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【朔 #178】鉦叩がしきりに鳴く寄り道を

 ほっ、影、が、
 帆っ、陰、が、
 穂、保、火、こころ崖なす、
 ケイトウ夏子個人詩誌『水路』も三冊目。今回はゾクっとするような一行が多い。ここは夜のベネチアなのだろうか、それとも月沈原か。

行間を石が滑るような夜には
銀の靴が勝手に脱げる

ケイトウ夏子個人詩誌『水路 vol.3』より
「月の水差し」

 開巻劈頭、見事な二行がぐいと棹をさす。なんという切実なイメージなのだろう。特に二行目、この脱落の切なさ。靴が脱げるのはいつも勝手なのだ。それでも「勝手に」と念を押す妙な力み具合が、その力が抜けてゆく様子はどこまで夜を流れてゆくのか。

6
フロストのコップに描かれた
花の枯れ時を決める
折りたたんだ指の中で
根がのびる

同上より
「半夏」

 懐かしい、ガーベラの赤、から遠く生きてきて、それはどうでも良いことなのだが、とにかく、枯れぬ花の枯れ時を決めてしまう全能感(あくまで、感)がちょっとユーモラスでちょっと憂鬱な印象。そこに「根がのびる」という反抗を受ける。最近、これほどまでに優れた詩の改行を見ていない。「のびる」の平仮名も言っておきたい(野蒜のことも)。
 今号には、朔シリーズでその不思議な時間の飛躍について書いた「揺籃期」が収録。一度引用したことがあるので、今回は控えたいが、また前とは別に「小石に触れる」の箇所が気になった。縦書きになることでようやく気づく、微かな交換、交感。何であったか、「さわる」と「ふれる」は意味が違うということを読んだ(坂部恵『「ふれる」ことの哲学──人称的世界とその根底』だったような違うような)。そう、私たちもなんとなく感覚している「さわる」の侵犯の気配(一方的)、「ふれる」の浸透の気配(相互的)。「小石に触れる」、その摺足の躊躇いに小石たちの静寂が滲み入る……寄り道。鉦叩がしきりに鳴く寄り道を、ながらく通っていない。

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