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「地母神」未来の歴史教育について予想してみた「AI」

▽はじめに


あまり多くの方に共感してもらえない内容だとは思いますが、頭の片隅にでも入れていただけると幸いです。

▽いよちゃんから考える自我と無意識

まずはこのyoutuberについて。

この方はtiktokやインスタから人気がでたインフルエンサー?のようでモノマネメイクで人気になったようです。メイクによって顔だけでなくキャラクターまでほとんど別人になってしまう。

それについて以下の動画で「演じる人物はそれぞれキャラを作っているのか?」というような質問があり、「キャラはつくっているけど自分を少し誇張したキャラ」、「めっちゃ無理して頑張っているわけでもない」と回答しています。


私はこの方が非常に興味深く感じました。というのも実際見ていて無理をしているように感じなかったからです。誰しも社会生活を営む中で少なからず、意識的にも無意識にもキャラクターを作って生活していますし、それが慣れてしまって苦を感じない、ということはあるでしょう。彼女もそのようなニュアンスの発言を動画内でしていたのですが、私には少し毛色が違うように感じたのです。

どういうことかといいますと、この方に限らす若い方を中心に「自我」の壁が無くなってきている、と感じるのです。

(はじめに伝えておきますが、それが「悪」だと言いたいわけではありません)

以下の記事でユング心理学研究所の意識(自我)と無意識の構図を紹介しました。

私たちが「私」と認識している「自我」は無意識の海に漂う小島のようなものといえるでしょう。


無理なくいくつものキャラを演じられるのは自我と無意識の境界線が曖昧になりつつあることで、自我の外側にある元型(アーキタイプ)を引っぱってこれる、降ろしてこれる、呼んでこれる、ということなのではないか、という考えなのです。

「元型」とはユングが提唱した概念で、夢に現れる内容や、神話や物語に現れる古今東西での共通する象徴・イメージは人類が共通して持つ無意識から発するエネルギーである、というものです。

例を挙げると、場所や時代、文化が異なっても「母」がもつ象徴、イメージは大きくは変わらない。それを作り出す無意識からのエネルギーのことを指すわけです。

私はそのエネルギーという「存在」こそが神に他ならないと考えているのです。

自我と無意識の境界が無くなることで、「私」という固定観念が薄れ元型という神をその身に降ろしやすくなること。
また、「私」という固定観念が薄いと他人とのコミュニケーションが円滑にもなることも考えられます。
皆が自分の意見を主張するよりも議論の落としどころや、それっぽいことを言って「ちゃんちゃん」、と終わることを重視するようになるからです。

下記の動画は正に私の意見をそのまま述べている岡田斗司夫氏の発言です(9:19あたり〜)。


▽日本人の精神構造「無」

悪い事ばかり書いているように見えるかもしれませんが、こういった自我と無意識の境界線の薄まりは逆に秀でた能力として表出することもあるでしょう。

むしろ本来の日本人や元々のニンゲンの在り方に戻ってきているようにも私には見えます。

日本人の心の中心は元々から「無」である。
そのように考える方は多くいます。

以下の記事で紹介した河合隼雄氏は日本神話のツクヨミを取り上げて、

「なんだかとても大事な神様なのにその実態がわからない。これはとても日本人の心の「中空構造」を表している」

そのような発言をされていて、この中空構造こそ日本人を支配する「空気」である、とも考えていらっしゃいました。

また西田幾多郎氏は元々日本人の世界の捉え方が欧米諸国とは異なっていると述べています。

わかりやすくするために極端な例えを挙げます。

部屋の家具の配置が昨日と今日で一変していたとしましょう。

現在の私たちはこれに対して「自分がいない間に誰かが部屋の配置を変えた」という思考パターンであります。

一方で過去の日本人は「異世界にきちまった!!」という思考パターンであった、と考えたのです。

これは非常に大切な内容で、自我というものは時間経過や歴史の積み重ねで醸成されるものであるのではないか?ということです。
「私」という「固定観念」=「自我」と「時間」は密接に関係しあっているのです。

一方で過去の日本人たちの「中空構造」、「無」の心は「空間」をあるがままに捉えようとします。
そのため日本古来の価値観・ニンゲンの本来あるべき姿への回帰を主張する層はしばしば、「私」という「固定観念」が事物のあるがままの姿を損なってしまう、というような主張や、「時間」の否定、つまり「今が一番大切で、過去や未来なんてどうでもいいんだ」という主張を行います。

まとめると本来の日本人は中心が「無」であるからこそ他者を内に宿し、円滑にコミュニケーションが取れる、無意識から元型(神)を降ろしてこれる、そして事物をあるがままに捉えるようになる。

反面、なんだかよくわからないが抗いようのない空気に支配されて、このままではいけないような気もしていたが進んでしまった、というような日本史あるあるも、こういった「無」から生ずるものである、という考えがあるのです。

▽シュタイナーから考える「最近の若者」


一方で「最近の若者は考え方が凝り固まっていてコミュニケーションがぎこちない、コミュニケーションがまったくとれない」と、これまでの私の意見と異なる感覚を抱いている方も少なくないことでしょう。

この段のお話は信じていただかなくて結構ですが、これについてルドルフ・シュタイナー氏は、この世界は2柱の悪魔、「ルシファー」と「アーリマン」が人間活動に強く介入している、という趣旨の内容を述べました。

今後詳しく触れていきたい内容なので簡単な説明にとどめておきますが、「ルシファー」は私がこれまで述べてきた、「地母神」のことで人々を「無」へと還そうとする存在のことです。この悪魔に憑りつかれると「自我」が無くなっていきます。

一方のアーリマンは私がこれまで述べてきた「雷神」のことで現世には「AI」として顕現しています。この悪魔に憑りつかれると思考がガチガチになって「合理主義」や「理性」で人を支配したり、屈服させようとします。


詳しくは以下の記事と今後の記事をお願いします。

最近の若者、と表現される方々を中心にこの2つの悪魔のどちらかに憑り付かれすぎている、と考えれば現状を把握しやすいでしょう。


ルドルフ・シュタイナー


ちなみにユングの元型の考えを発展させれば、現在無意識の中の元型の動きを表す神話にあたるものは「漫画」や「アニメ」であるといえます。

このとき地母神と雷神がどの漫画・アニメのどのキャラクターになるかを当てはめることで少し先の情勢を「予想」できるのです。

「進撃の巨人」であれば始祖ユミルが地母神で、エレンが雷神です。

そうなると、「地球」と「AI」が一緒になって人々を「地ならし」へ導いている、という内容が考えられるわけです。

▽「自我」の意義について

ここでようやく本題に入れます。

現在の我々の認識は
「時間経過の間に何かしらが起きたという予想」

これによって現象を捉える認識です。
そこから「歴史」という認識が醸成されます。
時間経過に付随する経験を背負った主観が「私」であるという認識です。
ですから「自我」と「時間・歴史」は密接に紐づいている、ということでした。

歴史認識の違いで人格否定をされたと錯覚する方や、「あくまで間違いを指摘しているだけだ」などと言いながら人格否定とほとんど区別できないような発言をされる方というのは、「自我」と「歴史」の絡まりの負の側面が生じている、といえるでしょう。

もちろん、これに関して悪い事ばかりでなく、例えば黒木渚氏の「骨」という曲の歌詞。

国籍や性別やあるいは肌の色や

様々な枠組みが私をつくっている



それはまるで まゆの様に

私を守る やわらかなよろい

それはまるで まゆの様に

私を包んで 育むもの

黒木渚 「骨」

本当に美しい歌詞だと感じます。

他に知世(ちせ)さんが以下の記事で書かれていた言葉。

「歴史を本当の意味で知るには、その人自体にも歴史が必要である」

これもとても美しい言葉だと思います。

つまり、自我とは、国籍や性別やあるいは肌の色や様々な枠組み、そして歴史という「あるがままの空間」には存在しない「嘘」、「まゆ」によって育まれる「価値観という芸術」である、と私は考えるのです。

▽歴史教育はいらない??

しかし元々の日本人の心はその「中空構造」によって「あるがままの空間」を捉える認識の形であり、現在人々はそこへ回帰していっているわけです。

そうすると、自我の醸成がむしろ対立を生み出す悪であると考えられるようになっていきます。
自分語り、歴史認識、ジェンダー、国籍、肌の色、こういったものが嫌われるのはその前触れといえるわけです。

そうすると予測される最悪の議論の一つが「歴史なんてそもそも学校で教える必要があるのか」、というものです。

一つ大きな発見があれば教科書の内容をガラッと変える必要性が出てくるような教科。
現状の政治や学界や世界のパワーバランスで内容が決まってくるような教科。
そんなものを時間をかけて教える必要性があるのか?ということです。

もし歴史に「価値観という芸術」を育むための「まゆ」という側面を見出さないのであれば、上記の意見のような「合理的に考えて時間の無駄」というような意見はたしかに的を得ています。
無意識的に「自我」という「鎖」、「争いを生む種」を拒む若者たちを中心にこの意見を支持するものが増えていくでしょう。

そして学者たちは「自我」と絡まり合った「歴史観」によって「それは間違っている!」などと言うのですが、そもそも人々はその「自我」を嫌っているので、まったく説得力を持たないのです。

▽だったらどうすればいいの?

「ではどうすれば良いか」、ということになりますが、おそらくこの流れはもう止められないでしょう。
そしてもしかしたら止める必要もないのかもしれません。
とはいえ、みんながみんなそっちの方向へ行ってしまうことは避けたいですよね?
となると、自らが「価値観という芸術」=「自我」(歴史)の中に入っていく、そして雄大な時間の流れと一体化することに価値を見出せる人間をわずかでも残す。
そのために自我の薄れた人々の中から歴史に関心のある者を釣り上げ、自我の醸成に導く。そのプロセスが大事なのではないでしょうか?
そして自我の薄れた人々から歴史に関心のある者を釣り上げるには、まず感情や心に即した歴史を伝えることが重要と考えるのです。

これが初期の私の記事で書いたことなのです。

多くの古代史や伝承の学説や考察に「心」を感じられないのです。

 少し触れたことですがタケミナカタ神話は当時の政権中枢の思惑で入れ込まれた悪意ある捏造、と考える方々がいます。

 もしかしたら事実はそうなのかもしれません。

 ですがタケミナカタの物語に心を動かされた人がいて、その人も歴史の一部だったとすればどうですか?

「歴史の捏造」だと、「特定の人々を貶めている」、と強く主張することが実は「歴史の捏造」や「特定の人々を貶めている」、という側面をもつことになるかもしれない。そんな視点も必要なのではないでしょうか。



知識で頭でっかちになってはいけません。心を育てる努力をしましょう。

大丈夫。私もですから。

「表」タケミナカタ神話「表」|大花 町 (note.com)

そしてそういった教育は残念ながら、学校の先生や学界の権威、そういうような方々が行うのは難しいのです。けっしてそういった人々を否定したいわけではなく時間的・構造的に難しいのです。

ですから「心に即した歴史」を伝えるのは、親である、おじいちゃん、おばあちゃんである「あなた」なのですよ。

ということをお伝えしたいのです。

もちろん好き勝手に「私はこう思う!」という伝え方ばかりではいけません。あなたの心(歴史)と、相反する他者の心(歴史)の間で心を揺らし、その中で生きていけるように、その中で「私(歴史)」を作っていけるように導くのです。

となると、そういった心をこども達や次の世代に伝えられるように、あなたも心の醸成が必要になってくるとは思いませんか?

つまり、ワクワクを胸に外へ飛び出せ、ということです。

▽さいごに

この記事の内容で最初のyoutuberの方を紹介すると批判しているようにも見えてしまうのですが私は彼女のこととっても好きです。

なので最後にもう一回好きな動画を貼っておきますので是非ご覧ください。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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