三島由紀夫、という名を私は小学校低学年の時分から知っていた。きっとテレビか何かで特集が組まれていたのを観て知ったのだろう。但し、当時の私が知っていることといえば、名前、彼に対する漠然とした評価、そして彼の最期についてだけだった。たったこれだけしか知らないにもかかわらず、私は三島由紀夫という作家を非常に恐れていた節がある。
割腹自殺という耳にしただけでも腹がジュクジュクとしてきそうな最期に恐怖を抱いたのではない。聞く人聞く人、読む本読む本に、彼を称える言葉が出てくるからだった。勿論、のちにいろいろと調べるにつけて、三島由紀夫を批判的に書いたものも少なくないことを知った。しかし、当時は手の届く情報を合わせると、文才すさまじい大作家だ、ということしか分からなかった。誰も彼も「素晴らしい」と言う。私はそれが怖かった。完璧なものの前にひれ伏している人々と同じ列に並び、自らもまたひれ伏すことになることを確信していた。三島由紀夫の作品を読んでしまえば、もう後戻りはできない。そう思うと恐ろしかった。
そもそも、読んだとして二割も理解できなかったのではないか、と思うのだが爪の先さえも三島由紀夫の本には触れなかった。それが小学校を卒業し、中学校に入り、夏目漱石や谷崎潤一郎、芥川龍之介に太宰治と、純文学に親しむようになると、心の片隅で『そろそろ、俺も三島を……』という気持ちが芽生えてきた。けれどもやはり恐怖は失せず、読まないまま中学校を卒業し、高校に進んだ。
さて、ここで遂に私は三島由紀夫と対峙することになる。
高校二年、四時間目の現代文の授業。担当教員には悪いが、この授業は本当に退屈だった。どこの学校にも、春に教科書を買ってその日のうちに通して読む奴がいたのではなかろうか。それが私だ。あらすじは大体入っている。そして、予習をせよ、と口うるさく言われているから、授業で扱う文章は何遍も何遍も家で読んだ。となれば、教師の解説は自分がどうしても解せないところだけを聞けばよい。その日の授業は解説回、グループワークのコマではなかった。
こうなると退屈だ。最初は教科書を立てて読むふりをしながら、実はその中に挟んでいる文庫本を読むなどしていた。しかしながら、この文庫本は今朝の通学中に読み終えてしまって、二周目に入っていた。これも退屈だ。目新しさがない。ここで私はあることを思い出した。教科書は買った日にそのまま通読したが、その内の一作だけ一文字も読んでいない作品があったのだ。
それは三島由紀夫『美神』だった。
この時、私は窮鼠の気分だった。退屈の壁に三方を囲まれ、猫のような捕食者よりも更に恐ろしい絶対者に唯一の逃げ道を塞がれていた。絶対者は言う。「お前から来い」と。今しも私はその御前に出て行こうとしていた。
教科書に挟んでいた文庫本をしまって、ページを進む。『美神』は教科書の終わりの方にあるのだ。パラパラと捲られていったページのなかにチラッと『美』という字が見え、捲るのを止めて戻った。教科書体の大きな文字で『美神』と書いていて、下にある『三島由紀夫』の名もある。
この時点で私は観念して、絶対者の前にひれ伏したのだった。
最初の一行はその本の売れ行きを左右し、最後の一行は次の本の売れ行きを左右する。よく聞く言葉だ。いやいや過程も大事だと言いたいが、少し共感する部分があるとすれば、良い作品は一目見てわかるということだ。読む、ではなくて、見る、瞬間に。まさに『美神』はそういう作品だった。
読み始めると、先程来の退屈によって緩んでいた体は忽ち姿勢を正し、教師の声、他の生徒のあくび、黒板に白墨が当たる音、全てが聞こえなくなり、小説の世界にズブズブと浸かっていった。私が居るのは教壇がいまだに残るような古い教室ではなく、老博士の苦しそうな呼吸の聞こえる異邦の一室であって、遍満する美しい光に圧倒されながら、運ばれてくるアフロディテ像をぼんやり見ていた……。
十ページの小説を私は何度も何度も読み返した。途中、意味のわからない単語を見つけては赤いマーカーを引き、自らの無知を恥じた。続いて、特に美しい文に黄色のマーカーを引いた。みるみる十ページは真っ黄色になった。
授業の終了を告げるチャイムが鳴った。起立、気をつけ、礼の流れ作業を終えて、またすぐに『美神』を読んだ。これまでの恐怖たちが私の頭から出ていく支度をして、私を憐んでいるのが感じられた。
少し疲れて、一度窓外を眺めた。私の母校から見える眺めは昔から有名だった。大阪も和歌山も大阪湾に沿って見えて、西を向けば淡路島、淡路島につながる明石海峡大橋が見える。しかし、『美神』を読んだ後に眺めたその景色はいつにも増して美しかった。いつもよりも多くの光が輝いているように思える大阪湾が、船を抱き、人を抱き、私をも抱こうとして、視界の端から端まで広がっていた。「遍満」という単語がずっと脳内で繰り返されていた。
いまだに私は三島由紀夫の前にひれ伏している。これからもずっとひれ伏しているだろう。そして、最期には少しだけ顔を上げ「衰えませんな」と呟き、二度と顔を上げることはなくなるだろう。