「OOPTOY」第1話:渡されたもの
あらすじ
カートは孤児院に入り、十歳にして孤児が増え続ける現状を問題視していた。ある日孤児院にサーカス団がきた。世界中を旅する彼らに孤児を減らす方法を訊いたところ『全能』のオープトイへ挑戦することを提案された。友達が一緒に旅に出ると言ってくれた。
十年後、『全能』を手に入れたカートは半ば引きこもっていた。その日ユルマリという友人が「会ってほしい人がいる」とカートを連れだした。少女が追われていた。
ひとまず追っ手を鎮圧したが、根本的な解決には組織に乗り込む必要があった。『全能』を持つカートだが慎重に情報収集を始める。それを不思議に思う少女にユルマリは『全能』が生んだ悲劇を伝える。
第一話
カートは母親に手を引かれ森の深いところまで連れて来られた。当時四歳であり母親を疑うことなどしなかった。
「これ、約束のプレゼント」
手渡されたのは木製のオモチャ。脚が車輪になった馬だ。地面に置いて押せば車輪がコロコロ回って前後に動かすことができる。以前ねだっていたものだった。
カートはパッと笑顔を咲かせると、さっそく地面に押し付けるようにして転がした。
遊ぶことに夢中になっていた。
気づいたとき、母親はいなくなっていた。
郊外にある孤児院。
大きな建物の周りに小さな家が乱立して小さな村とも言えるこの全体が孤児院の敷地だ。あちらこちらから子供たちの騒がしい声が聞こえてくる。追いかけっこ、かくれんぼ、縄遊び、靴飛ばし、取っ組み合い、木の棒でちゃんばら、喧嘩する子供をなだめたり、怪我をして泣く子をあやしたり……多種多様な声が混沌を生み出していた。なにせ百人を超える大所帯であり十歳以下が半数を占めている。これでうるさくない方がおかしい。
先生だけでは面倒見切れないため、年上の子が率先して面倒見る。
「ママー、ママー」
迷子のような声が響き渡る。
特に大変なのは入ったばかりの子が親を求めて泣くときだ。なかなか落ち着いてくれないから一時間以上付きっ切りで慰めなくちゃいけない。
でも、ここにいる子の多くは同じように泣き、そして年上の子に宥めてもらった経験をしている。だからそんな子たちが積極的に泣いている子を宥めてあげる。
子供たちには立派な社会ができあがっている。
孤児院に不満を持つ子はいない。
それはカートも同様であった。
四歳でここにきて六年。自分も慰めてもらい、後に入った子を慰めた。その子が笑顔で過ごし始めたら嬉しくなり、一人でも多く笑顔でいてほしいと願うようになった。
ここでの苦労も知っているけれど、それを一緒に乗り越えられるから家族なのだ。
しかし、カートには悩みがあった。
「何かいい方法はないのかな」
カートは図書室にいた。触れれば端がパラパラとこぼれる程ボロボロの本を開いてテーブルに着き、悩ましげに黒い髪を掻きながら一ページ一ページ丁寧に文字を辿る。
夕暮れ前の図書室にカートはただ一人。
眼前の窓からは咲き初めの菜の花畑が見え、その向こうを子供たちが駆けていった。図書室の人気のなさが窺えた。四月も下旬となり肌寒さも和らいできたが、長袖の上にもう一枚ぐらい重ねた方がいいと思えるような空気がそこにあった。
しかしカートの頭にそんな趣などなく、調べ事に集中していた。
「ねえ、カート。聞きなさいよ」
不意にトンと肩をたたかれた。
「わあっ」
カートはバネのように肩を跳ね上げながら振り向いた。
驚いたのは相手の少女も同じで、置いた手が跳ね上がりハイタッチのような姿勢で固まった。腰まである黄色の長い髪が鳥肌のように跳ねあがり、そっと落ち着いた。
「なによ、びっくりさせないで」少女は苦情を放った。
「それは僕のセリフなんだけど」
つい言い返したところで彼女の三白眼がぎゅっと細められる。意見を言うつもりかと威圧されてるようでカートはライオンを前にしたウサギのように肩を縮めた。
彼女はリリー。
カートと同い年の友達だ。
「何か用?」
肩を縮めたまま、強張った声で尋ねた。
リリーは文句を言いたげな顔をしたが、溜め息を一つ、諦めたような表情を浮かべて言った。
「あんた最近ずっと何調べてるの?」
「なんだっていいだろ」
恥ずかしさを隠すように本を閉じようとしたがリリーは素早い動きでそれを止めた。を手のひらいっぱいで左のページ押さえつけ、右のページに目を向ける。
「ええっとなになに……。『図書館は打ち壊された。六世紀にわたって培われた膨大な知識は〝異教徒のもの〟というだけで炉にくべられたのである』。なにこの妙ちくりんな本。こんなの読んでどうすんのよ」
酷い言いようだと口を尖らせる。リリーはいつも攻撃的だ。僕の話なんてちっとも聞かない。でも調べたいことを誤解されるのも困る。
カートは仕方ないと足を開いて彼女に身体を向けた。
「戦争の歴史を調べてるんだよ」
「? なんのために?」
「毎日ここに新しい家族が増えるだろ? でも先生たちが話しているのを聞いたんだ、孤児はこれからまだまだ増えるんだって」
「それで?」
「僕たちみたいに助けてもらえる人ばかりじゃないし、だったら戦争とか貧困とか孤児が生まれる原因をこの世から無くす方法はないのかなって」
「はあ」とリリーは呆れた顔をした。
「あんたのその『いい人』なところは好きだけど」リリーは無味乾燥な瞳を窓の外へ向ける。「きれいに割り切れないことこそ無限にあるのよ」
「子供のくせに分かったようなこと言うなよ」
「あんたも十歳になったんだからいい加減現実にも目を向けたら?」
「向けてるから調べてるんだろ?」
リリーは面倒臭そうに「まあいいや」と溜め息混じりに話を打ち切った。
「とにかく行くよ」
カートの手を強引に引いて外に連れ出した。
向かった先は広場だった。何やら準備が行われている。
中心に大きな円形の台が置かれていた。剣闘士が殺し合いを演じれるぐらいの広さがあって、それを囲うように椅子が並べられている。
その向こうには荷馬車が停まっていた。馬は近くにいないからおそらく馬小屋に連れて行かれたんだろう。大人たちが荷物を運んで行き来し、その様子を子供たちが興味深そうに眺めていた。
子供は今も集まってきており、カートたちもその内の一組だった。その姿に気づき、
「あっ、来た来た。遅いよ」
客席の手前で待っていた少年が早く来いと手を振る。
彼はマルン。彼は十一歳で、シアン色の髪を坊主にしている。少し知的かつ内気な顔つきをしているためお地蔵さんのような可愛さがある。
「サーカス団が来るっていうのにどこに行ってたの?」
信じられないというようにマルンはカートに尋ねた。
「図書室にいたの。なんかよく分からないこと調べてた」リリーが答えた。
「大事なことを調べてたんだ」
カートは答えた。
「とりあえず間に合って良かったよ」
マルンが言ったところで、準備の様子を見ている子供たちのうち、近くにいた二人が振り返り、集まってきた。
「このまま来ないのかと思ったぞ」呆れたように言う彼はプルーカ。十二歳には思えないほど立派な体格をしている。カートより頭一つ以上高い一六〇センチ。骨格からごつく、顔立ちも真鯛のように精悍なため、大人顔負けの威圧感がある。マゼンタの髪は少し長めで、前髪は目にかかっている。「俺なんか一番乗りだったのに」
「反対に遅れても面白かったかもね」
もう一人はワイス。十一歳とはいえクジャクのような美しい顔をしている。彼女も、プルーカほどではないが背が高く、一四七センチ。肩に掛かる髪はその肌と同じくらい白い。
「面白いことなんかあるもんか」マルンが興奮気味に言う。「数年に一度しか来ないのに見なかったら損だよ」
「反対に、損して後悔してるカートを見るのも面白いんじゃない?」
「性格悪いよワイス」
「褒め言葉として受け取るね」
適当に躱されてマルンは大きく肩を落とした。その横でカートはきょろきょろと辺りを見回していた。
「あれ、チュチッチは?」
「兄さんはお手伝い当番だから」とプルーカ。
「そういえばそんな話してたね」
「それより、もう席に着き始めてる。俺たちも行こうぜ」
プルーカは客席の方を指差した。
道化のように派手な服と化粧で彩られた男が腕を大きく広げ、満面の笑みで高らかに宣言した。
『みなさん、お待たせしました。これより開演です!』
最初に現れたのは三つのスティックをジャグリングする二人組だった。それだけで子供たちから歓声が上がる。
彼らは距離を取り、ジャグリングしながらスティックを投げてスティックの交換を行った。それで再び歓声が上がる。
それを含め十の演目が行われた。
身体能力の可能性を示してくれるような曲芸。
動物のたくましさ、彼らとの意思疎通。
火の輪をくぐるという過激なもの。
道化師が慌てふためいて笑いを誘うもの。
子供たちは笑い、熱狂し、最後には満足そうな笑顔で溢れていた。
閉演してもなお子供たちの興奮は冷めることなく、いたるところで白熱した会話が繰り広げられていた。それはマルンとプルーカも例外ではなく。
「ライオン凄かったね! あんなもっさもさの髪があってガルルと吠えて!」
「四人で大人の男を空高く打ち上げたやつ、あれ凄かったな! あのまま星になるんじゃないかって思ったぜ」
それぞれ唾を飛ばす勢いでカートに言ってきた。カートも興奮した様子で、
「最初は乗り気じゃなかったけど、見て良かったよ」
「でしょ!」
「やっぱそうだろ!」
「あの衣装可愛かったね」とリリー。
「可愛かったし、お姉さんも動物操ってるのかっこよかった」とワイス。
反対側では女子二人のそんな会話が聞こえてきた。
プルーカが名残惜しそうな顔を舞台に向ける。
「またすぐに来てくれねえかな」
「無理だよ。世界中を旅してるから」
マルンが諦め混じりに言ったとき、
「あっ!」
カートが何か思い付いたように飛び上がった。大きく見開かれた瞳は星のように輝いており、間髪入れず駆けだした。あっという間に走り去ったその姿はさながら流れ星だった。
どこだろう? 頭を左右に何度も振って走る。
注意散漫は明白であり、見事に衝突事故を発生させた。
「痛っ」
「ごめんなさい!」
カートは即座に謝り、ぶつかった相手の肩に気遣うように触れた。相手も同様に肩に触れてきて「大丈夫大丈夫」と答えたところで、相手はびっくりして声を上げる。
「あっ、カートじゃないか」
「ああっ、チュチッチ」
カートも驚いた。彼はプルーカの実兄のチュチッチ。弟とは異なり、少し赤い髪、カート同様の小柄な体格、顔つきもメンダコのように可愛らしい。
「どうしたの、急いで」
チュチッチが尋ねると、カートは一瞬言い淀んで顔を逸らした。しかし急いでいることを思い出し、すぐさま言葉を捻り出した。
「スタッフの人と話がしたいんだ。迷惑になりたくないから暇な人で……」
「だったら案内するよ。俺少し準備手伝ってたから」
チュチッチが連れて行ったのはサーカス団のバックヤードだった。入口には子供が迷い込まないよう見張りがいる。二人は彼のもとへ向かった。
「どうしたんだい?」
少しかがんで目の高さを合わせてから見張りの男は尋ねた。忘れものでも探してるんだろうと軽く予想していた。
カートはチュチッチがいることを少し嫌がったが、リリーにもう話したのを思い出して覚悟を決めた。
「あの、その、世界中を旅して回ってるんですよね」
カートは興奮気味で尋ねる。
「そうだよ」と優しく答えると、
「だったら、孤児を減らす方法を見聞きしたことありませんか?」
男は困惑した。こんな子供からまさかそんな質問をされるとは思っていなかった。
「僕は孤児を減らしたいんです」
「えっと……」
男はなんと答えようか迷った。思いつくのはこの子にとって残酷な現実ばかりだ。
「どうしたんだ?」
そこへスカーフを首に巻いた男が通りかかった。糸のように細い目をした男だった。なんとなく胡散臭い気配がしてカートは少し怯えた目を向けた。
団員の男は笑顔を向ける。
「あ、ウィチョンさん。すみません、この子に『孤児を減らす方法はないのか』と聞かれてどう答えようものかと」
「ふうん、面白いことを訊くね」
ウィチョンはただ笑顔を向けただけだったがカートにはそれが酷く恐ろしいものに映った。
「あ、いたいた!」
「カート、急にどうしたんだよ」
背後から聞き慣れた声がかかる。マルンとプルーカだ。その後ろにはリリーとワイスもいる。「あれ、兄さん、なんでいるの?」とのプルーカの問いかけにチュチッチは小さな声で「成り行きで」と答えた。
「君たちはこの子の友達かい?」
ウィチョンは尋ねる。
「はい! 友達です!」とマルン。
「同じころに拾われたんだ」
プルーカが言い、チュチッチが頷く。
「あんたは誰?」とリリーが懐疑の目。
「カート、ここでなんの話をしてたの?」とワイスが尋ねたところで、ウィチョンはこの六人へ意味ありげに目を細め、改めてカートに目を向けた。ふと、彼の右の袖から黒いものがのぞいていることに気づいた。
「そのタトゥーはなんだい?」
「⁉」
カートは指摘されたことにまず驚いて、慌てて袖を引っ張ってタトゥーを隠した。
それを見てプルーカが代わりに答えた。
「壊れたオモチャの馬だよ。大切なものを失くしたら身体に残す風習があるんだって」
「ちょっと。それ言われるの嫌だってカート言ってたでしょ」
リリーがすかさず怒る。
「いいだろ別に」
プルーカはなんで怒られないといけないんだと対抗。
「争うのはやめてよ」
慌てたマルンが間に入った。チュチッチは弟の脇腹を肘で小突きつつ申し訳なさそうな顔をした。ワイスはそれを見てこっそりくすくす笑った。
「なるほどね」ウィチョンは感心したように頷いて。「この子から『孤児を減らす方法』を訊かれたんだ」
「なんでそんなことを?」
ワイスが不思議そうに首を傾げた。
「バカなのよ」リリーが腕を組んで呆れたように言った。
「僕は真剣なんだぞ!」
カートが息を吹き返したように怒って、リリーになによと睨み返されてまた萎縮した。
「でも、孤児が減るのはいいことだよ」とマルン。
「やっぱりマルンはいいやつだ!」
「それじゃあ私が悪いやつみたいじゃない!」
「リリーはいつも怒ってばかりじゃないか」
「なんだって?」
「ほら!」
「いま怒った!」
リリーが掴みかかり、マルンは慌てて彼女を羽交い絞めにした。カートはプルーカに頭をこつんと殴られ、痛ってぇと苦悶の表情を浮かべた。そんなみんなを見ながらクスクス笑うワイス。チュチッチは呆れたように目頭をおさえた。
「君たちになら教えてもいいかもね」
ウィチョンは意味ありげな笑みを浮かべ、そしてカートの前で膝をついた。同じ高さに目線を揃え、振り向いたカートに、彼は言った。
「君は『オープトイ』を知っているかな」
「知ってる。おとぎ話に出てくる魔法の道具でしょ?」
「もしそれが実在したら、どうする?」
「しないよ」プルーカが言った。「そんなものがあったら世の中もっとグチャグチャになるって先生言ってたし」
ふふとウィチョンは優しく笑って、
「カート、君にこれをあげよう」
胸元から何かを取り出した。二つ折りにされた一枚の紙だった。
「うーん」
翌朝、カートはまた図書館で一人でいた。本を広げ、研究の行き詰った学者のごとく頭を抱えて唸っている。
昨日、ウィチョンからもらった紙もその横に置いてある。
中にはこう書いてあった。
〝あらゆることを可能とする『全能』のオープトイ
世界を巡り、力を合わせて困難を乗り越え
多大な犠牲を支払った先に、それは与えられる
まずは砂の海に立つ四角錐を目指せ〟
「砂の海ってなんだよ……」
海は知ってる。巨大な塩水の水たまりだ。絵で見たことがある。
砂の海って、だから、海ぐらい広く砂がある場所ってことだと思う。でもそんなのどこにあるんだ?
答えが分からず、本を漁っていた。
ウィチョンは立ち去る前に、こう言った。
「私たちは世界中に笑顔を届ける仕事をしてるんだ。それでも『オープトイ』には選んでもらえなかった。君たちはどうかな?」
ウィチョンさんは『全能』に挑んで、失敗したらしい。
あれだけのパフォーマンスをして、あれだけの熱狂と笑顔を届けてくれたあのサーカス団に属している人ですら、『全能』は手に入らない。
今は代わりに、期待できる人に最初に向かうべき場所を教えているらしい。
つまり僕は期待されている。
「はあ……」
カートの表情は曇り空のように暗澹としていた。
おとぎ話に出てくる『オープトイ』は他にもある。その中で僕の願いを叶えるなら『全能』が最もふさわしい。
これは神のごとき力だ。
手にしたものはこの世界を手に入れると言っても過言ではない。おとぎ話の中では、主人公が最終的に世界を平和なものに変えて、世界中の人が幸せとなるエンディングを迎えた。
絶対に手に入れたい。
でも、砂の海の場所すら僕には分からない。
「ねえ、カート。聞きなさいよ」
不意にトンと肩をたたかれた。
「わあっ」
カートはバネのように肩を跳ね上げながら振り向いた。
驚いたのは相手の少女も同じで、置いた手が跳ね上がりハイタッチのような姿勢で固まった。腰まである黄色の長い髪が鳥肌のように跳ねあがり、そっと落ち着いた。
「びっくりさせないでって言ってるのに」
「それは僕のセリフだって言ってるじゃん」
つい言い返したところでリリーの三白眼がぎゅっと細められる。反射的に肩から萎縮してしまったが、今日は少し立ち向かえた。
「何しに来たんだよ」
「あんた本気で『オープトイ』を探すつもりなの?」
少し首を傾げ半信半疑といった様子でリリーは尋ねた。いや答えが分かっているからすでに呆れていると言った方が正確かもしれない。
「当たり前だろ?」
「あれは空想のものよ?」
「でもウィチョンさんはあるって言った」
「はあ」リリーは大きく溜め息をついた。「まあそう答えると思った」
カートはすねたような顔をして、本を両手で持って机に向き直った。
「いいよ別に。何を言われても調べるだけだから」
リリーは両手を腰に当て、投げやり気味にやや口を尖らせながら、
「私も手伝ってあげる」
「……え?」
意味が理解できず一瞬ぽかんとしてしまった。
「だーかーらー」苛立ちながらリリーは指を突き付けた。「協力してあげるって言ってるの」
「え、なんで?」
「なによ。問題あるの?」
リリーは腕を組んで三白眼をきゅっと絞る。
「いや、無いけど」
はあとリリーは溜め息をついた。
「あんたってどんくさいじゃない。変に頑固だし、頭そんなに良くないし、一人で何かできるほど器用じゃないし」
「めちゃくちゃ言うじゃん」
「だからほっとけないのよ」
リリーは一度照れたように目を逸らして、
「『オープトイ』なんてあるかも分かんないんだから、一緒に骨を折ってあげる。感謝しなさい」
興奮気味にやや顔を赤らめながら、リリーは言い放った。
時計の針が九つ回って放課後、二人はまた図書室に向かった。
「私あまり図書室使わないから何があるか分からないのよね」
「神話、詩集、数学や自然哲学の本、錬金術、歴史書、哲学書、啓蒙書……でもほとんど童話や寓話だね」
ふうんと適当に応えながらリリーは本棚を巡る。奥を回って入口付近に戻ってきたところで、小さな棚で立ち止まった。目立つように表紙を向けて並べられた本の一冊を手に取る。
「何これ旅行記ってのがあるけど」
「へえ、知らない」
カートは物珍しそうに表紙を覗き込んだ。ちょうどそのときガラガラとドアが開き、巡回の先生が入ってきた。
「昨日のサーカス団の方が寄付してくださったんです」
先生は教えてくれた。
「近年はこういうのが増えてるそうです。大陸や航路の発見がある程度終わって、様々な食材や文化が流通するようになったことで、その過程の方に注目が集まってるとかなんとか」
「それがいいじゃん」
リリーはびっくりしたように言った。こういうのがあるなら最初から教えて欲しかったと顔に書いてあった。
「確かに『砂の海』のことも書いてるかも」
「旅行記って他にないの?」
「以前にもらったのが確かあっちに……」先生はえっとと呟きながら奥の方へ歩いていった。
「二冊だけかぁ……」
旅行記はもう一冊あった。しかしそれでもまだ二冊。『砂の海』について書いてある可能性はまだ低い。
「増えただけマシでしょ。さっさと読も」
リリーは尻をたたくような目を向けて、手に入れたばかりの旅行記で椅子を指し示した。
ちょっと頼もしいなとカートは思った。
いや、リリーはいつだって頼もしい。
それから二人は並んで、旅行記をめくっていった。カートはかじりつくように前かがみで、一方リリーは背もたれに身体を預けてつまらなさそうだった。自分で言い出したものの面倒臭くなっていた。一つ気分転換が必要ねと思いカートの方はどうだろうとちらっと見てみた。『いくつもの島を渡った先に〝地球のへそ〟と呼ばれている島を見つけた。そこには人の形を模した石像がいくつもあって』……これも違う。リリーははぁと胸の内で溜め息をつき、自分の本のページをめくった。
『このように立派なものだとは思わなかった。見事な四角錐。この大きさ。なるほど王の墓にふさわしい威圧感だ。これを人の手で作ったと言うのだから驚愕である』
四角錐?
リリーはページを一つ戻した。下の方を読み直す。『この辺りは広く砂地が続く。今すぐに全身が干乾びてしまいそうな暑さだ』。
「砂の海ってこれじゃない?」
リリーは本と一緒に身体を寄せた。カートが身を乗り出すように覗き込む。
「どれどれ。……あ、これっぽい。これかも。これだ!」
カートは叫んだ。
「ありがと! リリー!」
盗人のような手際でリリーの手を掴み、黒い瞳を水晶のようにキラキラと輝かせた。なんだか妙に照れくさい思いに駆られて、また胸の当たりが変にドキドキして、それから逃げるようにリリーは旅行記に向き直った。
「きっと遠いよ。お金がたくさん必要だと思う」
「そうだよね……。どうやって稼ごう……」
ちょうどそのときガラガラとドアが開いた。
入ってきたのはマルンとチュチッチだった。
「あ、いたいた」
「自然に考えてここだよな」チュチッチは腰に腕を当てて得意げに言った。
しかし二人の悩ましげな顔を見て、こくりと小さく首を傾げた。
事情を聞いて、チュチッチは困ったように頭を掻いた。
「ここは十四歳から仕事のお手伝いをさせてもらえる。一年間の見習い期間で合格を貰えれば仕事に就くことができる。でもそうなれるのは一部だけ」
十五歳を迎えれば孤児たちはここを出て行かなければならない。
近所での仕事なんて限られている。その多くは農業に従事するが、やがて不要と判断されて捨てられたり、売られることもある。
職にありつけなかった子供たちは仕事を求めて遠くの町を目指し旅に出る。その道中で息絶える子は数知れず。
「当たり前だけど、生きるだけでも大変だよ」マルンは何やら芝居がかった様子で難しい表情をしてみせた。声も表情もぎこちない。「それでもカートは旅に出るのかい?」
「もちろんだ」
カートに迷いはなかった。
その横でリリーはマルンのわざとらしさに首を傾げていた。
「そっか」とマルンは複雑そうに呟いた。これに芝居は感じられない。彼は覚悟を決めるように目を閉じて、
「じゃあ付いてきて」
二人を図書室から連れ出した。
行き先は彼らががよくたまり場にしている部屋だった。ドアを開けるとプルーカとワイスがテーブルで何やら書き込んでいた。その脇には本のように分厚い紙の束。
鉛筆を置いて二人は顔を上げた。
「来たか」
「さっそく計画を立てよう。年齢がバラバラだから考えること多いんだよ」
言いながらワイスがすぐ横に座るよう手招きをする。
カートの足はぴくりとも動かなかった。困惑の顔で、うつむき気味に、
「協力してくれるの?」
小さな声で尋ねた。
「勘違いしないように言うけど」プルーカが指を突きつける。「計画だけじゃないぞ。一緒に旅に出るんだ」
「カートは放っておけないからね」とマルンが後ろから言う。
「一人で旅なんて俺たちが気が気じゃないし」とチュチッチ。
「どうせ私たちなんて大人になれるかも分からない命なんだし」とワイスがニヒルに言った。
「僕のために人生投げ出すようなものなのに?」
「いいんじゃない?」隣でリリーが呆れたように腕を組む。「貰った紙に書いてあったでしょ?『力を合わせて困難を乗り越えろ』って。つまり一人じゃダメなのよ」
「ってわけだ」プルーカがニヤリと笑う。
「一緒に行くぞ」
カートはすぐには動けなかった。胸のあたりから込み上げる熱いもの。やがてそれは目をうるうると煌めかせた。
「みんな、ありがと!」
キラキラとした顔を上げて、カートは言った。
夜空。
宇宙が透けたような夜空が広がっている。新月の今日は星がよく見えた。
円形の塔がある。手を伸ばせば星に触れられそうな背の高い塔だ。その屋上のふちに、一人の青年が腰かけている。カートだった。
「二十歳になったよ」
彼は空へ左手を伸ばしていた。手の甲を突き付け、手のひらを宇宙と重ねるようにしている。袖をまくって剥き出しの前腕の内側には、五つのタトゥーが彫られていた。
+×+×+
彼は寂しげにそれを見つめていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます