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ブルースマンはもう描けない

絵を描いていると、リアルなものを見て描く時と写真を見て描くときと、“何かが違う”と気づく時がある。

やっぱり写真は所詮、平面で見ているからかリアルなものにはかなわないなぁと思うのだ。
これは僕だけなんかなと思ったりしたが、いやいやそんなことはない。

やっぱりそれはよくある話出そうで、YouTubeなんかでも「できるだけリアルなものを見て描いてくださいね」なんて言っていたりする。


僕にはそれはそうなんだけど、なんでそれがあんまり良くないのかどうかというのは説明できない。
ちょっと何か言えるとしたら、写真を見て何かを描くとすると体を傾けてみようが近くで見ようが、光の当たり具合だったり奥行き感や存在感は変わらないからだ。

この点は「存在感」という言葉がしっくりくるかなと思う。


絵を描くことに関して「存在感」は大きい。そこに実際にあるという存在感はそこに“実際にありますよ”って時だけに感じられる事なのである。だから、写真の画像をうまく絵に描けたところでそれは“写真という紙切れが一枚描けたという存在感に過ぎないわけだ。
このニュアンスがうまく伝わるかはよくわからないのだけど、説明するならこんな感じである。

ということはだ。
もし人を描いたり写真を撮ったりする時には生きた人限定ってことになるな。
いや、ごくごく当たり前な事を話しているし、なんだよそれってなるが、人が亡くなってしまうことに関してそんな視点で考えることは一切なかったから、ちょっとだけ悲しくなったなぁという話である。


もちろんとある人が亡くなってしまうということは、なにものにも例えられないようなどうしようもない悲しさがあるが、その人を失う悲しさもそうなのだけど、その人を通して発する何かもその時点で無くなってしまうということであり、そこでもう歴史や芸術などがパタリと少なくなったり色が薄くなってしまうことだってありうるのだななんて思った。


たとえば、僕は音楽だと古いブルースが好きだったりするが、本物のブルースマンなんて今はもうかなり少なくなってしまっている。
いやいや、でもブルースという音楽のジャンルはあるよと言われるかもしれないが、何かが違うなと思ったりするのだな。

たとえば田中さん家という家に住んでいるのが佐藤さんで、田中さんが昔建てた家で、今はもう田中さんはここには住んでいなくってどこか遠いところにいるんだけど、田中さんはこの家にはなかなか帰ってこられないから佐藤さんが管理しつつ田中さんに送られてくる手紙とか、かかってくる電話とか、尋ねてくる人への対応をしているんだと、そんな感じである。


例えが長くなってしまったが。
つまりブルースマンの絵を描きたいなと思って、実際にアメリカとかに出かけて行くとしても、本物のブルースマンなんてもうほとんど残されていないわけだから、描くのだって無理なわけだ。

しかもブルースマンはミュージシャンだけど貧しかったり、旅鴉だった事もあり写真など残されていない場合が多い。

つまりこれから先にブルースマンをモデルとして描く絵や写真は必然的に作られないということになる。

今生きている人が全てである。

レア感が満載だなと思えばまだ幸せな気持ちになれるけど、言うなればブルースマンはもう絶滅していると思ってみたら、なんとも、もの悲しいかななんて思ったりするのだ。

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二ノ宮金三郎
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