【願いの園】第一章 05
私にとって、家は居場所と言えなかった。
具体的な時期は分からないけど、少なくとも小四ぐらいには両親に歯向かうことを諦めていた。
母さんの好きな言葉は『自分らしく』だった。だから私が文句を言うと「人の生き方を否定するなんて最低」とよく言い返された。父さんも『みんなそれぞれ』と言って母さんを擁護するし、世の中は『自分らしく自由に生きることが正しい』という風潮だったから否定できなかった。
人が傷つくようなことを言ってはいけません。
それは母さんに対しても同じなの?
「多様性って言葉を知ってるかい。どんな人も受け入れる優しい社会が、今の世の中なんだ。確かにお母さんは普通じゃないかもしれない。だけど、誰かの言う〝普通〟に従う必要なんてないんだよ。だからお母さんは否定されるべきじゃないし、だから何も間違っていないんだよ」
父さんはそう言った。
今なら反論できる自信があるけど、当時の私には難しかった。
何を言っても無駄。そのうえ何が母さんにとって文句となるか分からないから話しかけることすら危険な行為で、だから、元々お喋りではなかったけど、家ではほとんど喋らなくなった。
やがて中学生となり、私は漫画の影響もあってバスケ部に入部した。
半年間しっかり向き合った末。
バスケに向いてないと確信した。
運動神経と身長の問題もあったけど、それよりも、大会に向けて頑張る感じや全力で取り組む感じに馴染めなかった。私は頑張ろうと思い立ってもマッチみたいにすぐ燃え尽きる。加えてチームプレイも苦手で、自分が面白いと思った技を延々練習してる方が楽しかった。楽しいことや興味のあることは続けられる。それは頑張るとは違うから。
とはいえ、それでも充分楽しかったから練習には欠かさず参加した。
まあ熱心に取り組んでる人にとって『楽しみたいだけやつ』は疎ましいだけだから、何度冷ややかな目を向けられたか分からない。それでも良かった。それに私と似たタイプのチームメイトがいて、私から声を掛けて友達になった。
居場所。
間違いなくそう言えた。
同時期に通うことになった塾なんかはとても居心地が良くて、最初は嫌々だったけど、だんだんと居場所に思えてきた。何より河西くんがいたし。
私は徐々に家にいる時間が減っていった。
ずっとこのままでいい。
中学二年、一学期の期末テスト。
その文系科目の点数が、中間テストに続いて少し低かった。と言っても塾でちゃんと勉強してるから上位の成績は取っていたのだけど、それでも母さんは満足しなかった。
母さんは教育熱心な人で、得意科目を伸ばすことは大切と考えつつも、公立中学のテストで満点を取るのなんて当たり前というスタンスだった。まして塾に通わせてるんだから金を無駄にするなんて許されない。
加えて、同じクラスに有名進学校を目指している子がいて、その子の成績が満遍なく高かったらしい。私もその高校に行けと言われており、だから引き合いに出してきた訳だ。
ただ、いつもなら「分かった、次は頑張るよ」と言っておけば済む話だった。母親が勉強について厳しいのは幼少期からだったし、私は元々勉強が好きだから。
でも。
「もうバスケを辞めなさい」
そう言われた。
勉強時間を増やすため、と。
「バスケしながらでもちゃんと勉強するから」
私は思わず言っていた。珍しくも反抗していた。
でも、次の言葉に何も言えなくなってしまった。
「だいたい、才能が無いうえにプロを目指してもないんでしょ? 続ける意味ある?」
あったよ。
でも、それを言ったところで何になる。母さんは何も間違ったことを言ってない。間違っていないのに否定的な意見をしても、母さんには通じない。唯一優しかったと思うのは、夏休みが終わるまで猶予をくれたこと。新学期になると同時に退部届を提出した。
あの日から、私の精神は徐々に狂っていった。
集中力の低下、それに伴う学力の低下。比例して母さんの機嫌が悪くなり、私の精神が蝕まれていく。
完全な悪循環。
少しだけ期待したのは比較相手が別のクラスになることだったけど、三年でも同じクラスになってしまい、逃げられないのだと悟った。
こうなってしまえば絶望に沈んでいくしかない。底なし沼に引きずり込まれるように、ずぶずぶと足が沈んで、汚泥に絡めとられていく。
もちろん母さんの機嫌も悪化して、毎日毎日血管が切れそうなほど鬼気迫る表情で怒鳴り、機嫌が特に悪い日は机をバンッと叩いたり物に当たり始めた。本当に血管が切れればいいのにと何度思ったことか。
夏休みに入った頃には、不意に高いところから飛び降りたい衝動に駆られたりした。比喩だと思ってた灰色の視界が現実となって、味覚にも異常が出ていた。
しんどい。生きることがつらい。
それでも人前では平静を装っていた。
心配かけたくなかったから。
その我慢は独り言という形で発散されていた。元々頭の整理をするために独り言が多いんだけど、確実に増えた。内容はドス黒い感情ばかりだったけど。
もうどうにでもなれ。
そんな風に思うようになった八月の末のことだった。
その日は塾が無く、自室で勉強していた。そこへふと父さんがやって来て、私をリビングに連れて行った。カーテンが閉め切られていて、私は恐怖しか感じなかった。
怯える私を父さんはソファに座らせた。そこにあったのは飲み物とポップコーン。
「母さんには内緒だからな」
そう言って、普段は禁止されてるテレビをつけて、ブルーレイを入れた。
それが『天空の島ネシテニ』だった。
父さんがなぜこれを選んだのか今でも不明だけど、元気づけようと思ったことは確からしい。
主人公の二人は様々な困難にぶつかり、乗り越え、追い詰められ、クライマックスでラスボスと対峙する。
そして、奇跡を起こすため、秘密の呪文を唱える。
映画が終わる頃には私はボロボロと涙を流していた。単純には言い表せない感情だった。今まで溜め込んでいたものが堰を切って流れ出すような、埋め込まれていた何かが消え去っていくような、ずっと欲しかったものを手にしたような。
一つ言えるのは、私の視界は彩りを取り戻していた。
そして翌日、幸運が重なった。
塾が終わった夕暮れ、塾の裏にある駐車場から言い争いが聞こえてきた。その声に覚えがあって様子を窺いに行くと、やはり河西くんと彼の父親だった。
建物の陰で立ち止まり、聞き耳を立てる。真剣に訴える河西くんに対し、父親は困惑してばかりで、話が噛み合っていない。とはいえ私が介入するような内容ではなく、これ以上は良くないと思って立ち去ろうとしたとき。
彼は業を煮やしたように鞄を地面に叩きつけて、怒鳴りつけた。
「俺に姉さんを期待されても無理だって、いい加減分かってくれよ!」
お姉ちゃんがいたことにまず驚きつつ、あの河西くんですら親に都合を押し付けられて生きているという事実が衝撃的で。
まして父親も狼狽していた。
「父さんはそんなつもりじゃ……」
「俺は何度も言ってるだろ!」
「でも、だって祷吏は祷吏だよ……? 他の誰でもないじゃないか……」
不安げに、確かめるように、父親は言った。優しそうな顔立ちをして、その口調に棘は感じられない。嘘偽りのない本心に思われた。
だけどそれが河西くんを逆撫でしたんだろう。
「自分を疑えないヤツは一生自己満足に浸ってろ!」
そう言い捨てて、彼は立ち去ろうとした。
父親は慌てて追いかけ、その肩を掴んで止めた。
「ごめん、まだ俺には祷吏の言ってることが分からない。だから、ちゃんと話してほしい。ちゃんと理解できるように努めるから」
それが上っ面ではないことは、声の調子から伝わった。たぶんいい人なんだろう、不器用なだけで。
その後、二人は軽く話し合った後、ひとまず車で帰って行った。河西くんは不満そうなままだったけど、これからちゃんとお話するようだ。
間違いなく、うちではこうはいかない。
だけど、私もちゃんと言おうと思った。どうせこのままじゃ壊れてしまう。だったらいっそ全てをぶち壊すつもりで、母さんに同じことを言ってやろうと。
ただ無策で挑むなんて無謀だ。だからまず、母さんのあのズルい言い回しを乗り越える方法を準備することにした。
そして翌日、河西くんが塾を辞めると先生から伝えられた。とにかく辞めるとだけ言われ、理由は教えてもらえなかったらしい。
酷い喪失感だった。
自分の半分が抉り取られたような。
ショックが抜けきらないまま帰宅すると、リビングで父さんが折檻を受けていた。アニメを見せたことがバレたらしい。時間の無駄と、にべなく切り伏せられ、それから自分の考えの甘さを自覚させるためにボロクソに説教されていたらしい。
そして母さんは、どこから聞きつけたのか、すでに河西くんの情報を得ていて、そのうえで私の成績を突き付けた。
「伸び悩むどころか低下がみられるよね。仲良さそうな子も辞めてるし、塾の質に問題があるんじゃないの? 今すぐ辞めて別の塾にするよ」
なにそれ。
バスケだけじゃなく、ここまで奪うって言うの?
「別に、そのままでもいいんじゃないかな……」
聞こえてるかどうかギリギリといった随分と弱々しい声だったけど、私は言った。言うことができた。そして、母さんの驚いた顔で伝わったのだと確信できた。
「知仍にとっていい環境なのは分かる。でも、感情に流されて非効率的なことを続けるなんて馬鹿げているし金の無駄。学校とか言うなんの役にも立たない場所に時間と金を使わされてるだけでも不愉快なんだから、塾ぐらいちゃんと選ばせて」
唾棄するような返答。
「でも――」
「自由に生きていくには力が必要なの。私はね、知仍の個性を最大限伸ばせるように最適な場所を探してあげてるんだよ。分かるよね?」
「分かるけど……」
「じゃあ言うことを聞いて。もういくつか候補は出してるから」
ほんと正しそうなことばかり。でも、
「違うんだよ、母さん」
ここで言わないと。
河西くんみたいに、私も。
「私、何か間違ったこと言ってる?」
「私ね、塾に居るとき笑ってるんだよ。楽しいんだよ。一番勉強が身に付く場所なんだよ。だから。つまり何が言いたいかって――」
私は母さんを睨みつけて、震える声で言い放った。
「母さんの考え方は間違ってる」
母さんは冷めた目をしていた。犬が吠えるのをうるさそうに見下ろしてるような、徹底的に見下した態度。
「へえ、私の〝考え方〟を否定するんだ。それって生き方を否定してるようなもんだよね。ふーん、それじゃあ私が知仍の生き方を否定してもいいよね。人の嫌がることやっておいて自分がされて文句言うなんておかしいもんね。次の塾は決めておくから」
こういうところだ。
溜まって渦巻いていた黒いドロドロした感情が、噴火のように噴き上がるようだった。
「賢いフリをしたいだけのバカのくせに」
「今、なんて言った?」
怒鳴り声は散々聞いたけど、こんなにドスの利いた声を聞いたのは久しぶりかもしれない。
やはりビビッてしまったけど、ここまで来たらもう勢い任せだった。
「私分かったよ。母さんはプライドを最大限伸ばすことに最適な環境で育ったんだね」
完全に喧嘩腰。
母さんの表情が今までになく引き攣った。
ここからは人に言えないレベルの汚い罵り合いだった。そして我ながら頭が冴え渡っていたと思う、徹底的に母さんを説き伏せてしまった。鬱憤なんて言葉じゃ収まらないおぞましい感情たちを発散するかのごとく攻撃に一切の容赦などせず、論理的な矛盾や法的問題、倫理的な問題を武器にして母さんの意見を粉々に破壊した。そして最後に、
「自分を疑えないヤツは一生自己満足に浸ってろ!」
と、言い渡して、反論の余地も打ち砕いた。
隣で見ていた父さんにはどう映っていただろう、あまりに醜い争いにドン引きどころか、耳を塞ぎたい思いだったと思う。
そして、今になって思う、人の意見を叩き潰すことはあまり賢い行為とは言えない。逃げ場をちらつかせて誘導する方が両者が得して後腐れも少ない。
母さんは、言葉を失い、じりじりと後退りしてソファまで辿り着くと、頭をガシガシと血が出そうなほど掻き毟った。そして、支えが瓦解したように発狂して、暴れた。猛獣の威嚇のような、それでいて悲鳴にも聞こえる咆哮を上げ、机の上のものを薙ぎ払い、カーテンを引き千切り、壁に穴を空け、ソファを引き裂いて、家中を壊していった。
父さんが抑えようとしたけど振り払って、力尽きるまで暴れ続け、最後にはわんわんと子供のように泣き喚いた。
私は殴られなかった。
それなのに、殴られたように頭が痛かった。
私は、私の罪を自覚した。
その日から、私は誰とも話さなくなった。独り言すら言わなかった。夏休みが終わっても学校に行かなかった。
そして残暑が収まってきた九月半ばのこと、なんとなく久しぶりに声を発そうとして、声が出ないことに気づいた。
母さんのことを一生許せる気はしない。今でも思い出して怖くなる。
だけど、私の罪から目を逸らしてはいけない。
そんなことすれば一生このままだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます