【朔 #19】かんぱねら
冬菫(冬菫しゃがむつもりはないけれど/池田澄子)。仏の座も、犬ふぐりも、もう咲いている。感応の断面を風に曝して。
吐き気がするような(実際は嘔吐するような事態に至ったことはあまりない)日常の蝟集体を死児に供えたところで、意味がない。意味を見出す必要がない、というのはどんな至上主義?
ら、
かんぱねら。
らら、
光。
ららら、
アトムが、もう、子供の夢ではない時代。
冬菫。
ふず、っ、冬菫。
あっ、
詩が書きたくなってきた。
が、
詩の締切はない。
その他の締切をこなしていきましょう。
数えれば、近いもの、遠いもの合わせると五つほど。うち三つは毎月のものゆえ、月を越しても年を越しても、減ることがない。常に三つの締切を抱えながら、他の締切を受けてゆくわけだ。どれも短詩型と散文。詩に締切はない方がいいのか、あった方がいいのか。「窪、夢の野の、の、の」の時は依頼を受けてまもなく、四日で書き上げて、そこから締切まで推敲し続けたが。なんだか、……(若葉して神戸は古き港なり/小川軽舟)忙しないな、果てしないな。とにかく、あと二日で締切の依頼を終わらせたいのに筆が進まない。から、カラッ、空、こんな、日記めいたものを書いている。まいて、詩を書くなどと。
さ、差、
差の詩学、差異の倫理学。
言ってみた
だけですよ
今、試作中なのは「腐九楼」と「崩彦さん」。でも、もう、蘇生しないかもしれない。組織液が漏れちゃった。
まだ書く気が起こらないので続きます。より日記風に。
喜楽館にて来月のチケットを買うと、窓口のお姉さんに顔を覚えられていた。一週間のうちに三日も来る客の顔は覚えてしまうのだろうか。平日に若い奴が居ると目立つのかもしれない。そろそろ、良質な芸の蓄積を作品化の途上に立たせたい。
一月の読書は五冊ほどにとどまるだろうか。佐藤文香『こゑは消えるのに』(港の人)は非常に良い句集だった。小砂川チト『猿の戴冠式』(講談社)は、そうだな、地を這う星だったわけで、良いとかいう言葉で済ませられない、深い問いを投げられた気がする。今読んでいる吉増剛造と羽生善治の対談も良い。あれがまた、別乾坤、……。
そろそろ何か書けそうなのでお暇します。