【朔 #211】椅子は壁と同化し、燭台は自らの影に影以上の形象を与えて、窓はどこだ、梔子と思しき花の行方も、窓を外から見た構図なんです、窓は外を見るだけじゃない、梔子はそもそも、燭台の金属光沢を異化する試み
鬱状態も段々と良くなってきた。
土曜日(二〇二四年十月十二日)、ここ数ヶ月忙しく、行けていなかった県立美術館へ。八月に内容が変わったにもかかわらず、十月にいたるまで一度も観にいけていなかったコレクション展II『わたしのいる場所──コレクションから「女性」特集!』を。
当日は鬱状態ど真ん中であって、読書もできないしとにかく「観る」と「聴く」に徹していたかった。また先般、重要文化財に指定された本多錦吉郎「羽衣天女」が展示されているのも興味があって、早く行きたかったのだ。
感銘を受けた作品について少し。
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本多錦吉郎「羽衣天女」
構図、というのは偉大だなと思うし、富士山は大きいなと思う。力のある絵、それは図録で見ていると、さぞ大きな絵なのであろうと思うが、実際はそれほど大きくない絵。画面の力が実際の大きさを錯覚させる。かつ、近くによれば曲線の要所要所に鏤められた布と金属。これは渋沢孝輔か。また、漆。
桜井忠剛「能道具図」
漆だ。漆黒だ、見るだろう眼鏡。敷くように積み重なった和綴本と面。油彩のエロティシズムが面の陰影と歯にあらわれている。もはや、和紙まで艶。一等艶やかなのは、背景を塗り潰す漆黒、漆そのもの。かつ、39.1×135.5cm! 階を外して、櫂を折って、塊、回、解!
亀高文子「けしの花」
芥子が芥子であることを拒むような逡巡の一抹。許すようにおおらかな葉、その陰影。そこに鬼の子の眼があって、私に眼鏡を渡すよう求める。承服せず。菊の花弁と菊人形の相関関係ですが、芥子の向こうの白飛びのその先にまた赤い芥子。
ユタカ順子「あの窓のそばで」。
今回、最も惹かれた作品。目が覚めてから思い出した夢のような絵。椅子は壁と同化し、燭台は自らの影に影以上の形象を与えて、窓はどこだ、梔子と思しき花の行方も、窓を外から見た構図なんです、窓は外を見るだけじゃない、梔子はそもそも、燭台の金属光沢を異化する試み。
花沢真由美「chord 1」
こういう作品に出会えて幸せだなあ、と思う。紙の状態や質感までも含めて作品になっている抽象画。鉛筆の線が過敏、そこへぼったりと、なんだろうこの墨のような、安定なんだ。三角定規? 私は雨の日の教室を思い出していた。そして、水彩画の道具を広げてなにも描こうとしない稚い相貌を(見たはずもないのに)思い出していた。幸せだ。
青木千絵「BODY 10-1」
青木千絵は何回前のコレクション展からファンである。自らをモデルにした裸体の像は上半身が異形と化している。ここに、自らの身体イメージに関する違和感や不安(メルロ=ポンティを出してきてもいいが)を見てとるべきなのだろうか。もっとポップな何かとして捉えても怒らないでほしい。そして、これも漆。漆黒。漆黒を覗くと覗き返すものがある。それは常に私であり、変容する空間としての身体である。
田中敦子「作品」
●●●●●●●●●●●●●●であり、それ以上に●●●●●●●●●●●●●●うほかない。●●●●黒●●●●●●●●●●●●意匠を見●●●●どろ●●●●●●●●垂れてきていて、垂れてきて、垂れていて、垂れ、垂れてきている。
森内敬子「作品」
睡眠を空間に置き直すことだと思う。本当であれば、私たちはこの枕に平行に寝転がらなければならない。
清宮質文「九月の海辺」
版画というのも、良い。実は会場で見た時には岩石だと思っていたものが、横たわる女性であることに今気づく。目はうつろで、小さな小さな透明な容器の中に泳ぐ謎の魚を見つめている。これが詩だ。驚くべき版画。知らなかった、では済まされない。なんという高潔!
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中には、作者と作品の名前を調べれば県立美術館のデータベースやSNSにヒットするものもある。