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【朔 #12】寧ろその浮腫みを執拗に記録しようとするカメラの眼のようなものだったのです、ね、根、寧

 先ずは喜楽館、桂春蝶師のご報告を。
 春蝶師が主任を務める六日間のうち三日、半分を通うことができた僥倖に少しく遅れた淑気が満ち満ちる。今日(二〇二四年一月二十日)は千穐楽。生で観ておきたいと思っていた「東の旅・発端」(月亭柳正の開口零番です)と「芝浜」(桂春蝶師匠のトリです)を一日で観た。
 春蝶「芝浜」の空気の凝固、凄まじい。笑いもとりつつ、ぐっと惹きつけるところは惹きつける。立川談志「芝浜」ばかりを画面で観続けてきたため、今回初めて「芝浜」の高座の空気感を味わった。上方から下ってきた魚屋という設定の主人公だからこそ生まれるドラマ。そこに交差する春蝶自身の人生。返す返すも凄まじい。感動した。
 これで暫く観れないのかと思うと名残惜しい(沢山の良い噺家と出会った三日、沢山の良い芸を浴びた三日)。

 次に、今日(二〇二四年一月二十日)未明のご報告orご説明を。
 毎回、芥川賞候補作から一冊必ず読むということをしていて(もう、今年で三年目に突入するのですか、……)、今回は小砂川チト『猿の戴冠式』(講談社)を読むことに決めていた。単行本発売前に受賞作が発表されたが、これは決定事項。ぶれることなく(ぶれない、は毎度のことなのだけれども思えばこの時から怪しい軋みが耳のすぐ近くでしていたのかもしれなかった──)、発売日(二〇二四年一月十九日)に購入した。
 日付が変わり未明、読み切れるだろうと表紙を見つめ、躊躇なく開いた(これが初見。一文字たりとも読んでいないから、初見。普通、本屋でランダムに頁を開いて文体や筋を確認するはずが、今回だけはしていなかった。寒いが湿度の高い自室にて、頁たちは初めて世界に差し出された。おかしい。一文字も読んでいない小説になぜあれほど、無警戒でいられたのか)。
 冒頭、数頁で、和、多、詩、のなかに樹皮の剥がれてゆくような驚きが立って(逆立って?)くるのを確かに感じていた。予想していた語り手と違ったのだ。読み進めても、読み進めても、語り手が変わらない。そうか、帯のあらすじだけで、渡し、は勝手に陳腐な小説を書いていたのだ、と、それは小砂川チトのものではないのだ、と恥ずかしく思いつつ(筒があったら覗きたい)、なおこの時点では読み切ろうと思っていた。
 その後も絶えず裂け目(slash)が物語の端々に、節々に生まれてきていて、それは小宇宙の予感なのだが(予感は最後に結実して大きな爆発を起こす。これは、世界の、決定事項)ともかく、どうもその裂け目毎に(或は、裂け目ごと、まるまる)共感(共振、凝視、巨視、虚子)しているらしかった。この時はまだ、良い小説を選べたな、と安穏な、は言い過ぎか、花吹雪の風の部分だけを忘れてしまっているような(触覚だけが注意報を出しているような)心地になっていた。益々加速してくる頭脳の深奥に余裕などない。切り捨て、切り捨て、必要だと思い込んでいるものは実は核心ではなく、寧ろ核心に気付けるはずの正常な思考を圧迫していたのだ。
 壁画を前に、多、他、図、夢、姿の底に渦巻く膨大な時間、その想起。この入我我入の戸口にさしかかる状態が、一語に背を押されて完全に中に入ってしまう。
 入ってしまった。けれども、戸が閉められる前に慌てて出てきて、本を閉じた。読めたのはほぼ半分だった。これは物語の本筋ではない。ではないがしかし、読書自体も創作行為なのだから、こういう分岐が伸びてしまうのも許されたし。
 受賞作も素晴らしいに違いないが、輪、多、子、が求めていたのは、ぶよぶよに浮腫んだ魂の血抜きをするようなものではなく、寧ろその浮腫みを執拗に記録しようとするカメラの眼のようなものだったのです、ね、根、寧。

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