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【朔 #128】詩の敵であることも忘れてはならない

 小笠原鳥類『吉岡実を読め!』(ライトバース出版)を読み!終わる。
 結論から言えば、私は吉岡実と和解できた。

吉岡実は、話をつなげて詩を書く人、ではなくて、いろいろな短い話をたくさん並べていく詩の人。

小笠原鳥類『吉岡実を読め!』(ライトバース出版)
九四頁一行目

 私としたことが、なぜか吉岡実に詩の流れを求めていたらしい。吉増剛造の「アア コレワ/なんという、薄紅色の掌にころがる水滴/珈琲皿に映ル乳房ヨ!/転落デキナイヨー!/剣の上をツツッと走ったが、消えないぞ世界!」(吉増剛造『黄金詩篇』(思潮社)より「朝狂って」最終連)を許容するくせに。この一行から、私と吉岡実の和解が始まった。
 並べる、ガチャガチャと並べられてゆくもの。それは吉岡実が好んだという近代短歌、近代俳句における基本理念の「みる(見る=写生→客観写生、観る=実相観入、海松?)」から来るものなのか。モダニズム的ガチャガチャなのか。ハイブリッドなのか。それはともかく、吉岡自身の短歌と俳句は酷すぎる。
 真に和解するためには、一篇好きな詩を見つけねばならなかった。結論にある通り、私はそれを見つけた。『ポール・クレーの食卓』の「霧」である。詩集単位で言えば『薬玉』だが、詩で言えば今のところ「霧」が一番好き。最後の一行が、良い。あれは吉兆だと何故か思えた。惨事に対する感覚が鈍いのかもしれない。
 しかし、困った。本当は七月一日に親知らずを抜いてから一週間の休暇で読み切ろうと思っていたのに。吉岡実との和解の後は、岸田将幸との和解を試みるか、野村喜和夫『観音移動』(水声社)を開くか。どっちも痛みと相俟って悪夢を視そうだけれど。
 二匹の目高が、
       「入沢さんの話も、
    ついでにしちゃいなさいよ」
   「そうそう、
    忘れてる」
 と言うので。
 『吉岡実を読め!』をふとした時に過ぎる入沢康夫の影。その度に思い出したのは『ユリイカ 1998年8月号 特集:島尾敏雄』だった。これには吉増剛造(またか)と島尾ミホの対話が掲載されていて、それを目当てに古書店で購入した。時代を感じさせる誌面を隅から隅まで(「神戸事件の謎 少年Aは冤罪だ!」という広告は神戸市民として神経を逆撫でされるものがある)読むうちに、「今月の作品」の頁。入沢康夫が選者をしていて、最初に掲載されていたのが小笠原鳥類「ミドリユミハチドリ(Phaethornis guy)」だ。選評では「こんな筆名を選ぶほど日ごろ鳥の好きな作者なのだろうか、それともこの作品かぎりの筆名なのか。」とある。二人の邂逅はここだったのだろうか。ここから、コーヒーを飲みつつ話すようになるまでの時間が面白い。(ところで、この選評の題は『作品の「まとまり」』。投稿者に作品全体を統べる「背骨」を求めつつ、こうも言う。「いっぽう、安易な『まとまり』は、大事なものを軽々しく手放してしまうという意味で、詩の敵であることも忘れてはならない」。ガチャガチャと並べるにも「背骨」が必要だ。とにかく、この一連の文章の約物の量と助詞「の」の量をなんとかしろ)
 二匹の目高が、
       「赤い茸」
       「赤い菌」
       「梅雨茸でいいのかしらね」
       「梅雨菌でいいでしょ」
       「寝よう」
       「寝よう」
 と言うので。

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