マスクのために、私達はどれだけの犠牲を払ったんだろう
マスクをする事に違和感があるという話。
マスクをするのは正しくないとか、めんどくさいからしたくないという反抗的な話じゃないよというところにだけ釘を刺しておこう。
マスクには効果があるし、理由もなく反抗するのは良くない。
というセリフを載せておく。
やれ2年ほど前にはマスクを配ってみたり「密を避けよう」と言って3つの密だか何だか知らないけど、一生懸命感染対策をしていた活動家達のお声も、なかなかに静かになってきた。
どうやら危機感を感じないと熱心に活動しないんだな。そりゃそうか。
危機感があるということは「人を動かすチャンス」でもある。しかも命が関わっているということで、尚更動かし易かっただろう。だから今こそという行動だったんだろうか。
比較的安全になった今でも密を避ける事とマスクをすることは解除されない。もしかしたら国民の義務がもうひとつ増えたのかってくらいに。
僕はそこんところに違和感を持ってしまって、そこんところの価値をちゃんとしたいなぁって思った。
前回の記事にも書いたが、マスクをしなくても良い時というのは必ずしも存在するはずだ。食事をする時以外にもひとりでいる時や、道を歩いている時、3密からは程遠い状況にある時なんかそうではないだろうか?
なんつーか偉いよね、みんな。
老若男女みんなちゃんとマスクしてんだもんね。
小学生も群れで行動している若者も、おじいさんやおばあさんも、外で暮らしている人だって。
僕なんかぜんぜんだわ。それに比べたらまじで怠け者だし、まじでアンチだろう。こないだなんて電車の中でもマスクを外して乗った。
感染対策に反抗したいわけじゃないが、その効果や時と場合のマスクを外す時の違和感の方が気持ちが悪いと言っているんだな。
付けてる時と外している時のあやふやなこと。それに手の消毒だってやってない人は大勢いる、なんだったらトイレに行った後の手も洗わない人もほんとたくさんいる。
そんなよ。
「じゃあウィルスが撒き散らされたっていいわけ?」
なんていう人がいると思うんだが、いやいや、そんな極端な話をしたいわけじゃないのよ。だし、マスクをしていない人が感染者かどうかも認識できないじゃない。認識できたところでどうするのよ。
撒き散らしたくはないとかそれよりも、どっちかって言ったら「べつに感染したってしゃーないだろ」と思っていると言った方がここでは合っているかもしれん。でも諦めではない。
それももちろん無責任だと言われそうなんだけど、そもそも「マスクをする事に協力してください」とお願いされているわけであって、別に”それに関して協力しません”と言ったってかまわんでしょという話なのだ。だって義務ではないんだもの。
そしたらさ、命が関わってるとか、どこかで誰かが亡くなる可能性が増えてしまうでしょ。なんて言うだろ。
それを言い出したらキリがないと思わんかね。
そんなら聞こうか。
たまに道端で「国境なき医師団」のうんたらかんたらというやつをしている人がいる。募金しているのか何なのかよくわからないけど、あれにも協力するのかい?ユニセフ募金とか、戦争のなんとかかんとかの募金とかするかい?しなくないか?
24時間テレビとかの募金に協力するかい?しなくないか?
そう、だいたいの人が“募金なぞしない”のを僕は知っているよ。
ああいうのってだいたいが“〇〇をひとつ買うお金で救える命があります”なんて言っているじゃない。
違う考え方をして言うなれば「協力しないで放っておけば誰かがどこかでひとり亡くなっている」と言っているようなものなんだよな。
そう、同じことなんだよ。
近くの命は大切で、遠くの命はどうでもいいなんて価値観もどうかしているし、守れる命は手当たり次第に守っていこうという価値観も正義とは限らないんじゃないか?なんならマスクしないでそのお金を募金した方が助かる命があるんじゃないかって思わんのかね。
病気やなんかで亡くなるはずの命をこちらが勝手に救ったがために、助かった人は奴隷として扱き使われる生活をこれから先ずうっと強いられてしまう可能性だってなきにしもあらずなんだと思うんだ。
なぜなら、病気を治せないとかお医者さんに行けないような生活をそもそもしているって状況で、こちらの勝手な親切によってぶちゅっと注射されて生かされ続ける事になるんじゃないかって思うわけよ。
育てる能力も資力もないのに子どもをぽんぽこ作る事にも似てやしないか。
いや、これは勝手すぎる想像でしかないけどもさ。
それに。
小額の寄付やマメな感染対策をするだけで命が救えるというのは簡単に言うけども。
命が救えても”生活は保証する”とは言われていないじゃないのよ。
まさに僕らはそれに困らされたばかりだったんではなかろうかね。
閉めざるおえなくなった飲食店は数知れず、それにより生活は保証されず窮地に追いやられた家庭も数知れず。それらの事で嫌な気持ちにされた人も膨大な数いる。家庭の崩壊を経験したって人もわんさかいると思う。
亡くなる理由は数あれど、コロナの隔離が誰かの最後の別れになってしまったという人だって少なくはないはずだ。
ウィルスを誰かにうつしてしまうことの恐怖について語って脅かして、周りの人を大切にしようというようなセリフを聞いたことはあるけど、じゃあもしもうつしてしまったんだとしたら、それは重大なことなのだろうか?
村八分にされて石を投げられるほど誰かの家庭をねじ曲げるようなことなのだろうか?
そんなことは決してないだろ。
ねじ曲げられたのは全て、マスクだとか3密だとかそれらの隔離対策を守らなきゃいけないという、オープンにされた暗黙のルールを泣きながら守ってきたからなんじゃないだろうか?
僕はそんなの守らなくたって、感染するもんは感染するし、ウィルスも必死こいて増えようと努力しているんだから、それに抵抗する手立ては孤独しかないだろとなんとなく感じていた。
エレベーターの中でおならしたらばれちゃうのだってわかるし、電車の席で隣に来た人がさっきまでタバコ吸ってたかどうかってなんとなくわかるもの。それらのことがわかるなら、自分がウィルスを含んだ空気を吸引してしまう可能性があることなんて想像しなくたってわかるものだろう。マスクをしていたってにおう。
しかしそんなのも、誰のせいにできるはずもないわけで。タバコ吸うなら電車に乗ってはいけませんってことも言えない。
おならやタバコの臭いはなぜにおうのかっていうことも、ちょっと考えりゃわかる。そういうにおい成分がふわふわ飛んでるからなんよな。
(ウィルスとにおい粒子の大きさはさておき)
それが防がれないのであるなら、感染は必然だろうなと思うわけよ。
もし、誰かに何かを言われないためのマスクをしているんだとしたら、それは村八分攻撃を食らう可能性があるんだということ。
僕はそっちの方が違和感があるし、不自然だと言いたい。
ただそれだけのことが言いたいという作文である。
気軽に読んでいただきたいので、ひとつひとつの記事に値段は付ていません。靴磨きや仕事のお手伝いなどを投げ銭でやってみると、様々な方が僕の仕事にいろいろな価値をつけて下さってすごく助かります。僕の記事にもあなたの価値をつけていただけると嬉しいです。