【願いの園】第二章 06(2)
目の前に妖精がやって来た。
てのひらサイズの人の形で、青を基調とした服を着て、シオカラトンボのような透明な羽を生やしている。女の子っぽい。彼女は背後に指を差す。湖の方だ。
「『こっちに来い』って言ってるんじゃない?」吉岡さんが言った。
立ち上がってお尻の砂を払うと、すぐに吉岡さんが後ろから抱き着いてきた。それだけなら分かるけど、ぐりぐりと私を押すのはどういうことだ。
「移動に制限があるでしょ?」
尋ねるまでもなく答えを得られた。
「そりゃそうだけど」
「それじゃあ行こう」
「ちょ、押さないで」
押す力が更に強くなる。崖から落とそうだなんて恐ろしい人間だ。今すぐ殺人未遂で逮捕していただきたいと――。
ひいいいいいいっっっっ。
ブンと羽搏いて私たちは突き飛ばされるように空に放り出された。
私は余程生命に危機を感じたんだろう、石から勝手に光が飛び出した。いくつもあるそれは触手のようにうねり、同時に重力の影響が弱まっていく。やがて収まるころには下降が緩やかになっていた。
「殺す気か!」
渾身のツッコミだった。
「ごめんごめん。やっぱ一度くらい仕返ししておかないと満足できなくて」
「自業自得で片付けてたまるか、こんなの」
「ごめんってば」
笑いながら済ませようとする。夢の中だからって何をしてもいいと思うなよ?
元気になったようだから許すけどさぁ。
「やっぱ重力から切り離されるの面白いね」
目を輝かせてるんじゃないかという愉快げな声だった。
「……そうだね」
返答に遅れてしまったけど、これは不満ではなく、表現が引っかかっただけ。
相対論的に言えば、重力は空間の歪みだ。平らな土地でまっすぐ転がるボールもゴルフ場のようにうねった地形なら蛇行する。それと同様に、直線的に動いても空間が地面に向かうように歪んでるからそちらに進んでしまう。これが重力。だからこの石はその歪みを修正もしくは相殺してると表現した方が正確だ――といったマニアックな話をしても仕方ない。それに私の知識が物理学者に及ばないことは明白だし、重力もまだ分からないことばかりみたいだから、分かったようなこと言うもんじゃない。
そんなことを考えてる間にかなり湖に迫っていた。
湖は陸上競技場を余裕で飲み込みそうな広さだ。人にとっては十分広いけど、あのムカデには些細な距離に思われる。仮に泳げるならどこにいても数秒で距離を詰められそうだ。加えて、畔が狭く、すぐそこが森になるため、ムカデの出現は直前まで気づけないだろう。
もちろん上空にいれば話が変わるけど、妖精が止まったのは水面から僅か数メートルのところだった。
そこは湖のド真ん中。水面から数センチのところで無数の妖精が集まっていた。まるで儀式のように多重の輪を作り、神を見上げるように恭しくこちらを見上げている。
先導した妖精が片手を挙げた。
何をするつもりだろうと首を傾げた直後、妖精たちは動き出した。輪を大きくするように広がっていく。それに合わせて、湖の中心に穴が空いていった。渦を巻いていない。ゴムを引っ張るようにしてすり鉢状に拡大していく。やがて深さが十階建てマンションに匹敵するレベル(約三十メートル)に達し、茶色い砂利の湖底を露出させた。そこに、きらりと輝くものが刺さっている。
剣だった。
全長一メートルぐらいの諸刃の直刀。砂利の中も含めれば更に数十センチはあるか。シンプルながら格式高そうなデザインで、太陽を浴びてきらめている。錆びや傷みはなさそう。岩に刺さっていないけどエクスカリバーを彷彿とさせる。
「あったね、剣」
呆然と言う吉岡さん。まだ呑み込めていないようだった。私も同じような調子で「うん」と頷く。
底はやがて人が数人寝転べそうな広さまで露出していた。先導した妖精が剣のそばまで螺旋して下り、どうぞと言うように手を差し向ける。
「行こう」
吉岡さんは言うや否や羽を動かして、私はすぐに石の力を弱めた。
ゆっくり減速して、剣のそばに着陸する。
圧迫感のある場所だ。この剣のせいなのか、深い場所にいるからなのか。元の水面の高さですら見上げなければならないのに、よけた水が壁のように反りたっているためより一層深く感じられる。あれが落ちて来たらと思うとゾッとする。
「よし、抜くか」
吉岡さんは腰から離した手を肩に移した。私と一緒に抜くつもりのようだ。
「一人でやった方がいいよ」
「えー、一緒にやろうよ」
「私はムカデが来ないか見張っておくから」
言うや私は数歩距離を取る。
「分かったよ」
吉岡さんは口を尖らせた。「たくっ、もうっ」と不満を口にしながら一人で柄を握る。両手でしっかりと。別に申し訳ないとは思わない。これは本当に親切心だから。
私は微苦笑しながら顔を反対側に向ける。まだ大丈夫そうだ。少し様子が気になって視線だけを戻した。彼女は気合を入れるように息を吐いていた。次の瞬間には、明るく可愛らしい顔立ちが武道家のような真剣な面持ちに変わった。
今まさに引き抜こうという記念すべき瞬間だけど、こういうときこそ危ないものだ。私は警戒の視線を向ける。
まさにそのとき、盛大な水飛沫を見た。
飛沫の中にある眼球。
滝を突き抜けるようにして、巨大ムカデが水の壁から飛び出して来た。
な――っ⁉
本当に来るのかよ!
「あ、抜けた!」
達成感のある溌剌とした声が近くで響く。
それはもうマヌケに聞こえる呑気なものだったけど、彼女もすぐに状況を理解するだろう、あっという間に黒い影が私たちを覆っていた。雲が太陽を隠した瞬間に感じるちょっとした不穏な気配。まさにそんな感じ。
私は流石に動き出す。吉岡さんはムカデを見上げてぽかんと口を開けており、そのお腹に腕を回して、勢いそのまま斜めに跳躍する。それと同時に石の力を発揮して、一気に空へ飛び出した。方向はムカデと垂直。崖から見て右。
しばし硬直していた吉岡さんもすぐに羽を動かして、バタバタとぎこちなくもなんとか影から脱出。直後ムカデが湖底にダイブした。大きな音を立てながら前後の水を弾き飛ばす。飛沫がいくらかここまで飛んできた。
直後、妖精たちが三々五々散っていき、よけていた水の壁が崩壊し、一気になだれ落ちた。ムカデは水中に沈み、私たちはギリギリ湖面の上まで上がっていて助かった。でも急いで畔へ逃げる。落下した水はまだ落ち着かない。中心へ集中することでぶつかりあったエネルギーは逃げ場を求めて上に向かう。水は一つの塊となって空へ噴き出した。噴水のように水が降り注ぐ。
蝶の翅は少量の水であれば鱗粉ではじけるが、多すぎると濡れてしまう。そうなれば重くなってまともに飛べなくなる。
吉岡さんは懸命に羽搏いた。
「はあ、はあ……っ」
水面がまだ荒ぶる中、私たちは畔に降り立った。と言っても、水柱が戻った勢いで畔にも水が溢れたため地面はびしょびしょで、森の中に少し立ち入っている。吉岡さんは木に背中を預けて息を整える。
「死んだかな」
不安そうに湖面を見る。
これじゃあたぶん死なない。ここは願いを叶える場所だから。私は彼女が握りしめる剣を見て、それから正面に立って背中を向けた。
「掴んで。飛ぶから」
うん、と静かに答えて、ぎゅっと両手で抱きしめてくる。剣が目の前でぶんと回されてちょっとビビったけど、危なっかしさを注意するより先にまずは飛ぶ。石の力で浮かび上がり、湖の真上に向かった。
水が濁って様子が窺えない。どう出てくるか分からない。吉岡さんが剣を下ろし、いつでも来ていいように身構える。
「眼球潰すだけで死んでくれるかな」と私。
「死ぬかは分からないけど、襲うことはないでしょ。見えないんだから」
「むしろデタラメに暴れそうだけど」
「そう?」
「まあ、やってみないことには分からない」
「そうだね」
吉岡さんは不思議と確信めいていた。少し傾いて横顔を見れば、活き活きと艶めいていた。年相応と言うより、もっと幼いぐらいのもちもちした肌。
そういえば吉岡さんはこう言っていた。
『自分でも子供っぽいと思うけど、それでも妖精みたいな姿ってちょっと憧れがあったから』
そして彼女の願い。
『妖精になって自由に飛びたい』
目が潰れてしまえば――つまり目が無くなれば、襲われない。
見えなければ問題ない。
それはきっと、見られなければ問題ない、と言い換えられる。
ああ、そういうこと。
鬱蒼とした森の中を這い回って何度も自分を見てくる目。
人の目。視線。
それが彼女から自由を奪っていた。
気にしなかったらいいじゃんと軽はずみに言ってしまいそうになるけど、私だって人の目を気にしている。
本当は誰彼かまわず皮肉を言いたい。別に悪口が言いたいのではなく、ほとんどユーモア(のつもり)だ。だけどそれを許してくれる人が少ないから、我慢している。
どうしても気にしてしまい、我慢する。
彼女はそれから解放されたかった。
断ち切ってしまいたかった。
そういうことなんじゃないかと思う。
あくまで憶測だけど。
バサアと巨大な音を立ててムカデが真下から飛び出した。ドルフィンキックのように身をくねらせて飛び掛かってくる。
「向かって」
短く放たれた命令。視界の端で吉岡さんが剣を構えるのが分かった。
私は石の力を弱めた。
直後、強い羽搏きによって真下へ加速した。顔面から突っ込む――正面衝突である。
瞬く間に接近して、まもなくという瞬間、突如半回転して前後が入れ替わり、ムカデと背中合わせになり。
そして。
すれ違いざまにその目玉を真っ二つに切り裂いた。
まっすぐ縦に振り下ろされた刃は瞳孔をド真ん中で捉え、リンゴに包丁を入れるように真っ二つにしていた。振り抜いて、鎧のような胴体までもを切り裂いていた。
ムカデの背中を滑るように下降することしばらく、適当なところで強く羽搏いて距離を取った。
振り返ると、ムカデはもはや自力で動くことなく落下して、大きな柱を立てて湖に沈んだ。
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