【短編】忘れもの
彼は自転車で坂を駆け上がっていた。同じ高校の生徒たちが談笑し下っていく横を、荒い呼吸の立ち漕ぎで逆走していく。背を照らす夕日はまだ健在だが、空は濃い色へ移ろっている。
絶対。なんとしてでも間に合わせる。
彼は回転数を上げた。
少し前。
「おまえさぁ、今日って言ってなかったか?」
大袈裟なほど呆れた顔をされて、彼は顔ごと目を逸らした。錆びたブリキのようなガタつき具合に友達は小さく溜め息。
「そりゃタイミングがあるから無理強いするのもどうかと思うけど、ただでさえズルズル引き延ばしてんだぜ?」
「わ、分かってる」
彼は出来る限り強く言い返したが、蚊の鳴く声だった。車が通っていたら聞き取ることもできなかっただろう。
「ま、今更学校に戻るのも大変だしな。これ以上は言わねえけどよ」
高校は山の上の方にある。バスが出ているが徒歩や自転車も多い。彼は徒歩で、友達は自転車を押していた。
カーブに差し掛かり、合わせて歩道が狭くなる。彼らは一列になった。後ろになった彼はふと、学校の方に振り向いた。
彼女はまだ練習を続けているんだろうか。
「何してるの?」
五月。球技大会の空き時間を水道の前でダベっていたときのことだ、彼女は話しかけてきた。
「なんもしてねーよ。喋ってるだけ」と友達が応じた。
「だれ?」
「同中の友達」
初めまして、と軽く挨拶して。
「ちょうど暇しててさ、私も混ぜてよ」
「って言ってるけど、いいか?」
「全然大丈夫」
そんな出会いだった。
友達の友達――それぐらいの感覚。
それを機に話すようになったが、彼女はクラスも部活も違うため機会なんてあまりない。それに、多くは友達が一緒にいて、だから友達を介しての会話だった。
淡い距離感が続いた。それでも話すのは楽しかった。結構気が合うな、と少しずつだが感じるようになっていた。
やがて十月となり、文化祭。
彼らは彼女のクラスに出向いた。喫茶店で調理担当とのことで、せっかくだから食べに行ってやろうというつもりだ。
「あれ、文化祭クオリティにしては美味くね?」
「確かに」彼も大きく頷いた。「ちょっとびっくりしてる」
「あいつが料理できるって聞いたことないけどな……。違う人が作ったやつだったか?」
「今日に向けて練習したんじゃない? ほら、部活でも頑張り屋だしさ」
文化祭が終わると今度は下旬の中間テストが視野に入る。試験前の一週間は部活を禁じられるため、彼女の提案で三人で勉強することになった。
「珍しいな、おまえから誘うなんて」
「成績いい人がいるからね」
彼女の微笑が彼に向いた。
テストの結果はさておき。
それ以来、二人が顔を合わせる回数が増えた。それは一言二言の会話も含めるが、距離が縮んでいると実感できる程だった。十二月の期末試験でも勉強会が開かれ、妙なそわそわを抱きつつ。
迎えたクリスマスイブ。終業式後の空き教室で、彼女が告白されているところを目撃した。咄嗟に隠れて、ダメだと分かってながらも様子を窺った。
彼女は断っていた。
男子が教室を出ようとしたため慌てて離れ、階段の踊り場まで逃げて、呼吸を整えつつ今の出来事を思い返した。それに安堵している自分がいて。
それでようやく、彼は自分が恋をしていると気づいた。
それから五ヵ月が経つ。道は再び広くなり、彼らは横並びになった。
「い、言おうとしたんだ」
彼が突然大きな声で言ったものだから友達は自転車に躓きかけた。びっくりしたぁ……、と心臓をおさえ、一呼吸。
「告ろうとはしてたんだな」
「うん、一応……。でも踏ん切りがつかなくて、雑談で終わっちゃった……」
「あー、まあ、ビビる気持ちは分かるけどさ」
言うまでもなく大きな勇気が必要になる。ただでさえ二年生で同じクラスになったんだ、失敗した場合の気まずさが頭を過るのも仕方ない。
「でもやっぱり、今日言わないとダメだとも思ってるんだ。ここで逃げたら一生このままな気がするから……」
俯いた表情が影になる。太陽は彼の向こう側だ。
友達は立ち止まった。驚いて彼も立ち止まり、どうしたんだろうと顔を窺う。
「そろそろ学校閉まるな……ここに自転車があるんだけど、どうする?」
おどけたような真面目な表情が夕日に染まっていた。
彼は戸惑いを浮かべてすぐに目を逸らす。でも、改めて友達の表情に向いた。ぐっと拳に力が入る。
「忘れもの――取りに行くよ。これ、借りていいか?」
「おう。行ってこい」
「ありがとう」
生徒がバラバラと出て行く校門を突っ切る。生活指導の怒鳴り声も気にならない。下駄箱の前で急停止。鞄は籠に入れ、逸る気持ちを抑えて鍵をかけ、靴を履き替え階段を駆け上がる。
三階。彼女が普段練習に使っている教室に入った。彼女はちょうど窓際の机で帰り支度を終えたところだった。
「あれ、どうしたの。そんなに息上げて」
掛けられた声に応じられるだけの余裕はなかった。教室を見渡す。……良かった、誰もいない。下校時間ギリギリなのが幸いしたみたいだ。
「忘れものがあって。――いや、言い忘れたことがあるんだ」
彼は息を整えながら歩いていく。服を軽く叩いて皺を伸ばす。
「え、なに?」
純粋な疑問を返す彼女の、手が届く距離で立ち止まる。夕日が眩しくて顔を上げられない。彼女しか見ていられない。
「あのさ、俺――」
今度はちゃんと聞こえるように。
「君のことが好きなんだ」
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