衣笠新聞: 井上吉郎さんの思い出
歴史好きでなければ気づかないようなことがある。知らなくとも暮らしていけるが、知っていると生活に深みが出たり、その地域に愛着が生まれたりする。そういった図を浮かび上がらせる地を発信していこうとするのが衣笠新聞の試みである。
衣笠は京都市北区にある衣笠山周辺の地名で、かつては「絵描き村」と呼ばれるほど画家が多く住まう地域であったらしい。今でも建築家や芸術家が居を構えているという話をたびたび耳にするが、京都市内でありながら郊外の静けさを漂わせていることがそういった人々を惹きつけるのかもしれない。そもそも衣笠はかつての分類でいえば洛外であるから、洛中から見て郊外に当たる。例えば衣笠の一区域・北野白梅町の南東にある妖怪ストリートは一条通(洛中と洛外の境界線)に位置しており、「夜になると妖怪が出る」と言われていたような場所なのだ。
今となっては衣笠に道の外れ=アウトサイドの気配は全くないものの、その中にあってアウトサイダーの雰囲気を漂わせていたのが衣笠新聞の発案者でもある井上吉郎さんだった。僕と吉郎さんを引き合わせたのは僕が働いている自立支援事業所で、吉郎さんがガイドヘルパーを申し込み、僕が支援をすることになった。金曜日の朝10時に自宅に向かうと、吉郎さんの革製のポーチ兼財布を手渡され、その日のおおまかな予定を伝えられると、その後は車椅子で颯爽と動き出す彼の後を歩きながら色々な話を聞かせてもらう日々だった。
吉郎さんは両足の麻痺だけでなく目や耳など身体の多くに不調を抱えていたので、出かけるうえで支援者が必要だったことは確かだが、それにしても僕が吉郎さんの支援に入るときは支援者というよりもカバン持ち(文字通りカバンのようなものを持たされていたわけだが)のような気持ちだった。今でも事細かに教えてもらった話を覚えている。京都の地底湖の話、近年の日本の建築物のファサードについての話、宇沢弘文氏と平野神社で語らったという話、資本主義とコモンズに関する話、水上勉『金閣炎上』と三島由紀夫『金閣寺』の内容と各著者の出自についての話、など。
吉郎さんは赤い服をよく着ていた。ある日のTシャツには「殺すな!殺されるな!」と書かれており、週末の早朝から嵐電北野白梅町の駅前で無言デモをしている。とにかく強烈な個性と主張を放っていた。それと比較して僕は目立つことが苦手だ。おそらく吉郎さんもそれを分かっていたと思う。デモで使う看板の文言を書かされたとき、「もっと大きく、太い字で!」とよく言われたことを覚えている。
吉郎さんから衣笠新聞の話を聞かされたとき、面白そうだと思ったものの、前向きになれなかった。というのも当時は感染症の流行の真っ只中だったこともあり、生活にあるべき余裕が全くなかったからだ。とにかく一日中マスクをして、電車など公共交通機関の中では咳やくしゃみをすることすら憚られる空気が流れていた。そのような気が滅入る環境でも新しいことをしようとした吉郎さんの気力には驚かされる。いずれにしても、それ以降衣笠新聞の話は保留状態になった。
それからもしばらくは支援者として京都市内の様々な場所に足を運んだが、その年の夏頃に吉郎さんの体調が急変し、入院することになった。回復祈願のメールを送ったとき、いつもメールの返信が「謝謝」だったのが「謝」のみだったことが気がかりだったが、すぐ帰ってこられると当然のように思っていた。しかし吉郎さんが戻ってくることはなかった。
年が明けてCOVID-19は指定感染症でなくなり、街にはマスクをしない人々もちらほら見かけるようになった。入国の規制も緩和され観光客で溢れる京都が戻りつつある。だがこの日常を取り戻す前にいなくなってしまった人々もいる。そのような人々の希望を引き継ぐことが生きている人間の役割の1つであるとするならば、自分にできることは衣笠新聞を形にすることなのではないかと思う。