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生きていく力について3.5:前回の記事の補足、思考機能の使い方「蛇足かも」
はじめての試みですが、前回の記事の補足を行ってみようと思います。
というのも、前回の記事の冒頭。
そこで「言葉」が全てを説明しきれなくなり、「欲動」が人々に干渉するようになった経緯の概要をお伝えしました。
ただ、おそらくこの冒頭の時点で多くの人が先に読み進めることをやめてしまっているように思えます。
もちろん、私自身の力量不足もあるでしょうし、あまりにも普通や一般常識の感覚からはズレている内容であるので、それは仕方ないことだとも思います。
なので今回蛇足になるかもしれませんが、こういった「異界」の情報にどういったスタンスで触れれば良いかについて、つまり「思考」機能について、触れていこうと思います。
よろしくお願いします。
まずは問題の前回の記事の冒頭をそのまま引用します。
前回の記事▼
引用下記から。
遥か太古の昔、言葉はまだコミュニケーションのツールではなく、傷を癒したり、物を浮かせるためのものでした。
やがて言葉が意思伝達のために使われていきますが、その頃の言葉はあらゆる意味や概念を、漏れや差異なく完全に、適切に表しており、よって人々の間にすれ違いや、勘違い、嘘といった具合のものは存在しませんでした。
しかし、そのような完全に説明可能な、すべてが満ち足りた世界では人々の「生きていく力」は衰退し、滅びに向かってしまうのです。故に、いわゆる「バベルの塔」と表現されるような、言葉の完全性の崩壊が生じました。
もしくは
これまで何度か記してきたように、「概念」であったり、「意味」であったりというものは、ユング派の言うところの「普遍的無意識」に「居る」、「存在」である、「元型(アーキタイプ)」や「異形の者たち」の「かけら」であるのです。
つまり、それらは言葉が完全性を保っていた時代は適切にこの世界に表現されてきていたものたちだが、そこから言葉が全ての意味を説明できなくなった、「言葉にならない」が生まれたことで、普遍的無意識領域にいる存在達はこちら側の世界に簡単には現れることができなくなってしまったのです。故に「存在」たちは、「ニンゲン」という「装置」に自らを表現・体現してもらおうと「欲動」としてニンゲンの内側に生じるのです。
上記の内容には別の領域の話や、私個人の解釈も含まれてはいるので、気になった方はぜひ調べてみていただきたいところではありますが、こういった考え方を「小文字の他者(対象a)」と呼びます。
引用ここまで。
先に述べたように上記の内容は、「普通」であったり、「一般的」な感覚では違和感を覚える内容でしょう。
そして、「感情」、「直観」、「感覚」の機能を使い、
「好き・嫌い」「常識・妄想」「正・誤」「楽しい・つまらない」「善・悪」「合理的・非合理的」といった判断であったり、
「科学」「宗教」「オカルト」「常識」「非常識」などのカテゴリー分けを瞬時に行い、「自分に関係ある」「自分には関係ない」とするのです。
前提として、私の記事では「普通」や「一般」、「常識」、「表」、「秩序」「善」などの普段から聞き馴染みのある、見覚えのある、知己の情報で構築された仮想世界を便宜上「こちら」としています。
それに対して、世界は広いのですから、知らない情報の方が多いのは当たり前で、知己の情報がない世界である、「ホントウ」の世界・「境界」や「異界」を「あちら(裏)」としています。
何が言いたいのか。
つまり、前回の記事から引用したような「あちら」からの情報が目の前に提示された際に、心乱されて、もしくは心躍って、瞬時に「善悪」、「正誤」の判断をくだして、目をそらしたり、反対に踊らされるのではなく、「こちら」と「あちら」を繋ぐ「扉」と「鍵」を探していただきたいのです。
上記の内容の場合、扉は「認知革命」です。
虚構とは、伝説や神々のようにサピエンス自らがつくりだした架空の事物のこと。認知革命によって私たちは驚くほど柔軟な言語を手に入れ、想像上の概念や物語(虚構)を語れるようになった
その「扉」はここに隠してありました。
遥か太古の昔、言葉はまだコミュニケーションのツールではなく、傷を癒したり、物を浮かせるためのものでした。
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では「鍵」は何か、ということですが、「サピエンス全史」にも記述はありますが、以下の書籍にも記されている内容で、
以下の記事にも隠してありました。
そして現生人類の多くは、別のニンゲン種であるネアンデルタール人の遺伝子を数%保持していること、これは分岐前の遺伝子を保持しているということではなく、交雑によってであることも判明しているのです。
さらにはネアンデルタール人に限らず、デニソワ人との共生の痕跡も判明しているのです。
これらの「扉」と「鍵」によって、「こちら」と「あちら」が繋がる、「一考の余地」が生まれませんか。
その上で、やはり私は嘘だとも真実だとも言いませんし、「進むか・戻るか」はあなた次第です。
私が言いたいことは、
脊髄反射的に自身に起こる、「こちら(バイアス)」を揺るがす情報に対する「即決の切り捨て」に抗って、時間がかかってでも「扉」と「鍵」を探そうとする、
これはとても美しい「思考」機能の使い方だと思う、ということです。
とても人間らしい「思考」の使い方だと思います。
そういった「扉」と「鍵」を探す習慣をつけてくれる人が一人でも増えると嬉しいのです。
けれどこれは、特に現代日本人には難しいことではあるのです。
ここでお伝えしておきたいのは日本人にとって「恥」というものは単なる気の持ちようではなく、遺伝子で刻まれている避けようのない宿命といえるものである、ということです。
この遺伝子を「恐怖遺伝子」と呼びます。
今の人々は「こちら」を守るための勉強をする人ばかりなのです。
自分のテリトリーを守る鎧としての勉強、
自分のテリトリーを犯す人間を攻撃するための勉強、
自分の自我存在を保持するための勉強
その心の在りようは正しかろうが間違っていようが、
「醜い」と私には「視える」のです。
それが私が時に荒々しく述べてきた内容なのです。
あなたは何のために勉強をしていますか?
私にとって勉強の意義は固定観念から解放されることです。
そうしたら、曇りなき眼で相手を判断できるでしょう?
固定観念を強固にするための勉強だとしたら、
なおかつそれが差別に繋がるのなら、
勉強なんてしない方がマシなのかもしれませんね。
「~大学の~教授がこう言っている」
だとか
「~神の第~第目~が伝承を公開した」
とか
「youtyubeで登録者数何十万人の~がこう言っている」
だとか。
(中略)
真実(ここでは外的ホントウのこと)なんてどうでもいいのです。
(中略)
何度か言ってきたことですが、提示されたものをそのまま受け取って、そのまま口にするだけならAIの方が優秀なんです。
真実はAIが導き出してくれます。
だけど、あなただけのものはあなたしか見つけ出せないのです。
例えばあなたが最近政治に興味を持ったとしましょう。少しチャレンジして難しめな本をあまり理解できていないながら読んだとします。
あなたは苦労して読み終えたその本の内容を頼りに次の知識を得ようとします。このときあなたは苦労して読んだ分、その本に書かれていた内容にしがみつきたくなります。その本と相反する内容を否定したくなります。
でも、冷静に考えてみてください。あなたはまだ本を一冊読んだだけじゃないですか。
百冊読もうが、千冊読もうが、一万冊読もうが、
政治家の知り合いを作ろうが、自分が政治家になってみようが、
あなたはまだそれだけではないですか。
何が分かるというのですか?
どこまでいっても人は誰か(の存在)を否定できるほど偉くなどなれませんよ。
社会で生きていく上で否定するスタンスをとらないといけない時があるだけです。
そういったことを理解するには善悪を何度も回転させる必要があるのです。
一つの考えにしがみついていてはいけません。
たとえ間違っていても、その人なりの調査で見つけた答えであることは確かだろう?
間違った答えすら見つけ出せない者が権威や利益、これまで叩き込まれたものを使用して主張者を攻撃するのであれば、主張同士の正否の位置が変わっただけで、人々は何も変わっていなかったといえる。
存在を保持するのに何かに縋らなくてはならない、
そして縋っていることに気がつけないで他者を攻撃する、
そのような醜さをイデオロギーをとっかえひっかえして隠し続けてきた。
それだけが人の歴史だとしたら・・・。
そもそも「啓蒙」は一部の聖職者や王族のような特権階級たちだけが聖書の内容を見ることができる状況が、都合の良い解釈や、自分たちの利益のために、書かれてもない内容をでっちあげて人々を騙しているような状況を生み出しており、それらを否定する流れで生じてきたものなのです。ですから啓蒙的学問は「一部の人間がわかる」を否定し、「みんなが同じ方法で計測して、みんなが同じ結果を出せること」を重視するのです。もちろん、それが「悪」だなんて誰にも言えないでしょう(ニーチェは「奴隷洗脳教育」と言っていましたが)。
以前流行った血液型診断はそのツールに人間を当てはめて固定化して、「そこから動くな!」というものだったといえます。啓蒙的学問におかしくされた「一般」の思考パターンそのものだと私は感じてしまいます。
この状態になった人間、即ちアーリマンにおかしくされてしまった人間を「時計仕掛けのオレンジ」と呼びます。
この世界には「内的真実(ほんとう)」と「外的本当(ほんとう)」の2種類のホントウがあることを。
私がお伝えしたいのは、様々な思考や思想の荒波から身を守るために相対主義(正しさは立ち位置によって変わるのだから真理などは存在しない、というような考え)にたどり着き、しかし「人それぞれ」という達観した考えは何も生み出すことはないために、「内的真実」という荒波に立つ小島を創り出す、という「過程」の大切さです。
そして、何かを創り出すために「内的真実」にたどり着きたいという、根元から生ずる「欲動」です。
つまりは、「ディオニソス的なもの」、について表現したいのです。
庵野監督がエヴァ、ゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダーと「シン」シリーズを映画化されてますが、本当に興味深いです。
ゴジラは「対象a(異形のものたち、広義でのディオニソス)」、その中でも異界から力を携えてやってきて、現実(行き詰まった秩序)を破壊する「欲動」。
ウルトラマンは「アポロン」、異界からやってくる異形のものたち(実際はカタチなきものたち)の侵入を食い止める「理性」。
仮面ライダーは「ディオニソス」、狂気(異形のものたち、カタチ無きものたち)を身に宿す、そしてそれらの「継承」。
エヴァンゲリオンはそれらを「超越」した「救世主」。
すなわち、最終的には以下の記事を目指したいのです。
何度でも主張させていただきたいですが、勉強は自身を守るためのものでも、他者を攻撃するためのものでもなく、「あちら(未知の世界)」への「扉」と「鍵」を探すためのものだと思っています。
あなたも是非「こちら」側の「勉強」に来てみませんか?
最後まで読んでいただきありがとうございました。
もしもあなたが、少しでもこの記事に何かを感じていただけたのであれば、宿題として是非とも、柳田邦夫の「先祖の話」と、フロイトの「エディプスコンプレックス」の「扉」と「鍵」を探してみてください。
否定も肯定も、受け止めるも壊すも、乗り越えるのも、進むも戻るも、すべてあなた次第ですが、上記二つの「異界」から広がる世界を私個人としては是非とも味わっていただきたいのです。