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【朔 #225】手を洗って

 かつて、「手洗い」という詩を書いた。個人詩誌『卵』の何号だったか、まあ、三年前の作品で、詩を書いた後には手を洗う、という習慣を書いたのだ。
 私は生活の中で頻繁に手を洗う。それは別に感染症予防でもなんでもなく、単に潔癖症なのだ。例えば、本を読んでいて目が痒くなったら、手を洗ってから目を擦る。食パンを袋から取り出すときには手を洗って、よく拭いて(これも清潔な紙であることが望ましい)、パンを取り出して焼いて、皿に載せたらまた手を洗って、食べて、また手を洗う。洗濯物を畳んだら手を洗う。スマートフォンには除菌シートをしているが、それでもやはり、スマートフォンを触った後には手を洗わないと飲食はできない。
 もちろん、これらはいくらか我慢しようとすればできる。でも、我慢しなくても良ければ頻りに手を洗っている。
 あるとき、これらは少し神経質な程度と思っていたら、「かなりだよ」とツッコまれたことがあり、私は驚くとともに、ここまでしなくても健康に生きられるんだなあ、と安心した。したけれど、やめない。
 そもそも、汚れたものを触りたくない、ではなくて、触るものを汚したくない、という動機もある。私は汗かきで、まさに詩「手洗い」では、詩作していると鉛筆を握る手がじんわりと汗ばんで気持ち悪い、ざっくり言えば斯様なことを書いた。本を読む前にも手を洗う。それは紙に汗や皮脂が極力つかないようにしたいからだ。
 今、吉増剛造の古書(『朝の手紙』小沢書店)を読んでいて、目が痒くなってきたので手を洗い、目を擦り終えた暇にこの文章を書いておく。

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