金魚売り
金魚から見えるもの
わたしは誰かと問われた日
蛇のとぐろに、嗚呼 そういうことかといまわのきわにおもう。
わたしはテーブルのうえ、料理を食べる選択をする。いや、正確には料理とすらいえない代物やもしれず。ただ、その料理がわたしであると理解していたんだ。 フォークに刺したそれを鼻先に近づけてみると、幽かに青くさい。若い青麦のにおいがする。 それは生まれたにおい。 耳のない猫が言った。 生まれたにおい。それを聞きながらわたしは、躊躇うことなく口へと運ぶ。生きていた、死んでいたより、それはほんとうに生まれたにおいの味がした。 わたしの恍惚に耳のない猫は、満足げに耳のない
日常から非日常へ移り変わるとき、誰もの脳が錯覚を起こさせる。それを正常化の偏見と呼ぶ。これは本能の防御。人間は、いつなんどきも日常から学び、それを超えたときから安らかなるセロトニンは減少を辿り、たちどころに暴君アドレナリンが起爆する。ここで初めて脳内では緊急事態宣言が発動される。(別称を逃げちゃダメ宣言) そうして起爆のち操縦不能の状態を繰り返していく。責める、攻撃、攻撃、落胆。防御とは名ばかりのものが続く。当然に、負う傷ばかりの非日常から学びはなかなか訪れない。思考停止状
雨が降ってきた。それは、こんにちはと言うんだ。けれど、道行くひとびとには気づけなくて、それはだんまりとひとびとの肩にのっただけ。 のっただけのそれに、 肉屋の裏の猫が最初に気づいたみたい。 猫がそれを囲うんだ。 寂しかったね、猫はそれに気づいただけ。 軈て、 まだまだ風の吹くころには、遠くに運ばれてまた肩にのり、それでも気づかれず。知らない国を旅した。いつしか、ひとびとがそれに名前をつけるころに、 ようやくと哭くんだ。 ほんとうに長い道程の果てだった。けれど、それ
両親の名前が違うと子供が苛められて可哀想という優しい方々は、両親の名前が違うときっと自分は子供を苛めてしまうと確信している優しい方々なんだろうなと思う。苛める理由になるというのがよく判らないが、もしそうなら別姓が多数派になったら同姓を苛めたりするのだろう。 解釈に至らない。求む
それは、耳のない猫である。 死んでいたんじゃないかな。 そう言ったのは紛れもなく耳のない猫だった。 死んでいた、それは生きていたことを示唆するものだ。それをまるで昨日は晴れていた、とでも言うように宣う猫。 その猫のひげを爪弾く女と、本体がどちらかを熟思うとでも云わんばかりのひげがジヨン、ジヨン、ジヨンと掠れる。 召し上がれ。 女が猫のひげを爪弾きながら呟いた。 そうであるなら、甘んじてみるのが人の性と思うことしかり、わたしは遠く、遠く脳裏からもテーブルか
蕁麻疹、鼻喉いたい。これは花粉になく、 黄砂やな。愛知県に来て初めて身近に知った黄砂。まさかの花粉症軽減。あとアホみたいにむし暑い梅雨には馴れたよ。ふたむかし朝の満員電車、あたりまえみたいに子連れ通勤やったけど、車内は優しかったな。いつから変わったのかな。いや、世間一般に言うほど愛知県は変わってないんじゃないかとさえ思える。いろんな意味で陸の孤島更新中。個性とはよくいったもの。 当時、幼かった息子は毎日電車に乗れて、それがたいそう周囲の上品なお友達から羨ましがられ嬉しかっ
女の罪があるとするなら、それは美しさの所以。 砂糖漬けの猫が目の前の皿にあったとしても、それすら女の美しさひとつになってしまうだろう。 女の目の端に映る猫の模造のように、間口に突っ立つわたしから女が目を落としたテーブルは、凡そなにがどうにも不釣り合いな部屋造りのなか、猫足の椅子とともに据え置かれている。 にゃあ、と女が鳴いた。いや、鳴いたのは、 わたしの心臓のまえに取分けられた猫の耳だった。嗚呼、わたしも皿のうえ、美しさにあったやもしれず。そのような迷妄に
白黒パンダが正しいとは限らない。けれど、 概念は白黒パンダが可愛いという。 黒白パンダの比率を思うと違和を感じる。それだけだった。 白熊、黒熊、灰色熊。 パンダは熊猫で、熊なのか猫なのかすらわからない。 人間が一種に尽きないと、それだけのことだのに。 可愛いとか、違和とかに終わる。 わたしの白黒模様は、わたしの概念でパンダ。 判別するのは他者で、わたしの概念はパンダ。 よしんばクリムトが概念であるなら、、それは デカダンスにして、地球外へ飛ばされるやもし
雪のした温もる土に咲く水仙がいた。 或日の雪を解かし、陽のもとに生まれ出づればそれは一鳴きニャアという。 無論、猫ではない。 水仙は鳴く。真実を知るなら厳冬の雪を割り、耳を澄ませてみるといい。びょうびょうと吹く北風に負けぬよう。 のちに冬の扉を叩くひとありて。扉をそろりと開ける白い指と真綿の紬が覗く。雪女、そのような今は昔の世俗を語り継ぐわけでなく、ただの女であろうものだ。 しかし、奇妙だ。 女の手はどう見ても随分と下方にある。逆立ちでもしているというのか。ま
新聞の片隅、ラジオのひとつまみ、吹けば消えてしまいそうなことを願いたい。 今日も、明日も、一昨日まででも。ねえ、 見てるよ。聞いてるよ。届いてるよ。 死なんて、自然に委ねればいい。 そんな時間はカップ麺を待つほうがいい。 三分経っても熱いんだ。 熱いなって、誰に伝えるわけでもなく。ただ熱いなって、ちょっと笑ったりしてさ。 コンビニの煩い灯りも、山奥の寂しい街灯も、あす電気の消えた部屋でも、 夢もありゃしないとか思うまえ、三分前。 三分あったらでき
失っちまったものを考える背中は、錯覚に生きるようなものです。 どぜう喰いし、おもふところありて。 泥寧とは流れを遮る。 鴨なら飛びますので、 鴨におなりなさいよ、といふものありて。 であるなら未来は葱とif。 どちらにせよ、ろすとなり。 隣人を愛せよ。 それは匂ひ喪失である。
夜な夜なにはとおい。 真夜中の自転車練習。 田舎のそらは、ちゃんと星がある。 不思議なことにそらは廻る。そらになく、脳が廻るらしい。 冬扇の寒さ。 百折不撓までの道のり。
病院から出るのがこわい。 出たらそこは月面かもしらん。
今年のクリスマスプレゼントは、ツリーのてっぺんの星。海月と並ぶ。
枕木のなんたるを知らせるトンネルとは、枕木のあった所以を継いだトンネル。 トンネルのむこうがわとは、一方ならず。 ひとはおおく理に走らせるも、それは所以より無為自然だった。 ただ、称えるものがある。 こゝろ逡巡とは、示唆に価する。 最期は手折るのだ。 むこうがわには、ひと一人ぶんが待っている。 空ふる山の川のさきには海ありて、つづくもの。