【随筆】寄り道日誌#1「寄り道だけが人生だ」
今回より寄り道日誌と題して随筆を書いていきます。その時々で文体が変わるかもしれませんが、基本はこのように語り口調と申しますか、独白をそのまま載せたような形になると思います。また、一つのテーマでエピソードが沢山、などということもあるかもしれません。出来の悪い文章もゆっくりと矯正していきたいですね。
さて、第一回はやはりこの『寄り道日誌』の由来からだらだら書いていこうと思います。
最近おこなっている盗掘の際に「寄り道」という言葉が出てきまして、少しく驚きました。ここ数ヶ月、否、もっと言えばここ数年の間に感じていたことが一言で言い表されたような気がしたからです。それは「まっすぐ目的地へ向かっていない」感じです。私いつも不要な道を通って今の地点に居る、とずっと感じているのです。詩作自体、ただ生きるためには不要ですね。これも寄り道だ。この詩作のありようも寄り道しながら変わっていっているのですが、別の話を。
私も二十歳になりまして、与謝野晶子の「その子二十櫛に流るる黒髪の驕りの春の美しきかな」のように何か一つでも誇れるものがあるか、と自問したわけです。すると必然、過去を振り返るわけですね。今こうして冷静に半生を振り返りますと、「いや、あの時に絶対真っ直ぐに、素直に行ってた方がよかったよね」と思う人生の選択肢が沢山あることに気が付きました。そんな選択の一つや二つ、と仰る方もいらっしゃいましょうが、私は要所要所で必ず寄り道を選んでいるのです。
寄り道は決して楽な道でも苦の道でもありません。ただただ私にとって不要な道です。本来、選択肢に入ってはいけない道です。
思えば小学生の頃、活動範囲が狭い子供でしたから、住んでいる町のことも殆ど知りませんでした。日本、兵庫県、神戸市、まで頭の中で想像して、しかし、この町が神戸市のどれほどの位置かも知らず、この細い道を入っていくとどの道路に出るのやら知らず、気付けば帰り道に寄り道することだけが町の地理を理解する方法になっていました。
不要な道に、目的地への到着が遅れるとしても、入ることでしか、私は、大袈裟に言いますと、世界を拡大することができなかったのです。
家と学校の往復と車に乗ってイオン、スーパーへと向かう車道沿いのみが私の知る道でありました。友人と遊ぼうにも、私の住所は学区の端。皆、友人はみな遠い地区の子供達でしたから、学校の時だけの関係を結んでいました。よって、どの辺りにどんな公園があるのか、完全には把握しておりませんでした。本当に狭い狭い世界で私の生活は完結していたのです。
ここでちょっと寄り道してみますけれども、思えば、私は学校の関係、学校での問題を家に持って帰りませんでした。いや、勿論誰それと喧嘩したとして、それがあまりに度が過ぎたものであれば学校から電話が掛かってきて、叱られるわけです。その時の私は、「教師は何故、学校での問題を態々家に送ってくるのだろうか。お前らが調停し、解決して、それだけやろが」と苛立つんです。相手が怪我をしたならまだしも、寧ろこちらがいくらか引っ掻かれた時でも両成敗ということで電話が来ましたね。しかし、私は何も親には言ってないんです。これは学校で解決することだから、と。それを面倒なことに「お家の方でも……」と言う。そういう担任が数人居て、そいつらには全員不信感を持って接していたのを覚えています。立派な先生方も居ましたから、それなりにまともに育ちましたけれど、もしもあらゆる大人に不信感を抱いていたら、と思うと別の人格が形成されていたでしょうね。
そして、学校の外では学校の関係は成立させていませんでした。友人をイオンで見掛けても声は掛けません。掛けられれば挨拶しますが、正直迷惑でした。
オンとオフがかなりはっきりと出ている子供でしたね。すると、このオン/オフとはまた違った状態で居たのが通学路でした。特に帰り道。通学路で私は常に考えていました。小学校三年生くらいまではたわいもない事だったと思います。しかし、高学年以降はいろいろと複雑な思考を展開していました。
これはまさに今に繋がる習慣で、私は移動中ぼけーっとしています。一点を見つめていることに気づいて、その視線の先が誰かの荷物だったりすると、盗人と誤解されぬよう、慌てて窓外に目をやることも屢々。そのぼけーっとした状態で、少しかっこつけれた言い方をすれば、忘我の状態でただ自動的に思考しています。
小学生の頃に話を戻しますと、例えば帰り道にアゲハチョウを見かけたとします。その瞬間、殆ど反射的に立ち止まって目で追っている。この時点で目的地に行かねばならないということを逡巡なく放棄しているのですね。そして、考えます。
『あの色からすると、ナミアゲハか? しかし、あの庭にある植物からするとキアゲハが立ち寄った可能性もあるよな。あっ、あそこの隣の公園に楠っぽい木がないか。となれば、アオスジアゲハなんかが居るかもな……』
少年はふらふらと行く道を逸れて、寄り道へと歩を進めます。入ってみると、より魅力的な寄り道というのがあるのです。
例えば、やけに植木鉢を路傍に置いている家の前、見たこともない園芸種が植わってあると行ってみたい。いや、何よりこの少し古い民家の立ち並ぶこの道そのものがなんだか『いいな』と思う。そして、大きく迂回して目的地へと向かっていく。
忘我によって、私は感覚的に、直感的に行動をしてしまう。そして、その忘我の状態で私は自らの知る世界の範囲を拡げようと足を動かしていたことに、この頃気付いたのです。ただ興味に任せて、というわけではない、なにか目的を持って歩を進めたのだ、と。
これがスイッチをオンにして、すなわち能動的に拡げようとしていない所が面白い。オン/オフの状態ならば、いずれにしても私は決してそのようなことはしない。自分の世界内に籠ろうとしたことでしょう。世界拡大という目的は意識された途端に拒否されるのです。
寄り道、本来行くべき道から逸れつつ目的地を向かうこと。その際、私は我を忘れている。いろいろと考えましても、この状態が生の本道ではないように思いますよね。しかし、幼い日の私にとって、寄り道という行為かつ時空間こそが世界拡大の唯一の方法かつ場だったこと。そして、この寄り道の意味までも拡大してきて人生の選択においても寄り道をし始めた。その寄り道も、勿論苦悩することもありますが、概ね満足しています。こうなってくると、寄り道こそが本道にも思えてくる。寄り道こそが人生のだ、と開き直るように聞こえるかもしれない結論を差し出したくなるのです。
本道のど真ん中を歩いた所で、見通せる平坦な道を努力しいしい歩いていくといって、そのことに何の意味があるのだろう。少し横に逸れれば予想だにしていない道があり、それは見たこともない、一見してわからない道だというのに、その道を訪ねないで何の為に前進するのだろう。もしかすると、己の寄り道を正当化するための若々しい、初々しい、幼い、いとけない屁理屈なのかもしれないが、そんなことを考えてしまうのですね。
なにも道を外せとは言っていないのです。寄り道、本道から逸れる。何十と歳を重ねようと常に我々は人間の、人生の、素人ですから、全知を得ることはできないし、全能を司ることはできない。そのことに甘んじて、必要以上に小さな世界を持続していくのか。それとも、少し逸れて新たな世界の断面に触れるか。
私の答えはここまで長々と書いてきた通りです。