加したことで悪魔に取り憑かれたと聞きました」

「有紗ちゃんは、悪魔を呼び寄せる儀式を行なっていたそうです」
 川瀬は右手で十字を切った。

「お父さんの回復を願うなら、神様に祈るほうが自然な気がします。どうして有紗ちゃんは悪魔の儀式なんてしたのかな」
 桐生の呟きに、川瀬は俯いた。聖書を胸に押し当て、ゆっくりと顔を上げる。

「有紗ちゃんが悪魔に取り憑かれる半年ほど前に、正木さんは行方不明になっています。母親の希美きみさんは近隣の畑を手伝いながら店の木彫りを売って、生活をやりくりしていたそうです」
「その後、正木さんは見つかったんですか」
「いまも所在はわかっていません。あれからもう十年も経つんですね」
 川瀬は上体を祭壇に向け、十字架を見遣った。十字架の上で、キリストがほのかな光に照らされていた。


       つづく