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黒い花の屍櫃(かろうど)・19

  『黒い花の屍櫃・1』はこちらから

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 翌火曜日に出社すると、徹夜で入稿を終えたばかりの北村と赤石がいた。通常なら疲れ切ってこれから仮眠室に寝に行くはずだが、二人の目は強い光を発している。桐生を見ると、手招きした。二人ともラテックスの白い手袋をしている。久利生謙三から聞き出した話の報告を待っているのではなさそうだ。

「また来たよ。R・Jからだ」

 赤石はスチール・デスクの上に載っている箱から新しい手袋を取り出して桐生に渡した。これまでに来た手紙では手袋などしないで読んでいたが、R・Jが殺人犯だとわかったいま、手紙は重要な証拠の一つだ。警察に届けなければならないが、そこは週刊誌である。まずは事実を確かめるのが先だ。

「まさか、また殺人の告白ですか」

 胸の内側に得体の知れない黒い影が湧き出し、喉をせり上がってくる。倉戸口で発見した長山恵里香の遺体が脳裏に浮かんだ。黒い花に囲まれて、青白い顔はただ眠っているように見えた。

 人を殺し、花のなかに埋めることで神を蘇らせるなど、とうてい有り得ない。R・Jとは何者なのか。いったいどこにいるのか。それを突き止めなければならない。

 桐生は手袋を嵌め、手紙を受け取った。消印を確かめると、日付は三日前の二十八日で『一関』と押されている。これまでR・Jから送られてきた手紙は四通あり、この手紙だけが一関郵便局、あとの三通は新宿にある郵便局の消印だった。

 
  『FINDER編集部御中』
 
 あなた方は神の息吹を感じておられますか。この手紙が届く頃には世界が変わっていることでしょう。暗く長い夜が明けたのです。偽りの神を讃える者たちは滅び、神の光が暗い場所まで差し込むのです。閉塞感は消え、私たちは生まれて初めて深く息を吸い込むことができるはずです。
 そのために、私は自らを生贄として神に捧げました。心配には及びません。私の命は神のひだに取り込まれ、永遠に生き続けます。
 もし、私に会いに来てくださるなら、大籠へいらしてください。住所と地図は同封してあります。あなた方が来てくださるのをお待ちしています。
                                                                          R・J

 
「R・Jが……死んだ……。自ら生贄になって……」

 桐生の声はかすれた。殺人者は自殺したというのか。

「それを確かめてきてほしい。いまから二人で大籠へ行ってくれるか」

 赤石が桐生と北村に視線を向ける。二人は「すぐに向かいます」と声をそろえて即答した。
 

 東京駅から新函館北斗行の新幹線はやぶさへ乗り込むと、北村は桐生に窓側席を勧めた。

「北村さん、通路側だとよく眠れないですよ。徹夜明けだし、窓側でゆっくり眠ってください。一ノ関に着いたら起こすんで」

「いいんだ。俺は通路側でも爆睡できるし、すぐ通路に出たいからさ」

 北村は桐生を窓際席に座らせ、シートに腰を沈めた。きょう北村が入稿した記事は、二週間前に出た「徳永瑛人シャブ中・疑惑」の続報で、徳永自身のコメントが載る。最初の記事ではアシを務めたが、その後はR・Jの手紙の内容にかかりっきりで、「シャブ中・疑惑」の続報についてはほとんど知らなかった。

「徳永はなんて説明したんですか」

 シートを三十度ほど後ろへ倒し、前シートから折りたたみ式のテーブルを引き出した。売店で買ってきた缶コーヒーと駅弁をテーブルに載せる。

「覚醒剤中毒というのはまったくの誤解で、疑惑の粉は『安息香酸ナトリウムカフェイン』・通称アンナカだって言い張ってたよ。精神的なストレスから鬱状態になり、医師から処方されたんだと」

「徳永は鬱だったんですか。だから活動も停止してるのかな」

「わからない。でも、音楽性の違いとかで不仲になるバンドは多いし、それで鬱になってクスリに手を出したってんなら、それなりに説得力はある。いずれにしても徳永が薬物中毒なのは間違いない」

「アンナカって、抗精神薬ですか」

「鬱ならエビリファイがメジャーだな。強い不安や緊張を緩めるならリスパダールとか。アンナカは馬の興奮剤でもある劇薬指定医薬品で、違法薬物売買の世界では覚醒剤の混ぜ物という位置付けだよ。警察が動くのも時間の問題だと思う」

 北村もテーブルの上に弁当を置き、袋から割り箸を取り出した。桐生は鶏そぼろ、北村は牛ヒレステーキ弁当で、それぞれ蓋を開けたところではやぶさが動き出した。

 弁当を食べながら、これまで『sorbet』について取材してきた詳しい背景を北村に説明した。

「その悪魔に取り憑かれた青年は、まだ居場所がわからないのか」

 北村は最後の一切れにかじりつき、飯を頬張った。食べっぷりは豪快で、とても徹夜明けとは思えないほど顔は血色がよく艶やかだ。

「ええ。久利生君の養父の話では、警察に失踪届けを出したそうです。そのときに、このノートを預かってきました。久利生君の自宅アパートにあったらしい」

 桐生はB5サイズのノートを鞄から取り出し、北村に渡した。北村は久利生謙三が付箋を貼ったページに素早く目を通し、眉を寄せた。しばらく何も言わず目を閉じていたので、久利生が引き起こしたバイク事故のことを考えているのだと思った。

 思考を妨げないよう、桐生はなるべく音を立てないように鶏そぼろ弁当の続きを食べながら待った。しばらくすると、寝息が聞こえてきた。北村はスケッチブックを握ったまま、呼吸は規則正しいリズムを刻んでいる。ただがむしゃらに動き続けるのでは、体も心も保たない。いまは休息の時間だ。

 桐生も目を閉じてみたが、まったく眠くならない。土砂降りの雨のなかに細い影が見える。いまにも消えてしまいそうな黒い影はじっと佇み、前方を見つめている。横転したバイクのそばに人が倒れている。アスファルトに流れ出した血は、雨に打たれ流されていく。

 あのとき、彼は警察に通報しなかった。

 ――罰は僕をむとばみ続け、体の内側を覆い尽くそうとしている。

 久利生の声が聞こえるようだった。胸騒ぎがする。久利生が失踪した大籠へ再び向かっていることが、桐生を落ち着かない気持ちにさせていた。

 
 正午過ぎに一ノ関駅に着き、そこからタクシーに乗った。住所を告げると、運転手がバックミラー越しに視線を向けた。

「お客さんたちも取材ですか」

 東北訛りはない。ゆっくりと車は走り出した。

「ええ、僕たち東京から来ました。どうしてわかったんですか」

 桐生はシートベルトを引っ張り、留め金を嵌めた。北村はシートにもたれ、iPadを立ち上げている。初校が送られてきたのだろう。それを読み直し、誤字脱字と取材データの表現のチェックをして送り返す。夕方には再校のゲラが出て校了となる。

「先週の木曜だったかな。今お客さんたちが向かっている住所の近くで、人骨が発見されただろ。それでテレビ局のヘリは飛んでくるわ、記者が押しかけるわの大騒ぎだったよ。この辺りはバスがほとんど走ってないから、タクシーが何往復もしたんだ」

 正木希美の自宅の庭で手の白骨が発見された翌日に、R・Jから編集部に手紙が届いた。R・Jからの手紙は今週号に載る。十年前に悪魔に取り憑かれ、悪魔祓いを受けたあとに自殺した有紗の記事とともに。

「でもお客さん、いいのかい? けっこう距離もあるし、あれから五日も経ってるから、いまさら行っても何も見つかんないかもしれないよ?」

 運転手はミラーに映る桐生と視線を合わせた。二人がすっかり出遅れていることを気の毒がっているようだ。

「大丈夫です。僕たちが行くのは、その人骨が発見された家じゃありませんから」

「そうだったね。お客さんたちは、きっと近所の誰かに話を聞きに行くんだな。私はこっちに来てまだ日が浅いから詳しくは知らないけど、週刊誌にいろいろ書いてあるからね。『悪魔に取り憑かれた男性がいる』なんて読むと、つい心配になってくるのさ。もしかしてあの白骨は、悪魔の仕業じゃないかってさ」

 運転手は苦笑いを浮かべ、アクセルを踏み込んだ。

 大籠キリシタン殉教公園の前を通り過ぎ、畑を抜けていく。人はほとんど歩いてない。頭にタオルを巻き、畑仕事をする者を見かける程度だ。車ともすれ違わない。

 正木夫妻の家の辺りまで来ると、道はだいぶん細くなった。家の庭先に黄色いテープが張られているが、報道陣も警察もすっかり引き上げていた。

 以前、取材した隣人宅の前を通りすぎ、角を曲がる。突き当りをさらに曲がると道の両側は樹林で、その先はさらに道幅が狭くなっていた。

 運転手に料金を払い、一時間待っていてもらうことにしてタクシーから降りた。

「地図だと、もうすぐだな」

 乗車中ほとんど喋らなかった北村が呟いた。

「この先に本当にR・Jはいるんでしょうか。自分を神に捧げたというのは嘘で、僕たちを殺そうと待ち構えているとは考えられませんか。生贄になるのが自分たちになるなんて、ぜったいに嫌だ」

 どうして武器になるものを持ってこなかったのだろう。周囲を見回したが、枯葉ばかりで太い枝などは落ちてない。鞄のなかを掻き回すと、璃子から買ったロザリオが出てきた。藁にもすがる思いでロザリオを首からかける。空はやけに青く、どこかで鳥が鳴いていた。

「たぶん、そんなことにはならないだろうよ。おい、あそこに家があるぞ」

 北村はR・Jから送られた地図のコピーを掲げ、声をあげた。舗装された道路の脇に砂利道があり、草むらの向こうに茅葺の民家が見える。

 桐生は祓魔式ふつましきで唱えた祈りの言葉を必死に思い出した。

「天にいます我らの父よ。御名みながあがめられますように。我らの負いめをおゆるしください」

「断っておくが、俺は悪魔も悪霊も信じてないからな」

 北村は先陣を切って草むらに分け入った。

 枯れ葉を踏む音が耳に響く。伸び切った草で視界は悪い。R・Jがナイフで切りかかってきたら、無傷では帰れない。赤石の忠告が脳裏をよぎった。取材で危険な目に遭いそうになったら、相手の目を狙え。夜ならライトが効果的だ。昼間なら防犯スプレーを目に吹きつけろ。

 あいにくスプレーは持ち合わせていない。かがみ込み、土を両手に握りしめた。草むらを抜けると、北村がスマートフォンで写真を撮っていた。茅葺はところどころ崩れ、ドアも外れかかっている。平屋で、窓には板が打ち付けられていた。

「廃屋ですね。R・Jは全国各地の廃屋を網羅してるんですかね」

「『sorbet』の儀式が行われてたのかもな。だから知ってたのかもしれない」

 北村は黒のバックパックから懐中電灯を取り出し、入口へと歩き出した。

「R・Jは『sorbet』の元会員なのかな。だから希美さんのことも知ってたのかもしれないですね。でも、どうして希美を殺したんだろう? 手の骨だけを残したってことは、頭部やほかの骨は神を復活させる儀式に使ったのかな」

 砂を投げつけられるように両手を構え、北村のあとを従いていく。北村はトタン扉の前まで来ると、懐中電灯を点けた。なかは暗いが、打ち付けた板の隙間から光が糸のように差し込んでいる。

 懐中電灯が部屋をくるりと照らし、左奥の隅で留まった。黒く積まれているのは花だった。剣弁高芯に切り取られた薔薇は、黒い紙で一つずつ丁寧に作られている。

 あのときと同じだ。倉戸口の廃屋で見た黒い花が、ふたたび桐生の目前に敷き詰められている。

 かさかさと音がして、心臓が縮み上がった。北村がライトを向けたので、桐生は握っていた砂を、反射的に思い切り投げつけた。小さな生き物が飛び出し、壁を駆け上がって逃げていった。

「何か埋まってる」

 北村はライトを当てたまま、花の山を凝視している。積み上げられていた花の山が崩れ、白いものが覗いていた。

 桐生は近づいて、花をかき分けた。見えていたのはスニーカーのつま先だった。全体は黒でソールと紐だけ白い。サイドに銀色のラインが入っていた。このスニーカーに見覚えがある。

「……まさか……そんな……」

 花を払いのけていく。思い違いだ。こんなスニーカーはいくらでもある。あの日の記憶が間違っているのかもしれない。ここに埋まっている人物はR・Jだ。それなら彼であるはずがない。

 だが、いくら打ち消しても疑念が押し寄せてくる。〃黒い花の下にある遺体は、彼ではないのか〃と。

 硬い異物に手の甲が触れ、息を呑んだ。銀色に光っているのはナイフだ。視線を上げ、桐生は飛びのいた。喉元にナイフが突き刺さっている。

 黒い花に埋まり、彼は目を閉じていた。亡くなってから、まだそれほど時間は経っていない。その顔に傷はなく、まるで眠っているかのように安らかな死顔しにがおだった。

 それは、五日前に大籠ではぐれた久利生稔だった。


              つづく