三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜 から、三島氏と芥氏の討論の抜粋と私の意見
上記の内容から、三島由紀夫氏と芥正彦氏の討論の内容を抜粋させていただきます。
私の記事を読んできてくださったあなたなら、もしくは、「現実」とは何か、「真実」とは何か、それを探し求め続けてきたあなたであれば、二人が「何を言っているかがわかる」と思います。
私の記事はけっして読みやすくもないですし、楽しくもないと思いますが、読み進めていただければ、「何を言っているのかがわかる」ようになります。よろしければ、他の記事もお読みいただけると嬉しいです。
それでは抜粋を始めます。
▽下記より抜粋(一部略、また誤字脱字、聞き取りずらく穴埋めした箇所あり、ぜひご自分でも元の内容をご覧ください)
三島「自然という言葉がいくつか単位的に使われているように感じる。
ひとつは和歌山や長野県にある自然。一つは東京にある霞が関や丸ビルという自然。あるいは機動隊の棍棒という自然。そしてあるいは生産行為の場としての自然。ところがモノを通して生産行為の場に到達ししなくてはいけないとすると機動隊の棍棒を通して生産行為の場に立つことも可能なように思える。そうすると機動隊の棍棒に殴られればあのモノの感覚を通して彼らの中にあるところの日本の農村共同体的精神から自然に到達することもできるんじゃありませんか?」
芥「だから自然というものはわからねんだよ、全然」「あなたが使った使い方としてはわかるけど、そう使うことによって本当のことははっきりせんだろう。デマゴコス(大衆扇動者)になってしまうよね」
三島「ああ、なるほど」
「例えばこの机というものは一定の先生が一定の講義をするためにおいてあるが諸君はこれの用途を変更してしまうことができる。バリケードにしてしまうことができる。これは机の生産の元々の用途、目的とは関係がない。それは戦闘目的でつかわれるのですね。
そして物が生産関係から切り離されて戦闘目的のために使われて、そういう物によって諸君は初めて物に目覚める、という時代に生きている。それはなぜか。諸君自体の存在が生産関係から切り離されているからではないですか。そしてそれによって生産関係の根本に労働対象としての自然に到達しようとするんじゃないですか。その動きが諸君のやっている暴力の本源的衝動ではないですか。」
芥「事物と関係づけられていないことでないと、やっぱり曖昧になってきちゃうんじゃないですか」
「大学という形態の中で机は机であるけども大学が壊れたらそれは机でもなんでもないわけで。それは一つの事物ではないですか。そういった事物に対して我々が一方的に関係づけた場合、身の回りのすべてが武器になりうるし何にでもなりうる。その関係の逆転に革命があるのであろう。そのときはじめて空間が生まれるという事ですよね。物書きの場合、文字と机が同じ重さを持って作品創らないと一向にレシ(物語)になったりロマン(小説)になったりしない。三島さんは敗退してしまった、ということになる」
三島「僕はまだ敗退していないぞ」
芥「僕にはそう見える」
(三島は認識と行動の二元論にこだわった。認識ばかりを説くものはうだうだ言っても何も行動しないのではないか。敗戦で生き残ったことからも。芥は三島がそうなっていることを突いた。)
三島「物書きというのは物というものを作品の中につくっていかなければならない。実際は。これが生産とは直接関係ないことは確かだな」
芥「形態の暴力なんですよね。僕があなたに「敗退された」、といったのはそこにあったわけですよ。あなたのとりえた形態が一向に暴力的に僕らに何らしてもらえないということですね。僕らの行為そのものは形態が即内容であり、内容が即形態になる。これは革命でもなくて、一つの表現なんですけどね。ただ空間自体はおそらくそこに歴史の可能性そのものという空間が現出しうる。だからそういうところにきて物書きは何かをおっしゃると僕はとても恥ずかしいような気がするだけですね。まああなたはゲームをデマゴーグスに変えようとしているわけですけど、日本がなければ存在しない人間」
三島「それは僕だ」
芥「ところが僕の祖先は一向に日本の中に見つからんし何処にも見つからん期せずしていたら、僕が異邦人になっていたのではなく周りが異邦人であったわけだからこれですんなり21世紀入ってしまうわけですけどもね我々は」
(略)
三島「解放区というのは一定のものに瞬間的にぶつかったときにその空間に発生するものであると考えていいですか。いいですね。」
「その空間が造られるのか、ゆがめられるのかはわからんが、一定時間持続する」
芥「空間には時間もなければ関係もないわけですから。ゆがめられるとかそういうことはない。だから本来の形がでてきた、というところで彼が自然に戻ったと幼稚な言葉で言ったのではないですか」
三島「それが持続する、しない、というのはそれの本質的問題ではないわけ」
芥「時間がないのだから持続する概念自体おかしいのではないですか」
三島「そうするとそれが3分間だけしか持続しなくてもあるいは一週間、10日間持続してもですねその間本質的な差は次元としては差はないですか」
芥「それは比較すること自体がおかしいのですよ。例えばあなたの作品と現実の何万年を比べろと言ってこれはナンセンスでしょう」
三島「ところがですね、俺の作品は何万年という時間の持続の間にあるものなんだ。空間は意図していないけど時間は意図している。解放区というのは空間を意図するものだからこれがどこで時間とフラッターするものであるかということを聞きたい。
3時間しか持たないとして、革命にとって本質的に、持たなかったのか、持たなくてもいいのか」
芥「僕は革命の首謀者ではないが、出てきた事物に逆にやった連中のほうがやられてしまう、ということですよね」
三島「そうすると解放区がやられたのは事物であって機動隊ではないのか」
芥「そうでしょ?」
三島「事物が解放区を崩壊させた?それは時間と考えてもいいわけだ」
芥「時間じゃなくて現象形態の事物なり空間でしょう」
三島「現象形態の事物なり空間は単なる瞬間的に発生した空間というものをいつも押しつぶす働きしかしないわけか」
芥「それは関係を持ってそこに対処するかですね。文明をもってしたり。自らの存在を持って事物に対処することでおそらく人間の歴史は始まるわけで」
三島「歴史というのは持続でしょう」
芥「持続じゃないでしょう。むしろ。
可能性そのものの空間のことでしょう。おそらく自由そのもの。ところが普通人間というのは自由に直面するとそこで敗退してしまう。そういう文明の習慣が身についてしまったということでしょうね。全共闘のンバリケードにしろなんにしろ歴史の認識の一形態としてですね。狙撃従的な認識ではなく散弾銃による走りながらの認識。サルトル以後の認識の形態だと思う。」
三島「あれは非常に新しい認識の形態だとするとそれにもし、持続という物を加えたいという気はまったくはじめから毛頭ない?そこで意思の介入する余地はないのですか?」
「例えばですね一つのものをつくるとしますね。この煙草を創った瞬間に煙草が消えちまったら、煙草という物は呑めないでしょう。どうしても煙草というのは製造から一定時間をかけて僕の元に来るわけですが煙草をのんでみなさんの前で努めて余裕を見せているわけですが、これがね時間の恩恵を被って生産関係…
芥「むしろ時間が保ちえないからでしょう?煙草を吸うわけでしょう?時間の方に持たれてしまうからこそその照れ隠しでやるのでしょう」
(解放区の当初の目的。堕落して穢れて、人間性がゆがめられ損なわれ、そんなことでいいのだろうか。人間の真実はもっとありありとした原初の形を実現すること。芸術とは本来そういう物ではないか。失敗したから価値がないわけではない。そういった事に価値をおけないのであればあなたは芸術家ですか?)
芥「あなたは全部関係の中で終始してしまう。事物には一向に触れえない。」
三島「それは言葉というものの性質だな。言葉というのは事物には触れえないからこそだね一生懸命行動をやっているわけで、これも事物に触れえないとするとだね」
芥「でもおそらく作品が書けるのなら他に対するデマゴコスを試みる必要もないのでは。作品は自立する空間であるわけだし」
三島「僕は自立する空間だけでは満足しないと言っていますね」
芥「それは開き直りでしょう」
三島「開き直りか」
………
芥「なぜ評論文しか書けないか。なぜ評論的ことしか言えないか。お前がどこにいて何を見ていると言われて君たちはどうこたえるかということ、三島さんもそうだけど。お前何処にいる、といって大学とかいって事物について行われた関係づけが使えない場合、答えようがないのではないかということ。これを机とすらいう事ができない状態で問われるわけだから。ここが900番教室だとかいうこと自体無くなってしまう。そうすると一方的に関係づけられてしまう我々というフェイントをかけておいて、フェイントじゃない奴もいるんだけど、その関係を逆転することだけはわかるわけですよ。バリケードを創る。そこにあらゆる関係づけを解除した空間をつくる。それに対して我々の側がバリケードよりも高みに立って関係づけを行わなければいけないわけでしょう。おそらくこの次から夜場合、街頭ブランキズムみたいなのがたくさんでてきて。おそらくアジテーターやデマゴークスがたくさん生まれる時代が来るのではないかと思いますけど。それには日本のための革命とかいうとまたダメになるんで、その辺再びブランキストでありしかもトルツキストである連中ていうのが出てくるんで。そうすると再び現実との時間、その辺の持続、さっき言った三島さんの問題がでてきて結局虚構形態というのがおそらくまた支配するのではないかとおもうのでね。僕は芝居なんぞちょびちょびやってるんですわ。結局二つにはならないという事。太陽と鉄、というのはけっこうなのですけどね。僕がきん玉のスピリットといったのと同じで価値分配体系がどこにあるのかという事ね、生産剰余があふれてて僕みたいなのが瘋癲してガキまで作って平気で生きているわけで一行に働かなくとも。価値分配体制がいずれ事物に対しても行われなければ人間に対しても行われない。その変でしょうおそらく。太陽と鉄という幼稚な言葉で表したのは。その辺の価値分配体系の根幹それは人間の内的持続ではしょせん無理であるということじゃないですか。我々がいる、事物があった。それに対してイマージをもってするやり方はサルトルでつぶれている。むしろイマージを事物で乗り越えるとき、そこに空間が生まれるわけです。我々はどうしても苦しいから事物にイメージを与えつけるわけですよね。目をつむった世界だけれど。目を見開いたまま事物に対処する。その時訪れる一つの光に対して事物を乗り越えさせる。これが最初の形態のおそらく身の回りのすべてを武器に帰るという事でしょう。コップでもパットみたときこれは使えるか使えないか。これだけで済む。むしろその方がいい。自分の身体がある。これが使えるか使えないかまでそれは向かわなければならない。我々と事物の間にあるのは何かということですけどね僕何にも見えないんで。そこにコップがあるとか体制権力があるとか、なんとか教えてくれる人はいますけど僕にはわからない、ということその辺から僕はもう一度やっていきたいという事ですかね。」
三島「今のは非常に面白い話をうかがったのですが、二つだけ疑問を呈したい。一つは名前というものがない世界。つまり自分が名付けられることがなく、名というものが一つの伝承ですから既に、その名のない世界においていかにして我々は関係づけられるか、関係づけられるという事が可能であるか、これ一つ伺いたい。それから、自分が存在する通りにそれを利用する。つまり利用するという事の中に目的論的見地がどうして入ってこないで利用という事があり得るか。我々は匙の形をみるとき、その匙は物を口に運ための目的論的な道具である。目的論をなしにして利用というものがありえるか。この二つの問題をききたい。」
芥「最初の、関係づける必要があるかないか、これはもちろん関係づけられなくても構わないわけですよね。人によっては。」
三島「あなたがね名前がないのにどうして関係づけられて、組み込まれてしまうか、それを克服しなきゃいかんか」
芥「それは文明という歩行器を頼りすぎるからでしょう。結局トルツキーがやられたのも文明の信じすぎた罪ですからね。」
(名前なしにしてシステムを構築することはできず社会を持続できない。)
芥(現在)(解放区というのは時間に対しての解放でもある。一つしかない時間を持ってくる奴が一番危険。歴史だけでなく権力という時間。自分の正しさ以外認めないだろう?そんな時間で理不尽に支配されることに喜びを感じられるなんて三島ぐらいだろ?))
三島「天皇親政と直接民主主義 ほとんど政治概念上の区別がない
共通要素 国民の意思が中間的権力構造(媒介物)を経ないで直結するということを夢見ている。この夢見ていることは一度もかなえられなかったから戦前のクーデターはすべて失敗した。戦前には天皇というねじがついていた。現在は人々がつけてもしょうがないと思っている。現在の天皇は三島の考える天皇ではないからこそ。自身の考える天皇になっていただきたい。もし天皇がたらふく食っているような堂々たるブルジョアだったなら革命というのはもっと容易であっただろう。だからこそ革命というのは難しい。その難しさの中で戦っている。それが日本の民衆の底辺にあるもの。それをキャッチしなければならない。」
(現在の芥氏による解説)
「三島の言う天皇は絶対権力のこと」
「日本社会全体の救済概念」
「日本の文化伝統が集約されたもの」
「日本人を突き動かす無意識的エネルギーの源泉」
それを天皇と三島は呼んだ
(略)
三島 「人間的天皇とは統治的天皇、権力形態としての天皇」
昔ながらの、神としての天皇を再現したい
芥「そこに自己を一体化させたいということに美を見出すわけ」
三島「ああ、そうです」
芥「それは単なるオナニズムだし、事物に対して何らなすすべないわけですわ」
「あなたは日本人であるという限界を超えることができなくなってしまう」
三島「できなくていいんだよ。ぼくは日本人であって、日本人として生まれ、日本人として死ぬ、それでいいんだよ。その限界を抜けたいと全然僕は思わない。だからあんたから見ればそれは可哀そうだとも思うだろうが」
芥「非常にそれは思います」
芥「しかし、日本、日本人というのはどこにその事物としてあるのですか」
三島「事物としてはね。外国に行けばそれはわかりますよ。英語をしゃべっているとね自分が日本人じゃないような気がしてくるんですよ。しかし、道を歩いているとショーウィンドウに姿が映ると、この通り胴長でね、鼻もそう高くないし、日本人が歩いている、誰だろう、と思うとてめぇなんだな」
芥「人間すら事物にまでいかない限りそれは無理ですよ」
三島「ああ、国籍を脱却することは?」
芥「脱却というよりも初めから国籍はないのであって」
三島「あなた国籍はないわけだろ?あなたは自由人として尊敬する。それでいいよね。だけども僕は国籍を持って日本人であることを自分ではのけられない。これは自分の宿命であると信じている。」
芥「それは意思との関係づけとしてやられているわけですよね。とうぜん歴史にもやられちゃうわけだし。」
三島「むしろそういうことに喜びを感じる」
芥「幻想の中で?」
三島「幻想の中で」
芥「だからこそ人殺しになったときから動き出すということでしょう?」
三島「そういうわけだ」
芥「動くか動かないかはわからないけど」
三島「それはわからないけどね。そういうような精神構造になってしまっているんだね」
△ここまで
上記の記事で触れた通り、今現在「ここ」は「現実」となっています。
「現実」においても、洞窟内のA→B→C→Dは完全に崩壊し、
ありとあらゆるのがあなたを攻撃する武器となるのです。
特定の店の、特定の品物の買い占めや、漫画雑誌のキャラクター人気ランキングは「有事下」に向けた潜伏者たちの「演習」になるし、
掃除機や、電子レンジ、パソコンやスマートフォン、ヒーター、冷蔵庫に自動車。
それらは「爆弾」になる。
そのような世界ですから、私たちもありとあるゆる「事物」に「道」を見出していく必要性が生じているのです。
そして、ありとあらゆるものを「私」の「保存媒体」として自身の個性を未来に「継承」していく必要性があるのです。
インターネットも一つの手ではあるでしょうが、やはり最低限紙での保存、つまり、日記をオススメします。もちろん、他の方法でも構いません。
しかし、なんだかんだ言っても一番の保存媒体は「他者」となるでしょう。誰かの中に「私」を住まわせてもらうのです。
天皇陛下や国に、自身を同一化する必要性を正直なところ、私には感じられませんが、しかし、「同族意識」というものは、実は非常に重要なものなのです。もちろん同族以外の他者を保存媒体としてもいいのですが、同族に対しては特に強く保存されるものなのです。
考えてもみてください。あなたがもし、「最後の人生の舞台」を「ここ」として選んで生まれてきていたとしたら、その民族として生まれてくることを選んできているのだとしたら、その民族として育つことで、言い方は悪いですが、「植え付けられる民族意識(共同主観・社会性)」も自身に必要なものとして、選んできているかもしれない、と思いませんか?
今現在で言えば、「洗脳」だとか、「お花畑」だとか、「盲目の羊」だとか言われても、その中に生まれてきたことには意味があるのではないか、
これくらい言えるとカッコイイと思いませんか?
何がいいたいのか。
自身がその身で生まれてきた意味を見出し、それを育む過程を、「洗脳」だとか、「お花畑」だとか、「盲目の羊」だとか、他者否定に使いやすい「一括りにできるワード、標語、スローガン」で押しつぶすのはおかしくないか?ということなのです。
そういった言葉に流されないようにしていただきたい、ということです。
「私」を未来に継承するのです。
「誰か」を「私」に継承して生きていくのです。
そして最後には、空っぽになった箱たちに「私」や「誰か」を組み込むのです。
今年はどうもありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
良いお年を。