はじめての試みですが、前回の記事の補足を行ってみようと思います。
というのも、前回の記事の冒頭。
そこで「言葉」が全てを説明しきれなくなり、「欲動」が人々に干渉するようになった経緯の概要をお伝えしました。
ただ、おそらくこの冒頭の時点で多くの人が先に読み進めることをやめてしまっているように思えます。
もちろん、私自身の力量不足もあるでしょうし、あまりにも普通や一般常識の感覚からはズレている内容であるので、それは仕方ないことだとも思います。
なので今回蛇足になるかもしれませんが、こういった「異界」の情報にどういったスタンスで触れれば良いかについて、つまり「思考」機能について、触れていこうと思います。
よろしくお願いします。
まずは問題の前回の記事の冒頭をそのまま引用します。
前回の記事▼
引用下記から。
引用ここまで。
先に述べたように上記の内容は、「普通」であったり、「一般的」な感覚では違和感を覚える内容でしょう。
そして、「感情」、「直観」、「感覚」の機能を使い、
「好き・嫌い」「常識・妄想」「正・誤」「楽しい・つまらない」「善・悪」「合理的・非合理的」といった判断であったり、
「科学」「宗教」「オカルト」「常識」「非常識」などのカテゴリー分けを瞬時に行い、「自分に関係ある」「自分には関係ない」とするのです。
前提として、私の記事では「普通」や「一般」、「常識」、「表」、「秩序」「善」などの普段から聞き馴染みのある、見覚えのある、知己の情報で構築された仮想世界を便宜上「こちら」としています。
それに対して、世界は広いのですから、知らない情報の方が多いのは当たり前で、知己の情報がない世界である、「ホントウ」の世界・「境界」や「異界」を「あちら(裏)」としています。
何が言いたいのか。
つまり、前回の記事から引用したような「あちら」からの情報が目の前に提示された際に、心乱されて、もしくは心躍って、瞬時に「善悪」、「正誤」の判断をくだして、目をそらしたり、反対に踊らされるのではなく、「こちら」と「あちら」を繋ぐ「扉」と「鍵」を探していただきたいのです。
上記の内容の場合、扉は「認知革命」です。
その「扉」はここに隠してありました。
では「鍵」は何か、ということですが、「サピエンス全史」にも記述はありますが、以下の書籍にも記されている内容で、
以下の記事にも隠してありました。
これらの「扉」と「鍵」によって、「こちら」と「あちら」が繋がる、「一考の余地」が生まれませんか。
その上で、やはり私は嘘だとも真実だとも言いませんし、「進むか・戻るか」はあなた次第です。
私が言いたいことは、
脊髄反射的に自身に起こる、「こちら(バイアス)」を揺るがす情報に対する「即決の切り捨て」に抗って、時間がかかってでも「扉」と「鍵」を探そうとする、
これはとても美しい「思考」機能の使い方だと思う、ということです。
とても人間らしい「思考」の使い方だと思います。
そういった「扉」と「鍵」を探す習慣をつけてくれる人が一人でも増えると嬉しいのです。
けれどこれは、特に現代日本人には難しいことではあるのです。
今の人々は「こちら」を守るための勉強をする人ばかりなのです。
自分のテリトリーを守る鎧としての勉強、
自分のテリトリーを犯す人間を攻撃するための勉強、
自分の自我存在を保持するための勉強
その心の在りようは正しかろうが間違っていようが、
「醜い」と私には「視える」のです。
それが私が時に荒々しく述べてきた内容なのです。
すなわち、最終的には以下の記事を目指したいのです。
何度でも主張させていただきたいですが、勉強は自身を守るためのものでも、他者を攻撃するためのものでもなく、「あちら(未知の世界)」への「扉」と「鍵」を探すためのものだと思っています。
あなたも是非「こちら」側の「勉強」に来てみませんか?
最後まで読んでいただきありがとうございました。
もしもあなたが、少しでもこの記事に何かを感じていただけたのであれば、宿題として是非とも、柳田邦夫の「先祖の話」と、フロイトの「エディプスコンプレックス」の「扉」と「鍵」を探してみてください。
否定も肯定も、受け止めるも壊すも、乗り越えるのも、進むも戻るも、すべてあなた次第ですが、上記二つの「異界」から広がる世界を私個人としては是非とも味わっていただきたいのです。