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自己評価を下げて得られるものってなんだろう

まだ私が大学生だった頃。大学のゼミの講義で課題の自己評価をする際、周囲より若干低く点数をつけた私に教授は

「自己評価が低いことは時に嫌味になる」

と呟いた。老眼鏡を下げてじっとこちらを見つめてくるので、思わず苦笑いをしてしまう。ほんの少しだけ評価を低めにしただけだった。厳しめに見ていたからとも言えるが、その時はなんでそんなことを言われたのか不思議だった。



数年経ち、私は社会人になって友人ができた。彼女は精神的な病を持っていて、極度に周囲に気を配る子だった。1つの発言に対しても、必ずその場に存在しないような立場の人にまでフォローを入れる。

「そう考えない人もいると思うんだけどね」

といった具合に。仕事で出会った面白い客の話をしていると、笑うより何より心から仕事の苦労を労ってくれる。気遣いがすごいが、そのおかげで心が人よりもぐったりしやすいのだろうと思う。趣味や嗜好が似ているので、小さなイベントや展示施設へ遊びに行こうと誘うことも多い。しかし、彼女は車で30分圏内くらいの場所にしか中々同意をくれない。きっと人混みや移動もぐったりの原因になってしまうからだろう。体調は第一に考えてほしいので、断られても私は納得する。

ここ最近2回ほど約束を断られたが、どちらも2日前とかに伝えてくれた。LINEには「いっぱい考えたけどやっぱり体調が心配」のような文字が繰り返される。とても残念だが、仕方がない。1回目は割り切れたが、2回目のLINEの中にあった言葉が引っかかってしまった。

「せっかくの休みの予定をなくしてしまってごめんね」

行くはずだったイベントには2日前ともなると同行者を探すのも難しい。そのことを思ったのだろうか。私は1人でも出かけてしまう性格なので、もちろん1人で行くつもりである。きっと「私のせいで」という気持ちでこの1文をくれたのだと分かっているが、思ったより相手はそんなこと気にしていない。対私だからなのか、「休みの日をどうするかは私が決めるのだ」と謎の気持ちが湧いてきてしまった。予定はなくならない。


つくづくめんどくさい女だということは自分自身、重々承知である。

自分が関わる物事に対して、そこまで責任を持たなくてもいいんじゃないかな。「ごめんね」「申し訳ない」と謝られることは個人的にあまり気持ちがいいものではない。完全に悪いことをしているのなら全力謝罪を求めるが、仕方がないことに必要以上になることはない。「できない」ことよりも先の可能性を探したほうが、何倍も得な気がしてしまう。

ネチネチとこの友人の1文にこれだけ考えてしまうのもヤバい奴だが、とにかく気になってしまった。素直に、気持ちをそのままに伝えたり話していくことは難しいが、少なくとも低すぎる自己評価や自分を卑下した言葉は周囲にも引っかかる。ついつい、大学教授の老眼鏡越しの視線を思い出してしまった。

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