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【朔 #54】小雨が首筋にかかるようなバイブレーション

 今日(二〇二四年三月二十日)は能。初能。初狂言。狂言は「無布施経」、能は「紅葉狩」。
 能について。かつて横尾忠則のとあるドキュメンタリーで瀬戸内寂聴が脚本か何かを書いた能「夢浮橋」のワンシーンを観たことがあり、それが非常に印象的だったので今回の観劇に至った。そのシーンとは、衣を脱がされて白絹に赤い袴だけになる女、それは能の世界ではヌードなのだという、脱がされる時に引っかかったのだろうか、女役が衣の端をまさぐってするりと脱げる、その際、仄かに痙攣するのだ、そう見えたのだ。これこそがエロスである。ヌード自体は大してエロティシズムを感じさせない。あの痙攣、もはや引っかかった衣を取るためにまさぐった手にも恥じらいが宿る──。
 この前提をもって、「紅葉狩」を観たわけである。逆に言えば、能の本質的な情報は殆ど知らないまま観に行ったのだ。
 さて、「紅葉狩」。冒頭、女の面を着用した六人がぞろぞろと独特の歩行で登場するのは圧巻で、ホールが異界へと変わってゆくかのようだった。遅れて登場する平維茂が鹿狩りに山へ入ると女たちが酒宴を開いており、邪魔しないように通行しようとするのだが女たちに誘われて宴に加わる。酒や舞に夢見心地に酔いしれて、寝落ちする維茂、寝た途端に女たちの雰囲気や周囲の景色は変わっていく──。舞台上から女たちの姿が消えると、維茂の夢の中という設定で神様が現れる。神様は維茂に女たちの正体は鬼であることを告げ、神剣を与える。そして、夢から覚めた維茂と鬼としての正体を現した女たちとの戦いが始まる。この戦いもあっさりとしたものである。
 この維茂の夢のシーンにて。神様の言葉を聞きながら眼を瞑ったままの維茂が次第に小刻みに震え始めた。これは長時間、屈んでいる役者の肉体的疲労によるものなのかもしれないが、この震え、痙攣を認めた時に、倭、多、詞、は能の本質とは、その幽玄美とは、此岸と彼岸を行きつ戻りつの震動、小雨が首筋にかかるようなバイブレーションなのだ、と。そう、もう、役者の疲労であろうが演出であろうが関係ないほどの場の力が、松の心霊が、働いている、あなたは労働の神。
 もうひとつ。鬼は維茂に斬られてゆく。その斬り方も決して派手なものではない。刃を当てるだけ、引いても食い込んでないため斬れた気がしない。しかし、最終的に鬼は土下座するような形で静止する。平伏の証だ。その、明快かつ厳然たる美しさ。
 囃子が良かった。謡の聞き取れない言葉たちをさらに声へ、振動へ、波へとほどいてゆく触媒。
 また観たい。

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