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#2 "認識"と現実の乖離
NHKの『SWITCHインタビュー達人達』で、『バカの壁』で有名な解剖学者の養老孟司と、ジャズピアニストの山下洋輔が対談していた。
その中でも印象的だった話が、解剖とは、もともと何なのか?…とゆー山下の質問に対して、養老個人の見解として、"自然物に名前を付けていく行為"だと答えたトコロ。
そうすると、人はわかった…というようになると。
そうすると、安心すると。
たとえば、なんだか、ワケの分からない痛みに悩まされてる人が、それは「坐骨神経痛」ですよ…と言われると安心する…みたいな事が、誰しもあるだろう。
それは、逆に言うと、既に名前の付いてるもの、既に認識されているものに対して、いかに我々が依存して生きているか?…とゆー事であろう。
さらに、"名前を付けるということは物を切る"ということだとも言っていた。
1個のものでも名前を付けると切れる。
たとえば、消化管は口からおしりまで1本の管であるが、はじめが口腔で、次が食道で、次は胃…とゆー具合に名前を付けると、そーゆー風になってくる。
たとえ、胃と食道の境目が分からなくても…。
つまり、そーした解剖や、名前を付けるという行為は、"人の体を脳ミソに翻訳する"…とゆー事だと…。
解剖は名前を付けるということから始まった行為…だから、具体的に切るのだと。
"切る"という行為と"名前を付ける"という行為は不可分で、世界をバラバラに切っていく…それが"認識"であると。見えるものを意識化していく、言語化していく行為だと…。
ーすなわち、リアルな現実、リアルな世界は切れない。
脳ミソに翻訳された、認識された現実や世界は、リアルな現実やリアルな世界とは乖離したものだ…とゆー事だろう…。
人は、世界を切り取ることでしか、認識できない。
『遺言。』という著作で養老は、頭で考える意識ばかりにとらわれず、こころやからだの感覚に身を委ねてみてはどうか?…という事をなげかけたという。
今という時代への遺言だそうだ…。
「われわれは感覚で
いったいなにを まず
とらえているのだろうか。
それは世界の違い、変化である。
なにも変化しなければ、
たとえば
なにも音がしなければ、
耳は動かない。」
ありのままの感覚を研ぎ澄ませることで、世界は違って見える。
"いま"という時代ーそれを脳ミソで認識した瞬間、"いま"は、既に"いま"ではなくなっている。
ありのままを、ありのままに…。
それを認識できるのは、こころとからだの感覚だけなのだろう…。