けしかけられた男(1)

 机の前に座ってゐるうちに、いつしか窓の外は緑に満ちあふれた。昨日までは枝の間から向ふの丘の道や、白いバスや、家々などがはりきり見えたのに、今日はそのところどころしか眺めることが出来ない。何も書けないし、何も読めないので、私は此処から外の景色ばかりのぞんでゐるより仕方がなかった。時々トランプの一人遊びをやりながら、ある暗示とか、感動とか、美妙な綾のやうなものを心に把へることがあって、いきなりトランプを放り出しミヘンを手にして書き誌るさうとすると、其等は瞬く間に消えてしまふ味気ない、ごく淡い苦味が残されるだけであった。艶々しいトランプの一枚一枚の肌ざはりにも、感情の消長や起伏がのって又愉しいものである。時には捜しあぐんでゐた語彙や、物の題材を見出すこともあるにはあっても、この室内で、こんなことに耽り、窓外をぼんやり眺めてゐたりすることは哀しむべき心の状態にちがひない。私は此様に尊い時間を白っぽい水のやうに棄ててゐるのであった。だが余り外出もしないで此処にゐることは、もし悪魔が机上に何物かを持つてきてくれたとき、すぐにも其れを取入れたいからの念願もあるのだらう。私はもう以前にたのまれた、或ひは約束のない原稿をまとめようとしてゐるのだとも言ってみたいのだ。

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