「教える=悪」??
私は、教師をしています。
「教師」で辞書を引くと、「学校などで、学業などを教える人」と出てきます。
そうです、読んで字の如く、学校という舞台で何かを「教える人」であり、そんな仕事に就いています。
けれど最近、日本の教育に起こる批判として「知識の詰め込み教育だ!」「画一化された授業で子どもをロボットにしようとしているのか!」「もっと子どもを寄り添った自由な発想を!」など、まるで教えるということが悪かのような論調がひしめいています。
それに乗じて、まるで教育の専門家のような人たちや自称教育パパママたちが、「その通りだ」「うちのクラスでは子どもの想いを大事にしています」「ウチでは勉強の強制もせず、登校するしないも子どもに任せています」などと持論を展開している様も見られます。実際に、かなり色々なことを子どもに“任せている“という家庭は現場でも増えてきたなと感じます。“子ども中心主義”の教育が流行りなことは間違いないです。
ただ。
“子ども中心主義” や、“強制はせず、子どもに任せる”と言った耳障りのいい言葉が、最近良いように切り取られすぎではないでしょうか。「ウチでは勉強の強制はせず、登校するしないも子どもに任せています」・・・それは任せているのではなく、放任しているだけでは?国民の三代義務に「教育を受けさせる権利」があるの知ってますか?というケースも多々あります。
お箸を例に考えてみましょう。言うなれば、正しいお箸の使い方を教えずに“子どもに任せ“、それが世間のマナーと違っていても子どもに任せた結果なので満足している、という状況です。(だんだん例えじゃならなくなっているのが怖いですが)
本当に「教える」ということは悪なのでしょうか。なんだかこの言葉が曲解されているような気がしてならないのです。
教えるということは、人に強制する側面も出てきてしまうことは認めざるを得ません。ただ、何かを教えるということは、あくまで「方向づけ」であり「はじめの一歩」にしか過ぎないということを強く伝えたいです。「教える=悪」という認識を改めるためにも、これは保護者も、教員も、お互いが曲解しないように共通で持つべき認識かと思います。
学校は時間の制約があります。教えるべき内容があります。待つことは本当に大事ですが、それで何も身につかないようであれば義務教育が存在している意味はありません。学力の保証のために、少年期の莫大な時間をもらっているのですから。
2024.12.27