【随筆】恋の変質
小学校の六年間で五人の子に恋した。一人目は一年生。二人目は二年生。三人目は三年生。四人目は飛んで六年生。クラス替えのたびに私は恋に落ちた。
二人目に恋した時、一人目のことを忘れてはいなかった。それは次もまた次も続いて、結局、片思いの四股状態になった。この四人に優劣は無かった。等しく恋心を抱いていた。その状態が心底嫌だった。誰か一人に本気で恋する、ということが美徳だとなんとなく思っていたからだ。
コンマ一ミリも四人への恋に差は無い。そんなはずは無い。いやしかし、誰の顔を思い浮かべても爪の付け根は疼くし、誰の前に立っても同じく寡黙になる。特定の人物の前で特別なことが起こるわけではない。どうしても、この恋たちが等しいことを疑う余地は無かった。
自らの不実を思った。どこで手に入れたかもわからない男性の理想像と自分を比べては、情けなくなった。そもそも自分は男であることが嫌だったかもしれない。女でありたかったわけではないが、日本における平均的あるいは理想的な男性像が自分のありたい人物像と全く異なっている。今もなお続く実感が小学校という初めて触れた社会で浮き彫りになっていた。但し、唯一人を愛せよ(恋せよ)というのは、納得できる美徳であったからこそ、真剣に恋について考えていた。
そうして、私は何の行動も起こさぬまま卒業した。自分の不実を思うと誰一人とて選べなかった、というのは一因だ。もっと根本的な理由が六年生の夏にできた。ある一人の子に恋したのである。それは先に書いた四人目ではない。かと言って、五人目でもない。私は本当の初恋を経験した。つまり、これまでの四人とは異質な恋に落ちた。最初、その感情を四人への恋と区別すべく、愛と名付けていたが、今では恋だと思っている。
では、四人への恋と六年生夏の恋の違いとは何か。それは愛へと繋がりうる恋か否か、だ。
六年生の夏休み。既に四人目と出会い、その恋心を自覚していた。四、五年生は大人しかったのに最後の最後でこうなるとは、と残る数ヶ月の苦しみを思った。
夏休み二日目の朝。目が覚めると、すぐに起き上がるでもなく天井を見つめた。朝でもかなりの光が外に満ちていて、閉めてあるカーテンの上と下から漏れ出していた。天井には光の階調ができていて、私の布団の真上でちょうど光は届かなくなっていた。クーラーも点いていない部屋は暑い。汗ばみながら、私はふと思った。
『〇〇に会いたいな』
〇〇とは席が隣になった子で、低学年の頃以来久しぶりに同じ学級になった。久々に話すととても話しやすく、自然に親友と言って良いような関係を築いて夏休みに突入していた。
瞬時に私の鼓動は高鳴った。困惑した。
言葉の上では、友人と遊びたい気持ちと解釈できるこの思い。しかし、心の奥底でそういうものとは違う、もっと渇望するような感覚があった。友人の軽い気持ちで会いたいなと思うのとは全く違う、魂の片方が失われていて、もう半分を求めるような思いだった。
まさに「乞い」、恋だった。
最初は勘違いしていると考えた。異性の親友ができたもののなかなか無いことだから、脳も混乱しているのだろう、と。
それでも、飯を食い、テレビを観、音楽を聴いていても、何かが欠落している、それは彼女の存在である、という妄想と決めつけたくても妄想ではない思いに苛まれていた。
彼女の好きなものの話をもっと聞きたいし、彼女の行きたいところに一緒に行きたいし、二人黙って同じテーブルに座るだけでもいい。ここまでの質、量の思いを抱いたことなど無かった。そのことに気付くとこれまでの四人に抱いていた恋心が全て、〇〇への恋心の下に位置するものになり、もはや眼中になかった。
感情としての愛、というのは魂の共鳴に似ると思う。そんな魂を求めることこそが恋ではなかろうか。等しい四人への恋は思えば容姿に惹かれた面が大きかった。四人目は気遣いのできる優しい面にも惹かれたが、それも私の中で恋の概念が変質し始めていた証拠かもしれない。美しさなどではなく、真にその人の隣に居て、魂が安らぐか否かを基準とした恋に私は目覚めたのだった。
この目覚めは前述した通り唐突すぎた。そして、愛と仮に名付けて向き合ったものの、これまでの不実へのケジメもついていないように思えて、結局、本当の初恋も結ばれずに卒業した。その相手は別の中学校へと進学し、離れ離れとなった。
中学校時代は、新たに四人への不実な恋と同質の恋も、また本当の恋もせずに、ただ本当の初恋の相手のみを離れていながら思っていた。思いの持続、またその思いの分析を手伝ったのは詩である。中学校一年生の秋から私は詩を書き始めた。全く別の動機で書き始め、主題も恋ではなかったが、書いていくうちに恋愛詩ばかりになり、否が応でも心と向き合わなければならなくなった。
『自分は何を思い、何を考えているのだろう』
何篇も何篇も書くことで自分を客観視する面もあった気がする。結果、自分の思いの分析に繋がっていった。
詩と出会ったとしても、この恋の変質を経験していなければ、書き続けていなかったかもしれない。自分の心に理解しえないものがあることを唐突に気付くことがなければ、その衝撃を知らなければ、詩というものを外部化の装置として用いていなかっただろう。
まだ私は恋愛詩を書いている。いつまで経っても恋というのはわからない。