【朔 #20】時間の足跡(蹴り痕でもあり、摺足が地に遺すぎざぎざの線でもあり、校庭ですね──)
異様な時間の跳躍といふものがあつて、あまりに陸続たるもので、大抵、一連どころか一体と錯覚するのだけれど、……今回はさういふ跳躍(牛若丸の、髪)をなんとか言語化できたら。
昨日(二〇二四年一月二十七日)吉増剛造・羽生善治『盤上の海、詩の宇宙』(河出書房新社)を読んでいました。途中、羽生さんが吉増さんにある詩の朗読を頼むのですが、それがなんと、第一詩集『出発』(新芸術社)より「生命よそんな風に」。まだ、棉、氏、も読んだことがない詩をこんな形で読むことになるとは、と思いつつ頁を捲ると、一行目から途轍もない宇宙の底の蠢動が見えてきました。
ここに若き日の羽生さんが共感(共鳴、共振、共有)されている。もはや、紙上ということを忘れるくらいに濃密な空気、その匂いがしてきて、駅のホームで電車を待っていることなど、忘れてしまっていました。
さて、この「ふくらはぎを緑色に」の「緑色」について。
把、足し、は瞬時にこの「緑色」を腐敗の色と思って読み進めたわけです。死をも含んだ生命の過剰に溢れるエネルギーの色。それは、もう、猶予も躊躇もなくそう思いました。若葉とか万緑というよりも、肉の腐敗や黴の胞子の方から照射してくる光の射程、まさしくそうだと。この直感(……よりも前の直感)に違和感を感じなかったのは、その後の詩の内容が単なる生命賛歌ではなく、寧ろ直感の方に近い横溢した生命のエネルギー余剰分が生み出す渾沌と混乱であり、一致していたからです。
このまま、我、多、士、はお二人の対談(対話、対座、対局)に分け入ってよかったのですが、少し入った途端にずるずると思考が曳航していることに気付きました。逸れてきている。眼と思考の速度と方向がずれてきているのです。皆さんも経験がおありでしょう。誰かとの会話中、段々と頭が違うことを考え始める。口と思考がずれ始める。遂に乖離と呼ぶべき距離に至って、相手との会話が不能になる。その感覚に近い。単なる目が滑る、というのとも違うこの感覚にどうにか思考の方へ近付いていったのです。すると、先程説明した「緑色」の直感について更に深めていたらしいことがわかりました。
詩は難解と言われます。その一つに比喩の難解さがよく挙げられる。「このバラは理想や芸術を指していて、それをパンよりも先に食べるということは、……」という解説は「そんなことどこに書いているのか、意味不明」という一言で拒絶されることもあるのです。詩に慣れている者と慣れていない者とでこれほどまでの断絶があることに驚き、詩に慣れた者こそ、その読み方について時に立ち止まって、佇んで、確認する必要があると常々考えていました。思考はその基底に従っていたらしく、こんなことを囁いていたのです。
『もしも、子供がこの一行を読んだ時、この緑色は、若葉でもなく万緑でもなく、腐敗でもなく黴でもなく、純粋な「みどり」として柔らかな宇宙を産み出すのではないか』
慄然として、本を閉じました。
解釈の必要が無い(……することができないのではありません。する必要がないのです)宇宙の色。深さや動きは乏しいかもしれないが、これほど、我々の手に入れがたい眼はあるでしょうか。この慄きの余韻に浸る間もなく、本から飛び出した思考はより前の段階に戻り、砂遊びを始めました。
『なぜ、そんな、子供のことを考えたの? なにを、読んだの?』
ここでふっと思い出されたのは昼間に読んだ詩でした。noteで公開されていたケイトウ夏子さんの詩「揺籃期」(もちろんこの時、吉増剛造『熱風 a thousand steps』(中央公論社)が背後霊のように感じられていました)。そこにこのような二行があるのです。
覚えていない夢(ああ、大野一雄『胎児の夢』、……)の摺足を掬いとっておられる。「なんだ、これ、すごいなぁ、……」と息を漏らして、その息は白く、呟いていました。
どうも吉増さんの「ふくらはぎ」が同日に読んでいたケイトウさんの「足」を呼び、「揺籃」を呼び、その「緑色」を見るおさなごの眼を想像させたらしい。
普通電車がやってきて、隣の人が乗り込む。その刹那に立った胡椒のような香(これはいまだに謎です。隣り合っていてもしなかった香りが、その人が動き始めた途端に強烈に、風にもなかなか流されずに鼻腔を刺激しました)。スパイスのシナモンは肉桂という名が付けられていて、この官能的な名の植物(かぐや姫の肉、ふくらはぎ、陰、ほと)が芽吹き、茂り、枯れ、乾かされ、それらが、一様に、緑色に染まる幻視さえ、……腐臭とはスパイスの香なのだ、と考えがまとまって、思考は雑踏に紛れていきました。
このやうな時間の跳躍に気付くことができた、とご報告を。その時間の足跡(蹴り痕でもあり、摺足が地に遺すぎざぎざの線でもあり、校庭ですね──)に辛夷が咲いてゐます。