「はじめにロゴスが居た」生きていく力について:導入「すいそう」
⚡はじめに:雷(神鳴り・スパーク)について「水草」
少年はうつむきながら歩く。
何か大きな「力」が少年の心を地に強く押し付けていた。
少年はいつも何かが悲しくて、
悲しくて、
悲しくて、悲しくて
悲しくて、悲しくて、悲しくて、
次第に「悲しみ」を知覚する私を「善」として、そうでない「凡て」を「悪」としました。
「凡て」は人間ではなく、
肉の塊であり、
水の器であり、
大きなものに動かされて、
張り付いたツラと、
それでも人間と錯覚している傲慢な「ナニカ」でした。
(たとえばあの老婦人は、戦争から帰ってきた「指」を後生大事に「息子」としているが、
それなら残っている子どもたちもバラバラにしてしまえばいい。
そうすれば家族が増えて楽しそうじゃないか)
少年はうつむきながら、いつもそんなことを考えていました。
ある日のこと。
少年は坂道を歩く。両脇には墓石がずらっと並んでいた。
墓地を抜けると鬱蒼とした森が見えてくる。
森に差し掛かる瞬間に、
天から少年の中めがけて雷のような衝撃が落とされたのでした。
少年の中の「世界は悲しみである」という「こだわり(既成概念)」、が一瞬で瓦解し、視界がどこまでも広がっていく。
世界に色がのせられていく。
地に押し付けていた力から解き放たれて、心が、身体が軽くなる。
押し付けていたその力はむしろ、「変わっていけるという核心」と、「生きたいと欲する力」へと変容したのでした。
私はあのときの「雷(神鳴り)」と、それによって生じた「世界の広さ」、「内側から湧き上がる力」のことを今でも忘れることができない
⚡ロゴス「力」について(ヨハネの福音書とゲーテ)「吹奏」
「アルケーとしてロゴスが居た。
そしてロゴスは神と共に居て、そしてロゴスは神であった。
アルケーに居たロゴスは神と共に居た。
すべてはロゴスを通して映(い)るようになった。
そしてロゴスなしで映るようになったものは何一つなかった」
ギリシャ哲学は「アルケー(万物の根源・はじまり)」である「ロゴス」とは何か、その問いを探求し続ける旅であり、またその延長線上にある西洋哲学、近代科学も同様に「ロゴス」の解を求めるためのものであるといえるでしょう。
多くの啓蒙主義者に強い影響を与えた、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。
彼は自身の手がけた詩劇「ファウスト」の中に、ヨハネの福音書の冒頭部分の翻訳シーン、即ち「ロゴス」とは何かの4つの世界層を人々に提示したのです。
やはり、はじめは「言葉(Wort)」を、
次に「意思(Sinn)」を、
次に「力(Kraft)」、
最後に「業(わざ、Tat)」を
一つの解釈とは一つの世界層のことであり、人間の精神構造は大きく分けて4つの領域が存在することで全体としては安定するのです。
ロゴスに関してはかなり主根に近い部分であるのでそこから伸びる様々な節(説)により世界が多岐に広がっています。
私の記事をいくつか見てくれたあなたであれば、所々目につく単語があったはずです。
その単語の「力」に気が付くことによって広がる世界があること。
その世界だけでも一個人が一生を懸けても歩き尽くせない「広大さ」を持っているということ。
そしてそのような広大な世界がいくつもいくつも存在しているということ。
ゲーテはそれらすらもまとめあげ、上記の「力」ですらも含めて、四つに区分して巡らせることで世界層を重ねあげたのです。
ロゴス ( 言葉、 意思、 力、 業 )
ロゴス「言葉」についてはこれまでの記事でも少しだけ触れてきましたが、私がお伝えするまでもなく、この先広がるべき方には広がっていく世界であるので、深くお伝えすることはしません。
ロゴス「意思」を神とする世界については、私の好みではないため、やはりお伝えすることはしません。
ロゴス「業」に関しては、私の力量で表現できる域を超えている世界なのでお伝えすることができません。
そうすると、やはり私からあなたにお届けできるのはロゴス「力」のみであるでしょう。
私はこの「力」のことを「ミシャグジ」と呼んでいます。
ここで主題の方は終りにさせていただきます。次回に続きます。
「吹奏」
💧おまけ:万物の根源は水「水槽」
本題からは外れますが、おまけとしてロゴスについてもう少し記述させてください。
ロゴス、つまり真理の探究の原点を、現在残されている歴史の中から探ろうとしたとき「タレス」という人物に行き着くことでしょう。
タレスは万物の根源を「水」であると考えました。
それは物語においてのみではありません。
たとえば、
〜分でわかる〜、だとか
〜でもわかる〜、だとか
そういったコンテンツが世には溢れていますが、そんなのでわかるほど世界が狭いわけがないでしょう?
多くの人々はそれは概要に過ぎない(実際は概要にもなってないのだが)、とわかっているつもりでいながらも納得できてそこで考えるのを止める。
それは世界のあらゆるものは納得できるものしか存在しないという錯覚を生み出し、結果として意識・理性によって世界は理解可能としてしまう。理性の支配下に世界を置きたがる「人間中心主義」というもののことなのです。
そういった傲慢さという点では「科学」も「物語」とさして変わらない、ということです。
実のところ「合理主義」とはそういうものであること。
それに対してタレスは自我(意識・理性)では「一生を費やしてもわからないもの」である世界を「水」と表現したのです。
私がこれまで無意識領域を「海」と表現してきたことにも繋がるのです。
タレスの「万物の根源は水」という言葉は、世界は合理性・理性では解釈しきることができないということを知覚できる「直観」と、それでも世界を理解しようとすることを諦めない気高さ、そして最後にはカタチなき「水」に世界を帰結させる点で、まさに哲学のアルケー(はじまり)であり、同時にここで終わりが示されているのです。
だから、そもそも当時、政治や測量の分野での功績によって七賢人に数えられていた実業家としてのタレスをアリストテレスは「最初の哲学者」に位置づけたのです。
この世界は「水槽」なのです。
💧最後に:今後の記事について「水葬」
蛇足になるかもしれませんが、今後の記事について少し書かせてください。
今後書いていく「力」についての内容は、かなり気を遣って書かねばならない内容であると感じています。
「カオス」について触れていくからです。
下手に悪い影響に繋がらないように、言葉を選びながら書いていくことになるでしょうし、参考文献とそこからの引用も多くなり、おそらくこれまでの私の記事とは質感や温度感が異なってくるでしょう
それでももしお付き合いしていただけるなら嬉しいです。
あまり暗い記事にはならないようにしていこうと思います。
「内側から湧き上がる力」は陽の光を求めて芽吹くものなのですから。
力そのものには「善」も「悪」もなく、ただ人の解釈が映されるだけなのですから。
この記事は過去の私への「水葬」です。
いつも見てくださるみなさん、
たま見てくださるみなさん、
はじめて見てくださったみなさん、
いつも本当にありがとうございます。
よければこれからもよろしくお願いします。