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黒い花の屍櫃(かろうど)・18

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 翌月曜日。赤石はスチールデスクの前に座り、ボールペンを顎に押し当てている。昨夜梶木から聞いたことを赤石に報告したところだった。

「正木希美が正木耕助を殺したんだろ。近くの樹林にでも埋めたんだよ。娘はそれを知って悪魔に取り憑かれたんだ」

「有紗ちゃんが悪魔の力を借りて父親を殺した可能性もあります」

 桐生はデスクの前に立ち、手帳に視線を落とした。大籠で会った神父が語ったことを思い返す。父親を殺したのは悪魔だとしても、その悪魔を呼び寄せたのは有紗だ。

「悪魔を呼び寄せりゃ、あとはみんな悪魔がやってくれるってのか。悪魔が殺人の代行をしてくれるなら、そいつを捕まえるにはエクソシストか祈祷師が必要だな」

 赤石の太い眉が吊り上がる。ペン先が顎に食い込んでいる。

「そうは言ってません。でも、僕は見たんです。久利生君の祓魔式で……」

「いや、お前は見てない。暗闇で悪魔の声を聞いたと思い込んでるだけだ。一緒にいた橘は久利生の声音と話し方が別人のようだったとしか報告してない。お前がよく悪夢を見るのは知ってる。殺人鬼たちの話を記事にしてるせいで、妙な暗示にかかってるってことはあるかもな。久利生の行方は掴めたのか」

 赤石はペンを顎から離し、額を叩き始めた。

「昨夜、榊君から届いたメールには、久利生の行方はいまだにわかっていないと書かれていました。久利生君のお父さんが上京しているそうです」

「父親は息子の失踪届けを出しに来たんだろう」

「お父さんは過去に大籠で正木さん家族と会っています。耕助さんや有紗ちゃんのことで覚えてることがあるかもしれません。これからアトリエへ行って、久利生君のお父さんに会って話を聞いてきます」

 赤石の前から離れようとした桐生に、赤石が呼び掛けた。

「お前が何を信じるかは自由だが、俺は神だの悪魔だのは微塵も信じちゃいない。それに仮説じゃ週刊誌は売れない。俺たちが売るのは現実だ。世の中のどうしようもないリアルを切り取って、読者に提示してみせるんだ。悪魔がいるなら、音声なり写真なりで証拠を掴んでこい」

 赤石は猛禽類もうきんるいのような鋭い目をすがめ、ペン先を桐生に向けた。

 
 小平駅から出るとすっかり日が暮れ、月が出ていた。吐く息が白い。六時半にアトリエで榊と久利生の養父と落ち合うことになっていた。

「あれから墓参りに行ったか」

 武藤はコートの襟を立て、灯りの消えた石材店の前を歩いていく。

「今回の事件が一区切りついたら行こうと思ってるよ。武藤さんは、別れた奥さんとはいまでも連絡を取ってる?」

 桐生は鞄に押し込んであったマフラーを取り出して首に巻き付けた。離婚歴があることは知っていたが、踏み込んだ話は聞いたことがなかった。子供がいるのかどうかも知らない。

「去年の春までは、事務的なメールの遣り取りはしてたよ。息子が二十歳になるまで養育費を振り込んでたから、内容はほぼ金銭的なことだった」

 落葉した欅が枝を夜空に伸ばしている。枝の向こうに星がいくつかまたたいていた。

「武藤さんって、お父さんだったんだね。去年の春までってことは、息子さんは二十歳になったの?」

「父親っていっても実際には育ててないから実感は薄いよ。向こうは再婚して育ての父もいるしな」

「息子さんとは会ってる?」

 武藤の横顔を見やる。苦渋の色はつゆほどもない。

「ラインしてるよ。父親っていうより、友達だな。大学では機械工学を学んでる。俺なんかよりよっぽど頭がいいから、よく叱られてるよ」

 武藤が大学生に注意されているところを想像し、桐生は口元を緩めた。
 
 約束の時間より五分ほど早く着いた。アトリエのある建物は全フロア明かりが灯っている。チャイムを鳴らすと、榊がドアを開けてくれた。

 なかにいた男が桐生と武藤に会釈した。男はがっしりとした体つきで、髪には白いものが混じっていた。久利生の黒い花の箱の前に立ち、作品を見ていたようだ。名刺を差し出し、挨拶を交わした。

「稔の養父の久利生謙三くりおけんぞう)と申します。稔のことでお世話になっていると聞いています」

 久利生謙三の名刺には建設会社の取締役と記されていた。眼光は鋭く、角張った顔には深い皺が刻まれている。

「僕たちが稔君を大籠に連れて行かなければ、こんなことにはならなかったと思います。稔君を探すためなら、どんなことでもします」

 桐生は頭を下げた。

「あなた方のせいじゃありません。どうか頭を上げてください」

 謙三の声は落ち着いていた。血が繋がっていないとはいえ、大切な息子が行方不明になっている。なぜ取り乱している様子がないのか。

「警察に失踪届けは出されたんですか」

 桐生の問いに謙三は頷いた。榊が並べてくれたスツールに座る。

「家出の可能性もあると言われました。警察がまともに捜査してくれるとは思えません。たしかにあの子は昔から空想癖があり、心配していました。それでも好きなことを仕事にできるならと思い、好きな道に進ませたんです。それが間違いだったのかもしれません」

「稔君が彫刻を始めたきっかけは、大籠で彫刻の体験教室を受けたからだと聞いています。お父さんが稔君を大籠に連れて行ったんですよね?」

 コートを脱ぎ、謙三の向かいに座る。武藤は壁際にセットされた新たなモチーフを眺めていた。黄色とオレンジの布が敷かれた台の上にケージが置かれ、透明なビニールシートが掛けられている。ケージのなかには赤と黄緑色のボールが入っていた。イーゼルに置かれたキャンバスは五十号くらいで、レモンイエローで下書きされている。

「あの旅行は、稔から言い出したんです。キリシタンの里を訪ねてみたかったようです。木彫り店の前をたまたま通りがかり、妻が友人への土産を買いたいと立ち寄りました。花のブローチを四つほど買った記憶があります」

 謙三は黒い花の箱に視線を向けた。

「それはどんな花だったんですか」

「薔薇の花でした。驚くほど薄く繊細な花弁が幾重にも重なっていて、とても木を彫って作ったとは思えないほどでした」

「稔君はその花のブローチのことが記憶に刻まれていたんですね。だから黒い花の作品を作っているのかな」

 桐生と久利生謙三の間に低めのスツールが二脚置かれていた。そこへ榊がマグカップを四つ載せた。薄緑の液体から湯気がたちのぼっている。

「カモミールです。質のいい睡眠をとるためには、夕方以降はカフェイン・レスにしたほうがいいんですよ」

 榊は謙三の隣に座り、ハーブティーを勧めた。桐生はカップを手に取り一口啜った。口のなかにカモミールのかすかな甘みが広がり、じわりの体が温まる。ほのかな香りに誘われたかのように武藤もスツールに座った。

「僕たちは稔君と大籠の正木さんのお宅を訪ねる予定でした。キリシタン公園の前ではぐれて、そのあとメールも貰ったんです。一泊してから東京に帰るという内容だったんですが、その後の行方がわかっていません。稔君が立ち寄りそうな場所に、心当たりはありませんか」

 桐生は手帳を開き、謙三に視線を向けた。

「山梨に帰ってくるかもしれないと思い、妻を自宅に残してきました。ただ私とはあまり折り合いがよくないので、山梨にいたとしても家には寄らないかもしれません。きょう稔の部屋へ行き、メモや手帳がないか探してみたんです。それで、これを……」

 謙三は手に持っていたノートを桐生に差し出した。B5のキャンパスノートで、ページの後半に黄色い付箋が貼られている。ノートを受け取り、表紙を開いた。一年前の正月から書き始められている。

 
 静寂の闇で、黒い花が揺蕩たゆたっている。ひんやりとしたひだに包まれた声が僕に呼びかける。この世界を生き延びるために、その手から離してはならないものについて考えろ、と。
 情報や知識はそれなりに役に立つが、すぐに古くなって使い物にならない。勇気は明日を生きる原動力になるかもしれない。だが、力が及ばなければ自分の命を落とすことになる。
 この問いの答えを探している。もう一人の声が闇を震わせている。あれが来る前に逃げなければならない。花の襞の奥底へ。
 

「稔が小学二年生のときに、ノートを買ってやったんです。日記を書くようにと。自分の気持ちや考えを文章にすると、自分がどんな人間なのかがわかるし、どういうふうに生きていきたいのかが見えてきます。あの子はそれを大人になったいまでも続けてくれていて、驚きました」

 謙三はカップを手に取り、カモミールを啜った。

「ここに書かれているもう一人の声とは、幻聴のことかもしれませんね。稔君が悪魔祓いを受けていることはご存知ですか」

「榊君から聞いています。それで、何か手掛かりになることが書かれてないか読んでみました。付箋を貼ったページを読んでみてください」

 謙三に促され、桐生は黄色い付箋が貼られたページを開いた。読みやすい整った字で、日付は去年の九月二十七日と記されている。悪魔祓いを受ける前だ。
 
 あの日の風の唸りを覚えている。いきなり振りだした雨は土砂降りになり、樹林の道はぬかるんだ。感覚がなくなるほど足先が冷たくて、早く家に帰りたかった。誰もいないと思った。だから樹林の抜け道から道路に出た。白いスニーカーは泥まみれだったけど、雨が拭い去ってくれると思った。
 閃光が走り、僕は空を見上げた。アスファルトに跳ね返る雨は、白い光の粒となって風に混じり合っていく。夜の闇は雨のカーテンに躍動し、新しい世界を作り出していた。
 そのとき、強い光が視界を横切った。次の瞬間、爆音が轟(とどろ)き、何かが樹林とアルファルトの境にある石垣に激突した。バイクが横転し、人が倒れていた。ヘルメットのなかは血だらけで、その人はすでに亡くなっていることがわかった。
 こんなことは、書き残すべきじゃない。それはわかっている。だからずっと言葉にしなかった。だけどその罰は僕をむとばみ続け、体の内側を覆い尽くそうとしている。
 あのとき、もう一人の自分が囁いた。
 ――誰も見ていない。知っているのは自分だけだ。逃げてしまえばいい。けっして誰にもわからない。
 僕は声に従った。いま思えば、あれは悪魔の囁きだったのかもしれない。

 
「……これは、いつ頃のことを書いてるんでしょうか」

 罪の告白が記されたノートを開いたまま、中央のスツールに置いた。武藤と榊がノートを覗き込んでいる。

「二年前の盆休みに、家から五キロほどのところでバイクの事故がありました。地元の事故だったんで、よく覚えています。大雨のせいでハンドル操作を誤ったと報じられていました」

「稔君は実家に戻っていたんですね」

 久利生の実家は山梨だ。長山恵里香と同郷だからすぐに打ち解けた、と榊から聞いている。恵里香の恋人は、バイクの事故で亡くなっているのではなかったか。

「稔は東京にある美大に通っていましたが、夏休みで二週間ほど帰省していました。稔が道に飛び出したせいで事故が起きたのに、あいつは通報しなかった。いまからでも罪をつぐなわなければいけないのに、あいつは悪魔のせいにして逃げたんです。こんなことは絶対に許されません」

 謙三は拳を握りしめている。

「あいつが悪魔に取り憑かれたのは、この事故のせいだったのか。『sorbet』の儀式のせいだとばかり思ってたけど……」

 ノートを読み、榊が呟いた。武藤は険しい顔でノートを睨みつけている。
「亡くなった方の名前はわかりますか」

 冷たいしずくが一定の速度で落ちてくる。その一滴の染みは少しずつ広がっていく。わずかな衝撃は、膨大な時間をかけて穴を穿うがつ。雨に打たれながら、ヘルメットのなかを覗き込んでいる久利生稔の姿が目に浮かんだ。彼のすぐ背後に悪魔がたたずんでいる。

「――谷口光たにぐちひかりさんという男性です。調べたところ、まだ二十三歳だったそうです。婚約者と帰省されていたようです」

 謙三は苦しそうに何度も頭を振っていた。

   
       つづく