【第一章】06(2)
「ありがとう」
そう伝えて手を下ろしてもらった。
目元を拭って、息をつく。
「さて」
彼は切り替えるようにして明るく言った。
「島の心臓部に向かいましょう。どうせこの上ですし」
ドキッとして顔が強張った。だってそれは、物語のクライマックスを迎える場所。
終わり……。
「藤田さん?」
心配そうに覗き込む河西くん。
「だ、大丈夫」
咄嗟にそう答えてしまった。
「では行きましょう」
「…………」
……あれ、何を思ってたんだっけ。
そういえば何度も健忘を繰り返してる気がするような……? まあ、いっか。
釈然とはしないけど、呆然ともしてられなかった。
ロボットにお礼と別れを告げ、通路を奥へ進み、神殿の手前でエレベーターに乗った――縦穴を立方体の岩が昇降する仕組みで、足場は僅かに桃色に発光し、速いとも遅いとも言えない速度で上昇する。壁に触れたら削り取られるため岩の中央に立っていた。
十秒ほどで地上に到着。野球でもできそうな広大なドームだった。全てが巨大な白い岩で出来ており、様々な形が組み合わされている。上部には採光用の窓がぽかりと空いていて十分に明るい。
向かって右手に出入口となる大きなアーチがあって、外に森林が形成されているのが分かった。
「こっちですね」と河西くんがすぐ横の通路に階段を見つけた。
薄暗い中を慎重に上っていく。
その最中、彼は唐突に言った。
「正しさについて考えたことはありますか?」
雑談のような軽い調子である。
「まあ、少しは」
気まずさを誤魔化すようにできるだけ平坦な口調で答えた。
彼は滔々と語る。
「正しさの判断基準っていくつもあるじゃないですか。自由、平等、道徳、倫理、功利、宗教、文化、エトセトラ……それぞれに正当性があって、それぞれに問題がある。だから反論が生じ、いつも喧嘩する訳です」
うん。
「それでも人は選択を迫られる。責任を引き受けられなければならない。それがちゃんとできるかどうかは自分なりの正義を練っているかに懸かると思うんです。でも、ただ練ればいいってもんじゃない。大切なのは目的です。正義はあくまで手段でなくてはならない。正義が暴走するときとは往々にして正義そのものが目的となっているときですから」
河西くんは立ち止まって振り返る。踊り場の窓から光が差し表情がよく見える。数段後ろの私に、問い掛けるような眼差しを向けていた。
「だから私は、今できる精一杯の選択をして、また壁にぶつかったら自分を疑って、正義を模索し続けます。ま、死ぬまで間違え続けるんでしょうけどね」
そこまで言って彼は表情を綻ばせた。
いつもの河西くんだ。
そう安堵したのと同時に彼の表情を影が覆った。太陽を雲が隠してしまったんだろう、すぐに明るさを取り戻して、そのときにはまた難しい顔をしていた。穏やかなのに、なんだか剣呑な、もっと言えば怪しい感じの。
「行きましょう」
彼は平坦な声で言って、私の反応を待たずに階段を上っていく。
安堵はちゅうぶらりんとなって行き場を無くし、まもなく押し寄せた言い知れぬ不安に掻き消された。なんだろう、何か忘れている気がする。
首を捻ってる間に彼は次の階段を上っていて、私も慌てて階段を駆け上がった。
四階――最上階に到達した。
弧を描くように曲がった廊下を歩いて、建物の正面に当たる位置まで来ると、三メートルは越えてそうな大きな門があった。ペンダントと同じ模様が配われ、その脇にはドアホンのような突起がある。そこにペンダントを近づけると、門が左右に開かれた。
生命力の凄さと言うべきか、それとも不思議な力のせいなのか。かつては白い岩が美しく輝いていたと思われる空間が、すっかり植物に侵食されていた。床は雑草まみれ、壁は木々の根っこまみれで鬱蒼としている。天井からは根っこが付き出しており、それが中央にある台座の宙で、両手を合わせるように何かを包んでいた。隙間から漏れ出すのは桃色の光。
河西くんが先頭に立ち、適度に水分を含む土を踏みしめながら腰まである雑草を掻き分けて行き、台座に上がる。木の根を掻き分け、内部を曝け出した。
人間の胴体と同じくらいの正二十面体の石が浮いていた。桃色に煌めくそれは、まさしくこの島の心臓だ。
「言いますか、あれを」
彼は手を差し伸ばした。アニメ通り手を重ねてくれるらしい。それはもう是非お願いしたいところだった。……やば、手汗が。
拭おうと服に触れかけたところで、ぴくっと手が止まる。
『河西祷吏を止めてやってくれ』
思い出した。
それだけにとどまらない。それを引き金に、これまでのことが走馬灯のように一気に思い出された。戦闘型に追われたこと、列車で移動しながら話したこと、島まで飛んできたこと、そして、河西くんがあの門から現れたこと。あのとき私は思った――まるで私に助力するためにやって来たようだって。
実際、その通りだった。河西くんはそれに徹していた。
「藤田さん?」不思議そうにする彼。
私は前を向いたまま尋ねた。
「河西くんは、これからどうするの?」
「え?」
思わぬ質問だったんだろう、河西くんは目を丸くしてそうな声をこぼした。
「どういう意味ですか?」
「この島にずっといる訳じゃないんだよね。この後はどこに行くの?」
言って私はズボンをぎゅっと握りながら彼に向いた。
「どこと言われても……」
明らかに困った表情だった。
「最初に居たところの門を憶えていますか? あそこから帰るんです。一緒にあの門をくぐって日常に帰るんです」
彼は真っすぐ私と顔を合わせながらも目を逸らし気味にしていた。
なんで帰ることを強調したのか。気にしすぎかもしれない。だけど、なんだか帰らせたいという意図を感じ取ってしまう。
「もし、帰りたくないって言ったら?」
「……どういう意味ですか?」
「ここにずっと居たいって言ったら、どうする? 私、別にここで死ぬまで暮らしても困らないからさ」
「それはできません」
彼は即座に断言した。
真剣な表情で首を振る。
一つの可能性を真剣に考えてしまう――そもそも彼が門から入ってきた事実があって、そしてずっと居られない場所であるのなら、ここは何か特別な空間であると予想できる。
そして、河西くんが助力のためにここに居るのなら――。
私はまっすぐ問い掛けた。
「ここは、願いを叶える場所なの?」
正直、半信半疑だった。だからこれは半ば鎌をかけたのだけど、どうやら推測は正しかったらしい。
河西くんは大きく目を剥いていた。
そのまま固まること数秒、彼は噴き出すように笑った。
「ははははははっ、面白いこと言いますね。なんですか願いを叶える場所って。そんな大層なものがあったら私も行きたいですよ」
口ではそう言っていたけど、目が笑っていなかった。
やはり突き放そうとしている。
あの男の言葉を鵜呑みにするのもどうかと思うけど、それでも単に願いを叶える手助けをしてるとは思えないもっと危ない何かがあるんじゃないかって。
「ねえ河西くん、願いを叶えるんだったら私にも手伝わせて。河西くんにはたくさんのお返ししなくちゃいけない恩があるんだよ」
縋りつくような声が出ていた。いや縋りついてるも同然だ。
離れたくない。
「…………そうですか」
彼は溜め息をつくような顔をして、直後、私の手を乱暴に握った。抵抗の隙を与えない勢いで巨大な石に手を突き出し、そして、
「――――」
唱えたのはあの呪文。
途端に胸元の石が眩いくらいに輝きを放って、私は思わず目を閉じてしまう。
「どうかあなたが、ほんとうのさいわいに近づけますように」
祈るような、優しい声が聞こえた。
穴が空くような冷たい感覚に襲われて、たまらず叫ぶ。
「私はここに残る! 河西くんから離れない!」
言いながら彼の手を強く握る。
強く、強く。
「河西さん」
どこからか、幼い少女のような声が聞こえた。同時に光が収まっていき、見れば、河西くんの正面に声の主らしき少女が立っていた。小学校高学年ぐらいのあどけなさでありながら強い芯を持ってそうな顔立ちで、ピンクの髪、そしてピンクを基調としたふりふりの服を着ていた。まるで魔法少女のような姿。
「トメちゃん、どうして」
驚きを隠せない様子で、それでも冷静を努めて問い質す彼に、少女は岩のようにしんと強く、淡々と答える。
「彼女は先程ここに残ることを望みました。この島ではなく『願いの園』にです」
彼は怪訝な顔をする。少し語気を強めて難色を示した。
「藤田さんの気持ちを考えてるとは思えないな」
「安心してください、想定内ですから」
「ぼやけた返答は良くないな」
「根本的な話、河西さんに意見する権利はありません。ルールに従い、藤田知仍さんには選択の権利が与えられます」
「論点をズラすなよ」
「ではこう言いましょう――藤田さんは河西さんに対し多くの恩を感じてるらしいですから、ちゃんとお返しを貰うべきです。返報性の原理は強力ですからね、重い荷物を背負わせることになりますよ?」
「それは藁人形論法だよな」
「そうかもしれません。しかし、藤田さんの気持ちを配慮していることには変わりませんよ?」
「……」
河西くんが押し黙った。
藁人形論法は聞いたことがないけど、返報性の原理は分かる――何かされたらお返しをしたくなる心理のことだ。良いことには良いことを、悪いことには悪いことを、お土産にはお土産を。
「藤田さんもその方がいいでしょう?」
少女から得意げな顔が向けられ、彼からは嫌そうな視線が向けられる。お返しできる感じではない。……だけど、
「河西くんの役に立てるなら、やらせてほしい」
「それは保証しましょう」
はっきりと断定をもらえた。
深い溜め息をつく河西くん。厳しい顔を私に向ける。
「藤田さん、まずはちゃんと話を聞いてくれ。決めるのはそれからでいい」
次の瞬間、全てがホワイトアウトした。
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