【随筆】港のクラゲ
ある日、小雨の降る神戸。約束まで微妙な空き時間ができて港へ出た。
海は生物を抱きながら姿を常に変えていく他界だ。その他界と真向かう時間というのは、本当の無を感じられて良い。だから少しでも時間があれば、近景も遠景も問わずに海を眺めるのが習慣になっている。それがいつからのものであったか、産まれた直後からだったような気もするし、火の玉みたいな詩人の眼窩にチラリと海の色が嵌め込まれていたのを間近に見た時からだったような気もする。
ともかくある日、小雨の降る神戸。私は傘を差しながら港へ出たのである。
いつも居る釣り人たちの影はなく、ただ三艘の船が静かに波の震えを感覚していた。冷静なような、興奮しているような歩速で波止場へ入り、海を覗き込んだ。この時には、必ずそこに起きているであろう波を見たかっただけで、何か期待があったわけではなかった。
しかし、そこには待ち合わせたように一匹のミズクラゲが居たのである。刹那、私の意識は急速に冷却した。この予期せぬ出会い、しかもそれはクラゲという奇怪な姿態の生物との遭遇。幾分か神秘さえ感じている存在と鉢合わせたのである。日頃、私の頭上、或いは遥か雲上を巡っている運命というものに慄然として立ち尽くした。
クラゲは触手を下にして浮かんでいる。生憎、曇天を反射しながら雨や風に水面が揺らめくため、クラゲの像は正確に私の網膜に入ってこない。それでも、あの海の色を透かした体が拍動のように伸縮し、悠然と揺蕩う様子はわかった。
私はクラゲを観察することにした。先に書いたようにクラゲの像は波に歪んでいる。焦点を合わせ続けるとほのかな頭痛が兆したが、それでもなお凝視した。体を時に横向きに、また正位置に、今度はすこし沈み、水面へ上がる。ただひとり港に迷い込んだクラゲは不思議なことに私の前から離れようとしなかった。
飽きることなくクラゲを見ていたが、この贅沢な時間はクラゲによって終了させられた。沖に向かって、徐々に泳ぎ始めたのである。最初はその微々たる進行ゆえに泳いでいることさえ気づかなかった。気付いた後も少し移動するだけだろうと思っていたのだが、明らかに沖へ沖へと遠ざかっていき、戻ってくる気配はない。私はまたも慄然とした。遊泳能力が低いにもかかわらず、このクラゲは沖へ帰ろうとしていること、そして私が「帰ろうとしている」と把握していることに。
時計を見ると、もうそろそろ時間である。傘を差す私もまたクラゲ。この身体は臓物、傘の移動に曳かれていく。海を離れ、陸へと歩を進めた。クラゲはもう、波の色に紛れてどこへ行ったかわからなくなっていた。